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病気の少年と俳優の邂逅に関する論争について、特撮弁護士が思うこと

正義のヒーローにまつわる話題で、人々が自分の正義をぶつけ合う。
そんなことが実際に起きた。
まるで「仮面ライダー鎧武」の世界のようだった。
※「仮面ライダー龍騎」もライダーバトル中心だけど、個人的な見解としては、鎧武の方がそれぞれの正義がぶつかっていたと感じている。

フルーツのポップな雰囲気に反して、それぞれの正義がぶつかり合うハードな物語

1 ことの始まり

親子の悲劇とヒーローの行動

 とてつもない悲劇、不条理である。白血病のために余命が短い少年がいる。母親の悲しみ、絶望はいかほどか。自分が慈しみ、神経をひりつかせながら守り、育んできた、自分の分身のようで、かつ、生物学的な愛情が理屈なく湧き上がる存在が失われることを受け入れなければならない苦しみは、筆舌に尽くしがたい。
 その少年の母親が、Xにて、少年が大好きな仮面ライダーやスーパー戦隊の力を借りたいとして、「拡散希望」を付して協力を呼び掛けた。
 これに対して、過去に仮面ライダーやスーパー戦隊のメンバーを演じた、または、それらの作品に出演した俳優(「ヒーロー俳優」または「俳優」と呼ぶ)が、応援コメントを投稿するなどして反応をした。
 その反応の中には、「僕にできることがあったら言ってください」「DMでやり取りしましょう」など、かなり積極的なものがあった。
 私もヒーロー好きの子供がいるが、このヒーロー俳優たちの瞬発的な行動にはとても感激した。

親子とヒーローたちに対する批判・意見

 若干危惧はしていたが、上記の俳優たちの反応の後、想定以上に、母親や俳優に対する批判や意見を多く目にするようになった。数だけでなく、批判の種類も想定を超えていた。
 SNSは、法を犯さない限り、本来、皆が自由に利用していいものである。私も憲法を学んだことがあるので、表現の自由の重要性も法律家としてよく理解している。
 SNSに投稿するという手段を選んだ以上、一定の表現の渦に巻き込まれることは、やむを得ないことである。SNSを利用しながら、誰も反対意見を述べるな、応援だけしていろ、というのもまた暴論である。
 しかし、いや、そうであるからこそ、私も意見を述べずにはいられなかった。私は、ヒーローが大好きであり、今回のヒーロー俳優たちの行動は、私のヒーロー像にぴったりの行動だった。だからこそ、他の意見に対して私が思うところも多く、どこかでまとめたいと思っていた。
 既に今回の件は沈静化しているが(批判した人たちももうそのことは忘れている…)、その冷静な状況だからこそ、まとめてみることにした。

2 ヒーローたちに対する批判・意見

不公平

最も多かったのがこの意見・批判だったと思う。
「ヒーローに会いたい子供・大人は他にもいるから、死期が近いからといって特別扱いするべきではない」
「他の子どもたちが会いたいとなったときに会いに行くのか。同じ対応ができる保証がないから会ったり特別な対応をすべきではない」

公平性は、重要な事項だと思う。不公平感は、平等な扱いを受けられなかった人を傷つけるし、ファン離れを引き起こしてしまう。

しかし、死期が近い人間を特別扱いすることまで不公平というのはあまりに息苦しくないかと思う。もちろんその人間の生き様によっては(例えば、人に危害を加えながら好き放題生きてきたような人?)、死期が近いから特別扱いというのはモヤモヤするかもしれないが、少なくとも今回のケースは子供である。若すぎて生きざまも何もない。それ以上に、まだ知らないことがたくさんあり、これから楽しいこともたくさんあったかもしれないのに、それを知ることも、経験することもないまま死ぬかもしれないという状況である。

大人でも子供でも、元気に生きていれば、これからヒーローたちに会うことができるかもしれない。でもこの子は比較して、圧倒的にそのチャンスが少ない。
そのチャンスをその子がもらえないことこそ、不公平ではないか。

「他にも同じような状況の子供がたくさん出てきたら会えるのか」、という意見。確かに物理的にこのような依頼が同時多発的に発生したら、実現することは難しいかもしれない。
この意見は、的を射ている部分もある。
しかし、仮定の話を危惧して、目の前で苦しみ・悲しみに苛まれている人を見て見ぬふりをするということが正しいことなのか。そうじゃないんじゃないか、という問題提起を、私はこれまで特撮ヒーローから受けてきた。

