見出し画像

満ちていく(産後1ヶ月)

子が産まれた。ほんのすこし垂れた目、ツンと尖った鼻、まあるい鼻の穴、富士山型の薄ピンクの唇、白い肌に浮き出た青い血管、目をあけるとすっかり隠れてしまう短いまつげ、薄茶色の産毛のような髪の毛、あまさと汗臭さが混ざったちいさな男の子のにおい、ぎゅっと握りすぎて汗ばんだ手、かすれた泣き声。そのどれもが、1か月前まではわたしのお腹の中にすべておさまっていたなんて、しんじられない。

出産のことを事細かに書こうと入院中は山ほどメモを取っていたくせに、それらをまとめるような時間はなく、それどころか、子の命を繋ぐだけでいちにちが終わってしまう。産後1ヶ月がこれほどまでに慌ただしいものだとは思わなかった。まだほとんど目が見えない生後1ヶ月未満の赤子にすることといえば、授乳と、オムツ替えと、沐浴と、あやすだけ。たったそれだけ。たったそれだけなのに、ものすごく忙しくて、自分の時間はまったく無い。

ねむたい。つらい。すこしやすみたい。産後のダメージも相まってそればかりを願っていた1ヶ月。恵まれたことに、夫をはじめとして家族の助けを得られているくせに、「身体がどうにかなってしまう」と思った夜がなんどもある。

「つらくても、自分の時間がなくても、見返りなんていらないと思えるほどに、子はかわいいものですか?」と未婚の方に聞かれたことがある。答えはすこし迷う。まだ子のことをよく知らないし、子はなんの反応も示さないので、いわゆる"褒美"となりうる笑顔や言葉掛けもない。「自分の時間がなくてもいいの。わたしは親だから」と手放しで言えるほど、まだ親業も染み付いてはいない。

子はもちろんかわいくて愛おしくて仕方がないのだけれど、「かわいいから世話をしたい」というのとはちょっと違う。なんというか、子を眺めていると、(こういう言い方はおかしいかもしれないけど、)不憫になるのだ。ここちよかったお腹を出て、重力がどっしりのし掛かる世界へと生まれ出て、呼吸も自分でしなければならないし、臍の緒から栄養を補給できていた頃とはちがって、おなかもすく。乳は必死で吸わなければ出てこない。排泄は気持ちわるく、反射で激しくバタバタと動いてしまう手足のせいで、ねむりたいのにねむれない。なにひとつ、自分ではできない命。それを前にしていると「かわいいから世話をしたい」というよりも「かわいそう。なんとかしてあげたい」と強く思う。

できる限り、おなかの外を好きになるといい。
できる限り、わたしたちに安心するといい。

その気持ちで、どれだけ眠たくてもどれだけ腕が痛くても子を抱きつづける。

わたしもかつては不憫な状態で生まれ出て、自分に手足があることさえ知らず、泣くことしかできなかったはずで、抱きかかえてくれた母は「やすみたい」「つらい」と半ば泣きそうになりながら、甲斐甲斐しく世話をつづけてくれたはずである。

でも、わたしはその時間のことを知らない。

同じように、わたしの息子も、この時間のことなどすっかり忘れて大きくなっていく。子守唄を歌いつづけたこと。明け方にねむたい目でこっくりこっくりと船を漕ぎながら授乳したこと。簡単には出なかった母乳。涙目になりながら咥えさせた乳首。腱鞘炎のように痛む手。

彼はこの時間をなにひとつ記憶せずに、大人になっていく。

子が産まれてから、犬はすこしさみしそうにしている。1年前から一緒に暮らしている犬の”月”は、子が退院した初日は嬉しそうに付け回し、泣いていると見上げ、抱っこで近づけてやれば尻尾を振って頭を舐め回していたけれど、やがてその存在にも慣れてきたのか、さほど反応を示さなくなった。足元で丸まって、おもちゃを咥えたまま構ってくれる時間をじっと待つ姿をみていると、切なくなる。片手に子を抱えながら片手で遊ぶときもあれば、やっと子が寝たところで犬と遊ぶこともある。でも、そんなふうにできる限りの時間を犬に捧げていても「まっててね」「あとでね」は、増えてしまった。

それで先日、両親に子を預けて、ふたりで散歩に出かけた。

月は、なんどもなんども、わたしを見上げていた。

「うれしいの?」

彼女は、口をあけてにっこり微笑むようにして、わたしを見上げる。1時間弱の散歩を終えて家に帰って、すこし一緒にねむった。彼女がその数時間で満足したかどうかはわからない。それに、一説によると、犬は「過去」や「未来」のことを考えたりはしないらしい。あるのは「いま」だけ。だとすれば、月とふたりきりで散歩をしたこの時間も、彼女はもう忘れてしまったかもしれない。

犬と過ごす時間も、子を抱きつづける時間も、彼らにとっては忘れてしまう時間なんだろう。それでもどうして、一生懸命になれるのだろう。

むかし、母に「親って大変だね、どれだけ大変な思いをして赤ちゃんを育てても、子供自身はちいさいころのことなんて覚えてもないんだもんね。切ないね」と言ったことがある。親というものが報われない生き物のように感じたのだ。母はピンとこなかったようで「切ない?」ときょとんとした後に、「お母さんは楽しかったけどな」と応えた。

そのときは母は見返りを求めない立派な人なんだなと思ったものだけれど、今ならわかる。

子や犬を愛すること。それが彼らにとってどれほど嬉しいことかなんてわからない。何をすれば満たされるのか、何を考えているのか。何もかもが不確か。

でも、

わたしは、愛することで、満ちていくから。

だれかに愛されることよりもずっとずっと強いなにかが、心をひたひたにしてくれるから。

見返り、という言葉はやっぱりちがう。泣いている子を抱き上げる。泣き止むまで歌をうたう。犬を撫でる。疲れた身体であそぶ。その瞬間、わたしが満たされている。


子が泣く。夢のなかから暴力的に引き戻されて覗きこむと、ちいさな唇をぱくぱくさせながら、おっぱいを探して右へ左へと顔を動かしている。時計をみれば、眠ってから1時間しか経っていない。

彼を抱いて、ソファに座って授乳をはじめる。窓の外は青く澄んで、朝がまもなくやってくる気配が漂っていた。子は、身体に似合わない強さで乳首に吸いつく。「浅く咥えたら痛いよ。もうすこし、上手に飲んでよ」。伝えても彼はやめない。痛みで顔をしかめながら彼を見ると、数週間前よりもまつ毛がほんのすこし伸びているのがわかった。

ちいさな窓の外で、世界が徐々に目を覚ます。子が乳を飲む、ごくんごくんと音がする。

この時間。この感覚。これはわたしだけが知っている、特別な記憶に変わるだろう。何年経っても誰にも奪われることのない、わたしだけの、つらくてねむくて、あまりにも幸福な記憶。産後1ヶ月。満ちていく。

画像1


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?