ただの「まる」でいいと思うんだけどな
先日、音楽番組を観ていたら、よくある「昔のお宝映像VTR」的なやつで、玉置浩二の映像が流れていた。
割と懐メロは好きだし、玉置浩二の昔の映像を初めて観たわけじゃなかったのだけど、どこか引っかかった。
あれ?めっちゃメイクしてるじゃん、と。
私が観た玉置浩二は、まぶたにパープルのアイシャドウを塗り込んでいて、目尻にはくっきりと黒いアイライナーを引いていた。
「男性もメイクをする時代」とか「女性らしく、男性らしく、とか面倒よね」みたいな声にまみれて過ごしてきた私の中で、なんだかバグが起きている感じ。
玉置浩二の映像を観た年配の人は「あら〜いつ観てもかっこいいわね!私が若い頃はみーんな玉置浩二の大ファンだったのよ。歌上手いわ〜」と言うのに、氷川きよしの最近の映像を観ると「この人はLGBTなの?」と聞いてくるのは、なぜなんだろうか。
最近はネットやSNSが普及して、メイクをする男性を良くないように思う人たちの声が大きく聞こえるようになったからなのか?そういう人はみんな玉置浩二のことを「なんで男なのにメイクしてるの?」とか思ってたのだろうか。それとも、昔の方が「多様性」に寛容だったのか?
もしくは、「LGBT」などのマイノリティと呼ばれる人たちに関する啓蒙活動のおかげで(せいで?)、カテゴライズしないと気が済まない人たちが出てきてしまったのだろうか。この人がレズビアンで、この人がゲイなんだよ、なんて、教えてもらわないとなんだか気持ち悪くなってしまうのだろうか。
もしそうだとしたら、見方によっては色々なものが寛容でなくなり、一人一人の支配欲みたいなものがひどく強くなってしまっているなぁと思う。
昭和の時代に世間の人々が玉置浩二やジュリーのことをどう思っていたのかは知らないし、玉置浩二やジュリーや氷川きよしのセクシュアリティなんて私は知らない。歌は好きだし歌手としての興味はあるけれど、セクシュアリティに対する興味は、さほど持ち合わせていない。ただ、過剰にそこを追及したがる人たちの存在に、違和感を感じてしまう。
カテゴライズは、厄介なものだ。
自分で「ライターです」と名乗るとき、なんとなーく居心地悪い感じになってしまうのは、英語の"writer"にはもっと広い意味があるのになぁと思うからかもしれない。自分が書いた記事の最後のクレジットに「取材・文」と書いてあると、「そうそう、私がやったのは”ライター”じゃなくて、”取材して、文を書いた”ということなのよ」とストンと腹落ちする。
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昔、「こどものおもちゃ」という漫画が大好きで、しょっちゅう読んでいた。その「こどちゃ」に、おそらく単行本にだけついていた番外編だと思うのだけど、登場人物の幼い頃を描いたスピンオフが収録されていたのを覚えている。
一つだけ、とても印象的なストーリーがあった。
「羽山秋人」という登場人物が幼い頃、複雑な家庭環境や親からの心無い言葉たちにひどく傷つき、心にトゲを生やしていく。生まれたての頃の心はまんまるで、ツルッツルのピッカピカだったのだけど、傷つく体験をするたびに、チクチクと1本ずつトゲが生える。そうしてトゲだらけになった心は、人の心を痛めつけることもあるし、傷つけることもある。
けれど、あまりにトゲが生えすぎると、トゲが多すぎて1本1本が見えないほどになり、逆に一回り大きな「まる」になる。いつの間にか、生まれた時のような、ツルッツルピッカピカの卵のような「まる」に生まれ変わるのだ。
とても抽象的だけれど、私の心を掴んで離さなくて。そしてなぜかわからないけれど、玉置浩二の過去映像を観たとき、この「まる」の話をふっと思い出したのだ。
「多様性」という大義名分の元に、これまでは可視化されていなかっただけのカテゴリーが生まれ、みんながみんなをどこかの枠にカテゴライズしなきゃいけないようになって、そのうちカテゴリーがどんどん増えていって、わけが分からなくなって、結果、ひとつの「まる」が出来上がる。
その「まる」は「人間」なんだろうか。「世界」なんだろうか。「地球人」?「動物」?「生き物」?
わからないけれど、それくらいツルッツルのピッカピカの「まる」でいいと思うのだ。
Sae
「誰しもが生きやすい社会」をテーマに、論文を書きたいと思っています。いただいたサポートは、論文を書くための書籍購入費及び学費に使います:)必ず社会に還元します。