「仮面ライダーオーズ」内のセリフ
「手が届くのに手を伸ばさなかったら死ぬほど後悔する それが嫌だから手を伸ばすんだ」

何かを行うためにリスクを想定して対応することは重要である。特に、人の命や健康に関すること、大きな財産的損失を被るようなことについては、小さいリスクでも避けるべきだと思う。ただ、リスクについて考えるときは、リスクの内容だけでなく、リスクの発生確率やリスクが顕在化したときの対処法の有無なども検討する必要がある。リスクが大きいからといって、発生する予兆もないことを心配していては、何もできないし、誰の力にもならない。極端な話をすれば、1歩でも外に出たら、突然暴走した車に惹かれるかもしれない、暴漢に襲われるかもしれない、雷が自分に落ちてくるかもしれない、飛行機が落下してくるかもしれない、大地震が起きるかもしれない。発生確率の差はあるだろうが、どれもそこまで発生確率は高くない。これらを危惧して外出を控えるのは正しいのか。

そのリスクが「不公平感」の場合は、命の危険などのリスクに比べて、過剰な危惧を採用することはむしろ危険ともいえる。
例えば、医師が、自分なら治せる病気の患者が目の前にいるのに、他の患者にはすぐに対応できないし、同時に多数いたら治療できないから、目の前の患者を見捨てるということはむしろ許されないだろう。
今回の件を医療行為と比較することはやや極端な自覚はあるが、不公平になるから目の前の人の力になるな、というのは、それくらいの無慈悲さとセットであると思う。

今回のケースでは、確かに、同じような状況の子供やその親が同じような行動を起こす可能性は高かったかもしれない(実際には、少なくとも目に触れる範囲でそのような動きはなさそう)。
ただ、行動を起こしたヒーロー俳優は、その場合も可能な限り対応したと思う。彼らの投稿を見る限り、その覚悟はあったと思う。
(そんなのお前に分かるのかと言われればそれまでだけど)

しかも今回は、ヒーロー俳優が動くことで少なくとも、一人の死期が近い子供に喜びをもたらすことができる。
それが分かっていて、不公平だから何もしない。それ自体は、個人の判断であるが、「不公平だから何もするな」は、声を大にしてするような適切な主張とは思えない。

上記で触れたが、実際にそのような動きが起きて、不公平が問題になるような状況にはない。SNSで上記の批判や意見を述べる人々より、現実の人たちは冷静に受け止めているように感じる。

ヒーローの権利は会社のもの

この見解自体は間違っていない。おそらく。
おそらく、というのは、俳優、事務所、制作会社、テレビ局または映画会社等の間の契約によっては異なる場合もあるからであるが、業界の一般的な契約内容によれば、テレビ局、映画会社、原作を管理する会社などが保有しており、俳優個人が作品の権利を保有しているケースはまずない。

そのため、俳優個人が、権利保有者に無許可で、ヒーローの格好をして、ヒーロー名を名乗って営業活動をすることはできない。
無償でも広告活動になるような形だと微妙ではあるが、過剰でなければ権利保有者に損害を与えているとはいえないし、問題になる可能性は低い。

私が知る限り、ヒーロー俳優たちは、あくまで、「●●」に出演していた、または、「●●」を演じていた者だということで活動している。
これは、ヒーローを利用した営業活動ではなく、あくまで俳優としての活動実績を踏まえて名乗っている無償の活動であるから、何ら問題はない。
これが許されなければ、出演実績を何も伝えられず、俳優活動が著しく制限されてしまう。もしヒーローだけそれが許されないとなれば、誰もヒーロー番組に出演することはなくなり、ヒーロー番組自体が廃止されてしまうだろう。

このような俳優の活動を、ヒーローの私物化、権利侵害だなどと批判するのは、見当違いと言わざるを得ない。

少年が会いたいのはヒーローであって俳優じゃない

これは少年に聞かないと分からないことだけど、母親が俳優に助けを求めている以上、ヒーローもだけど、変身者に会いたいという気持ちが少年にもあったのではないかと推測できる。
実際、変身者に会えるって、子供だって嬉しいんじゃないだろうか。
少なくとも、上記のような意見・批判は単なる決めつけであり、俳優を嬲るようなものは不適切な主張だった。

他のヒーロー俳優が反応しているんだから反応すべき

上記の意見、批判をしている人たちも、この主張自体にはかなり抵抗感を示していた。
確かにこれは、個人の自由な意思、活動を、制約しようとするものであり、妥当とはいえない。

あくまで俳優は出演に関する責任を負った契約のみのはずであり、出演後のことまで制約されるような契約にはなっていない。

出演後でも、守るべき一般的道徳観、倫理観、法令などのルールに従うべきだが、それは俳優に限られたことではない。
ヒーローに限らず、演じる役と個人を統一視されて俳優が批判を受けることもあるが、どう考えても理由付け不可能である。

