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世界に対して好意的でいる勇気

足を蹴り上げると、枯葉がかわいた音で大きく鳴って、隣を歩いていた犬のおつきちゃんが驚いた顔をして立ち止まった。なに? 今の音はなに? 彼女は音の出どころを探ろうと視線を左右に投げて、「なんの音?」とわたしの顔を見る。

「秋の音よ。枯葉の音」

わたしはもう一度、足を大きく蹴り上げる。茶色にくすみはじめたばかりの枯葉が、わたしの靴先にほんのわずかにつかまって、パラパラと宙を舞う。その瞬間、おつきちゃんは走り出す。わたしと彼女を繋ぐリードをありったけ伸ばして、左右に、前後に、駆け巡る。
その小さな身体におさまらない喜びを原動力にして、犬は笑うように走る。私も笑う。溜まった枯葉がバサバサと祝福の音をあげて、風がゆるやかに去って、その白い身体に山ほど枯葉をくっつけながら、彼女ははじめて秋を知った。

おつきちゃんは、まもなく生後9ヶ月になる。
家に来た頃は1キロにも満たなかった体重も4.3キロになり、顔つきはすっかり成犬に近づいて、ふにゃふにゃの綿毛みたいだった毛質もほんのわずかに硬くなった。おつきちゃんの犬種である「ビションフリーゼ」は、「巻き毛のマルチーズ」という意味らしく、成犬のビションフリーゼはだいたいがクルリと丸まった毛を持つのだけど、彼女の毛も同じようにところどころくるりと小さな渦を巻いて時を刻んでいる。

彼女はずいぶん、賢くなった。
夫が「さえちゃんはどこ?」と聞けばわたしのところへきちんと来るし、わたしが「そろそろ帰ってくるよ」と彼の名を言えば、玄関のほうを見てじっと待つ。「おでかけする?」と聞けば自らリュックへ入ってスタンバイをして、「そろそろ寝よっか」と言えばトイレを済まして寝室へ向かうこともある。先日、山口県の実家に彼女を連れて帰ったのだけれど、新幹線に乗っている4時間半、不安そうな顔を時折見せながらも「さえちゃんがいるなら大丈夫」と信頼の眼差しで耐え続けた姿には、ほんのすこし泣きたくなるくらいの健気な賢さがあった。

以前も書いたけれど、我が家にきて半年以上が経っても、やっぱり彼女は勇敢で、好奇心旺盛。
まったくと言っていいほど、物怖じしない。はじめての場所でも尻尾はくるりと上を向いたままだし(尻尾をおなかのほうへ入れてしまうのは"怯え"の証なのだけれど、わたしは彼女の尻尾が怯えているのをまだほとんど見たことがない)、外へ一歩出るとずんずん歩いて、見かける人と犬に片っ端から挨拶をする。時に、不用意に近づいた犬に激しく吠えられたり、威嚇するように噛みつかれることもあったが、怯えるわたしを他所に、彼女はけろりとしているのだった。「ああ、びっくりした〜。さ、いこっか」とわたしを見上げて尻尾をふりながら歩くその様子には感心してしまう。なんて勇ましいのかしら。世界に対して疑いを持たず、たとえ嫌なことがあってもそれが永遠に続くとか、きっと他の犬も同じに違いないとか、また同じ目に遭うかもとか、そういう疑いを持たない犬なのだ。なにごとも”同じもの”はなく、変わるのだと知っているのだと思う。同じ犬に会っても今日は吠えないかもしれないと期待してまた近づくし、また噛みつかれそうになっても全然気にしない。嫌な犬がいても、そのまんま受け止めて自分は愛を差し出す。格好いい。

家ではわたしにぴったりとくっついて、トイレへ行ってもキッチンへ行っても、どこへ行ってもついてくるくせに、ドッグランに行けば1人で走りだす。ここでは自分が思うように楽しんでいい場所だと知っているのだ。はじめの頃は、他の犬の誘い方がわからずに1人で走っては誰もついてきていないことに気づいて「ありゃ?」と立ち止まるような子だったのに、今では他の犬を遊びに誘って、何匹も引き連れて走って、上手に障害物を使いながら鬼ごっこもできるようになった。

ずいぶん賢く、ずいぶん大きくなった。

それでも彼女はまだ、冬を知らない。
冬が近づくたびに、そのことを思う。まだ冬を見たことのない生き物。そのまっしろな命に、いつもちょっとだけ泣きそうになってしまう。

秋の真っ只中を歩きながら、わたしはその後ろ姿に声をかける。

「あなた、まっしろな命ねえ。まっすぐで、まっしろで、世界に対して好意的ね。簡単なことじゃないのよ。すごいことよ。」

世界に対して、好意的。それが彼女の持つ才能だと思う。わたしはこれまで実家で3匹の犬と暮らしたことがあるけれど、やっぱりそれぞれが持つ才能は異なるもので、おつきちゃんの才能は、圧倒的に、世界に対して好意的なところ。
ただでさえ犬には、基本的には過去や未来のことを考えたり憂いたりする性質はないらしく、あるのは「今日」だけらしいのだけど、今この瞬間を味わって、目の前にいるわたしを見て、わたしからもらう愛を全身で受け止めながら、同じように世界を愛しつづけているなんて簡単じゃない。愛するのも愛されるのも、心の器が必要だ、と常々思うからこそ、わたしはやっぱり彼女に感服してしまう。特に、世界を愛して無条件に受け入れ続けるのは、難しい。

どちらかと言えば、わたしは世界に対して懐疑的なほうだった。だった、というのは、最近はどちらでもなくなってきたからなのだけど、とにかく昔はまちがいなく懐疑的であった。幸せは長く続くわけがないと決めつけたし、一度嫌な思いをすれば、二度その思いをするのを前提として「こんな思いをしなくて済むようにしたい」と予防線を張った。嫌われている気がしたら傷つかないためにできるだけ近づかないようにしたり、未知のものを前に考え込みすぎたり、無闇に人を信じ切ったりしないのは、世渡り上手のフリをした、ただの怖がりなのだろう。

だからさ、

すごいな、すごいよ。
どうしてもいてもたってもいられなくなって、彼女を散歩の途中で抱き上げて、おもわずキスをした。散歩が途中で中断されても、突然抱き上げられても、おつきはただただわたしのキスを受け止めていた。

地面へ下ろすと、何事もなかったようにけろりとして「さ、いきましょう」とわたしを見上げて、なんにも怖がらずに前へとすすんだ。わたしは、彼女に手を取られるようにして、冬に向かって歩き出す。

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