【百人一首】(今はただ/六三 ・左京大夫道雅)
【解釈】
この歌の背景などまったく知らず、「もう君を恋しく思うのをやめる」とわざわざ会って伝えたいだなんて、何だかめんどくさい男だなと思っておりました。
女子からしたら、いや知らんし!みたいな感じだろうに、フラれた相手に未練がましく最後にもう一回会いたいみたいな話だとばかり思っていたのです。
しかしそれは大きな誤解のようでした。
出典は「後拾遺集」恋三 七五〇。
詞書を読むと事情は全然違って、無理やり仲を引き裂かれた二人だったのですね。めんどくさいとか言ってごめんなさい。
作者は左京大夫道雅、藤原道雅(ふじわらのみちまさ)です。
関白・藤原道隆(みちたか)の孫ですが、時代が変わって父・伊周の代から不遇となり、政治的には恵まれることなく生涯を終えました。
前任の斎宮であった当子内親王(とうしないしんのう)と恋に落ち、人目を忍んで通っていた道雅。内親王の父であった三条院はそれを許さず、見張りをつけるなどして二人を会わせないようにしたと言われています。
神に仕える身であった斎宮の頃ならともかく、もう退任して自由に恋愛できるはずなのにずいぶん厳しい対応だと思います。
そんな時に詠まれたのがこの歌でした。
最後だから、もう君をあきらめるよとせめて直接会って伝えたい。
事情が分かると、この歌を詠まずにはいられなかった道雅の切なさがぐっと迫ってきます。
「今はただ」「とばかりを」「もがな」と、言葉のはしばしに思いつめた様子がうかがえます。
なお、当時17歳くらいだった当子内親王は失意のうちに出家し、さらに23歳の若さで病死しています。
そんな悲恋の歌だったなんて知らなかったな。
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