あなたのために言ったのに

俳優や母親への批判を諫めるために、とある俳優が投稿した内容に対して、「あなた(俳優)が間違っているのに」「あなたが大変な思いをしないように言ったのに」という批判があった。

これは応援ではなく、価値観の押しつけ、または、俳優の投稿内容を誤解した行き違いだと感じた。
「あなたのために」というのは、特に家族間で使われがちな言葉だが、他人同士の場合は、まさにおせっかいというか、相手を自分の望む形にしたいために使われることの多い言葉なので、この言葉を使う時点で相手を尊重していない可能性が高い。
また、この俳優はあくまで、苦境にいる母親を苦しめるな、と言っていただけで、全ての意見に否定的なコメントをしたわけではないが、自分への攻撃と受け取って反発してしまっているように思われる投稿もあった。これは受け手がネガティブに受け取ってしまったもので、冷静に俳優の主張を読めば、そうでないことが理解できたはずである。

3 母親に対する批判・意見

そもそも虚偽の投稿ではないか

母親の過去の投稿などを根拠に、これが虚偽の投稿ではないかという憶測を展開する主張があった。
写真の加工方法や、過去のSNS上の行動を根拠とするものがあった。
その中には、意見を超えて、誹謗中傷と取られてもやむを得ない投稿もあった。

これは、ヒーロー俳優が実際に親子に会い、上記意見が誤りであることを明確にして、それ以上の追撃を封じた。これこそヒーローだと思った。

「炎神戦隊ゴーオンジャー」のゴーオンゴールド

上記主張を展開した人で、謝罪をしているアカウントはほとんど見受けられなかった。何の落ち度もない人を苦しめる意見・批判が間違っていても謝罪もできないような人の意見は、今後も聞き入れられることはないだろう。

ちなみに、写真の加工については、漏れがあっただけかもしれないし、過去の行動だって、この行動とは関係ない。過去に、美容などに興味があったら、子供の窮状を投稿してはいけないというのは暴論である。美容に興味がある母親なんていくらでもいるし、SNSの世界だけでも楽しい世界に触れていたい人だっているし、趣味もSNSの楽しみ方も自由である。

SNSで呼びかけるべきではない(事務所やヒーローの権利保有者に連絡すべき)

母親がSNSを利用して呼びかけを行ったことを非難する、または誤りだったと評価するような意見も多かった。

「ヒーローに会いたいならヒーローの権利を保有している会社に伝えるべき。」
「俳優に会いたいなら事務所に連絡すべき。」
これらの意見は確かに的を得ている。
ビジネスや権利のことを冷静に考えれば真っ当な意見である。

しかし、余命の短い子供を抱えている親の呼びかけについて、正誤を追求しなければならないのか。
このような状況の親に冷静さを求めるのか。
私には非常に酷に感じてならない。

もちろん、上記のような状況だから、冷静ではないから、何をしてもいいということにはならない。人の生命、身体、財産などを傷つけるような行為が許されることはない。
しかし、母親は別に俳優から何かを奪ったわけではない。お願いをしただけだ。
これについては、「SNSでこういう呼びかけをすることで、俳優個人に反応を強いることになるから、もっと配慮すべきだ」という指摘もあった。
でも俳優たちも子供ではないんだし、自分たちの行動について自分で考えて責任を取れるはずだと思う。
多少は世間を気にした行動を検討することになった方もいるかもしれないが、この状況の人に、「配慮」まで求めるのはかなり厳しい考えだと思う。むしろその意見や批判は、俳優を追い詰める人に向けるべきであって、この状況の母親に向けるべきものではない。

4 ヒーローたちの言葉

これまでの特撮ヒーロー作品で、今回の事態に対するヒーローのスタンスを表す言葉がいくつか生まれているので紹介したい。特撮ヒーロー作品は、名言だらけなので、以下はごくごく一部である。

手が届くのに手を伸ばさなかったら死ぬほど後悔する それが嫌だから手を伸ばすんだ(仮面ライダーオーズ/火野映司)

名言だらけ

たとえ弱かったり、運が悪かったり、何も知らないとしても、それは何もやらないことの言い訳にならない。(仮面ライダー電王/野上良太郎)

一番人気

優しさを失わないでくれ。 弱いものをいたわり、互いに助け合い、どこの国の人たちとも友達になろうとする気持ちを失わないでくれ。 たとえ、その気持ちが何百回裏切られようとも… それが私の願いだ。(ウルトラマンA)


