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【短編日記小説】#4 足を延ばせば 

 曇ってはいても明るい空。少々生暖かくとも、腐っても風は風。風が雲を動かすとは言うが、窓外に見る煙のような綿菓子のような、或いはサンタクロースの髭のような、幾重にも積み重ねられた白皙たる積雲達の行進には、どこか自発性が感じられる。
 雲間から差し込む一筋の光芒は、hの家の真正面に建つ工場の、急勾配なトタン屋根に反射され、彼が住まう居間へと容赦なく降り注ぐ。それでも窓やカーテンを閉めたくはない彼は、休日という事もあって、好きなウォーキングをしようと、気まぐれにも衝動的に家を出て行く。少なくともウォーキングには適していないであろう、ゴミ出し等、家の周りを歩く分にはおかしくない、普段着という恰好にて。
 几帳面で神経質な割りに大雑把でもあった彼は、僅か二三百メートル歩いた所で、早くも失敗に気付く。歩数を計る為の携帯電話ガラホは持っていても、そのポケットにはハンカチの一枚も入ってはいない。汗かきであった彼の頬には既にして、大粒の汗が流れ始めている。それを殆ど肩であるTシャツの袖で、小学生のように拭い、恰も数十kmという距離をジョギングしたかのような疲弊した面で体で歩き続けるその姿は、自身滑稽にしか思えなかった。
 気が利いて間が抜けているとはこの事か。それでも敢えて家には戻らず、直向きに前進を試みる自分に、賛美を送りたいhでもあった。
 彼の自宅から須磨海岸は近かった。距離にして凡そ2km足らずか。相変わらず車は多くとも、歩行者の少ないこの道は有難い限りで、ながらスマホに傾倒する、憂わざるを得ない現代人に、余り遭遇しなかった事も幸いに思えた。
 久しぶりに訪れた須磨海岸は、家の近辺と同じく、工事現場だらけだった。何処から海岸に入って良いのか判らない程であったが、そこは準地元民たる叡知。その身体は自ずと砂浜へと赴き、遠くまで見渡せる景色は、彼の目を保養し、そして大きく見開かせてくれるのだった。
 ハワイやロサンゼルスでもあるまいし、須磨海岸などに大型のリゾート施設を建てた所で、どれだけの効果があるのだろうか。景気の回復や向上の仕方を間違っているという意見は、唯に古臭いと淘汰されるのか。
 そんな愚痴を景色に溶かしながら歩き続けること数十分。何時しかその足は赤灯台を超えて、JR須磨駅辺りにまで及んでいた。
 本来なら赤灯台でUターンして帰っても良かったのだが、歩数はたったの3000歩と、如何にもお粗末に感じられたので、もう少しでも歩数を稼ごうとした結果がこうであった。
 歩く事自体は好きでも、元々骨細で特に腰や膝が弱かった彼は、もうここで十分だと満足し、身体を反転させて来た道を戻ろうとしたが、過ぎても残る、淡くも鮮明な、幼い頃の思い出に郷愁をそそられてか、更に先まで足を延ばす。
 須磨駅を通り越して二三百メートル行った所辺りで、綺麗に舗装された道は途絶え、そこからは山道のような砂浜と、松に囲まれた林道とが、展望を開いていた。
 砂利が敷き詰められた松林に、陽を逃れながら歩くhの汗は、いつの間にか引いていて、その代謝のバランスと血色は殊の外良好に思われ、落ち着きの中にも躍動する探究心は、その林道をも超えた、まだ微かに朧げにしか映らない、海釣り公園へと向けられる。
 
 歩道のない砂浜を少しく歩き、これまたいつの間に施工されたのか分からない、本来なら海底に沈んでいる筈の大きな岩礁が、無造作に敷かれた、少々危険な道なき道。足許に注意を払いながら、その岩を飛ぶようにして進み行き、漸く辿り着いた海釣り公園は閉館されて久しく、入口辺りに置いてある、稼働していないカップラーメンの自販機が、撤去されずに虚しく立っている様は、昼間に覚える寂寥をhの胸に吹かせる。
 ただジュースの自販機だけは今も尚稼働しており、そこで二つのコーヒーを買った彼は、先程から気になっていた、遠目でしか見えなかった、波打ち際近くの階段で坐っている、一人の男の許に無意識裡に近寄っては、そのコーヒーを差し出して、休憩とするのだった。
「こんにちは。これどうぞ」 
「いや。すいません。頂きます」
 恭しくも遠慮なくコーヒーを受け取ってくれた男との会話は、山登りや釣り人の同士の間で交わされるような、気さくな言葉のやり取りで始まる。
「しかし暑いですね。もう梅雨は明けたんですかね?」
「今年はもうそろそろ明けるやろな。まだ来年再来年と続く訳やが」
「それもそうですね」
 帽子を被っていた所為で良く判らなかったが、その口調や渋い顔つきから想像するに、男の年齢はおそらくとうに還暦を過ぎていると思われる。老若男女を問わない、人が人として備える、先天性ある気質にこそ、事の本質を見出さんとするhの未熟な哲学は、その男を嫌わずに、寧ろ好意を以て接し続けた。
「向こうには新しい施設が次々に建てられ、こっちの海釣り公園なんかは放ったらかしなんですね。やはりお上のやる事は、自分ら底辺には理解出来ませんわ…」
「ま、そういう事やな。でもそれもええやろ。諸行無常とも言うし、原型を留めるものなんか、この世に一つもないでな。ちゃうか?」
 いきなりこのような固い話から入ってしまったhの額には、また汗が滲み出した。心身一如とはいうが、彼の身体と精神はどうあっても切り離す事が出来ないのだろうか。これではまるで金属の如く比熱の値が小さく、余りに直情的に過ぎるのではなかろうか。そのような赤子の如き性分で、これから先生きて行けるのか。
「確かにその通りですけど、でも自分は、やっぱり昔を懐かしんでまいますね。それはそこまで悪い事とも思えませんがね…」 
「という事はあれか? 自分は歴史が好きなんか? 昔に拘っとんやな?」
「まぁ~、歴史好きではありますけど、賭け事も好きですよ」
「という事はあれか? わしと何か賭けをしたいと?」
「いや。そういう意味でもないですが」
 やたらと「という事はあれか?」というワードを連呼する男の、癖のある物言いは、hの面を緩ませ、その心に和みを与えて来る。そんな彼の微笑を確かめた男が、徐に懐から取り出した、二つのサイコロは、自然と二人に賭け事を勧めるのだった。
 手をダイスカップ替わりにして行われた丁半博打は、意外と面白かった。勝負は勝っては負けての繰り返しで、地味にも思われたが、この灝気溢るる白昼、それも外でする賭け事という、滑稽千万な遊興に戯れている自身に、他意なき冷笑が堪えられない。子供の頃に戻ったように、久しぶりに興奮するhだった。
 レートを設定していなかったどころか、まず実際に金を賭けるとも何とも言わずに始められたこの勝負は、何方が勝ったとも負けたとも言えない、回数を熟しただけの結果で幕を下ろす。
 そしてそろそろ引き上げようとしたhの手に、無言で100円硬貨二枚を掴ませる、やけに若く見える、今日を以て古希を迎える、明朗な男だった。










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