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【百人一首】(わたの原/七六 ・法性寺入道前関白太政大臣)

和田(わた)の原こぎ出(いで)てみれば久堅(ひさかた)のくもゐにまがふ沖津白波
(七六 ・法性寺入道前関白太政大臣)

【解釈】


大海原に船を漕ぎ出してみると、よく晴れた空の向こう、遠くに白い雲が浮かんでいる。沖合には白い波が立っている。雲と見まちがえるほどの、目に鮮やかな白さがまぶしい。

青い海の美しさが三十一文字いっぱいにあふれた、陽キャな歌です。
「太陽の季節」系の世界観。ちょっと例えが古いかな。

出典は「詞花集」雑下 三八〇。
詞書によると、崇徳院の前で行われた歌合せで「海上遠望」というお題のもとに詠まれた歌です。

作者は法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)と何やら長い名前ですが、藤原忠通(ふじわらの・ただみち)のこと。12世紀前半を生きた人です。

ダイナミックで明るくて迷いがない。スケール感があって美しいのですが、クリアすぎてまぶしい。陰の要素がカケラもないのがすごいです。藤原氏のトップで関白にまでなった人の歌、という感じがします。

この藤原忠通の歌の元ネタとして、百人一首の11番で小野篁が詠んだ

わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人(あま)の釣り舟

があるということは古くから指摘されてきました。

ただ、オープニングが同じでも、歌の趣はずいぶん異なります。

小野篁の歌は、もの悲しくてさびしい。
流刑地である隠岐へ流される時に詠まれた歌なので当然と言えば当然だけど、このふたつの歌はあまりにも違うな、と思います。

どちらも美しくて完成度の高い歌だけれど、どちらが好きかと言われると何だか極端すぎて悩ましい。
もの淋しさをほんのひとさじ、くらいにしてほしいものです。

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