1974年時点で、現代まで見えていたかのようなセリフ

5 おわりに

正解を言いたくなる世界

Xの世界では、正解を言いたい人が多いように感じる。
「正解を言いたい」は、陰謀論を主張する人や、ネタバレをする人に共通している感覚があると思う。
それらは、自己承認欲求の発露だと感じている。

自分(だけ)は正解を知っている、理解している、見抜いている。
自分(だけ)は陰謀を見抜いている。
自分(だけ)は、皆が知らないことを知っている。
すごいだろ、褒めてくれ。
こういった思いが透けて見える印象がある。

その結果、今回のような投稿を疑うところから始まる。
疑うだけならまだしも、そこにある人の想いより、自己承認欲求を満たすための主張に拘泥し、発信する。
その結果、言う必要のないことを言い過ぎてしまったり、相手の意思や気持ちを無視した主張を繰り返してしまう。

少なくとも今回の件は、仮に虚偽でも、外野の人々が傷つけられるわけじゃないんだから、嘘の可能性のあることに対して、信じる方に賭けてみてもいいんじゃないか。
ただその悲しみや、それに対する決意を見守ってもいいんじゃないか。
相手の状況を慮って、間違いと思えるようなことも受け入れてみてもいいんじゃないか。
せめて、言い方に気を付けてあげてもいいんじゃないか。

正解か不正解で割り切れないことはたくさんあると思う。
その二つしかないなら、正解しか言っちゃいけないなら、それこそ表現の自由なんてなくなってしまう。
(正解か不正解しかないという意見ももちろん自由)

割り切れない余白を認めた方が、自分自身も「正解」に苦しめられなくて生きやすいんじゃないかと想像する。

少なくとも今回のケースだけは、悲しい出来事の只中にいる親子ののために、正論は脇に置いておいてあげるということが、優しい、生きやすい世界を作ることに繋がったんじゃないか。

私の意見として、そういう世界がいいな、と思う。

とある俳優が、「優しさみせろよ」と言ったのはそういうことだったんじゃないかと解釈している。
決して、何も意見を言うな、ということでも、意見を否定するものでもなかった。優しい世界への願い。少なくとも私にはそう感じた。

「仮面ライダー龍騎」に登場した仮面ライダーナイト

みんながヒーロー

今回の母親の投稿に対して、俳優たちの対応は、大きく以下に分かれていた。
・反応しない。
・他の俳優や、自分に対する意見に対して見解を述べる。
・X上で励ましの返答をする。
・DMをする。
・DMした上で直接会いに行き、その様子をXやYouTubeに載せる。
・直接会いに行くが、そのことを発信しない。

一番最後の対応については、作中のキャラクターや、俳優の過去の言動も相まって、非常に好意的に世間に受け入れられた。

仮面ライダービルド

私もこの行動は本当にかっこいいと思った。
作中のキャラクターと同じヒーロー像を貫くなんて、常人にできるものではない。

でも、会いに行ったことを発信した俳優だって、めちゃくちゃすごい行動力である。たくさんのリスクや非難は当然覚悟しての行動だったと思う。仮に覚悟してなくても、そこに突っ走れるだけで十分カッコいい。発信することの前向きな効果もあった。

DMだってすごい責任を負う行為にもかかわらず、行動を起こしていてすごいし、返答も、意見も、それぞれがこの事態に向き合い、行動した結果である。

「仮面ライダーセイバー」に登場する仮面ライダーサーベラ

表面上何もしてない人が、本当に何もしていないかなんてわからないし、何もしない、という選択をしたヒーローだって、色々な状況や想いを通じての行動であり、それだってそれぞれがこの状況に向き合っての行動である。

少なくとも、ヒーローを演じたことがある、という1点のみを持っても、彼・彼女らは私を含めた多くの人と比べて特殊な人生の中におり、それぞれの価値観を持って、これに何かしらの形で向き合ったはずである。
そのことだけを持って、私は敬意を表したい。皆がヒーローだったと思う。

そして、実際に少年と母親が望む嬉しい出会いがあったようなので、それがとても嬉しい。

約50年前の出来事

俳優とヒーローが共に行動した

今回の論争を受けて、過去の新聞記事が発掘された。
今回の論争は、SNSが存在するからこそ起きたものであるが、SNSが存在するからこそこのような記事がまた人の目に触れることができる。
SNSは様々な問題が指摘されているが、有用性もあるものだし、ここまで浸透したものを廃止するようなことは、新しい革新的なコミュニケーションツールが生まれるまでは難しいだろう。

上手に付き合って、優しい世界に向かっていけたら嬉しい。

「天が呼ぶ! 地が呼ぶ! 人が呼ぶ! 悪を倒せと俺を呼ぶ!」

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