【短編】老梅

「梅は咲いたか桜はまだか」
「待ち遠しいですわね」
「……あぁ」
昨年の梅で仕込んだ梅酒を味わいながら、ふたり春雨の柔らかさに慰みを求める。
「昨年が最後でしたわね」
「あぁ。この梅酒の味も、この春かぎりということだな」
「……」
「そう思うと、実に感慨深いな」
夫は眼を瞑り、梅酒を舌の上で転がしながらゆっくりと味わう。
そんな夫から目を逸らして、とろりと舌に纏わりつく梅酒を洗い流すように、妻は煎茶をごくりと飲む。
「少し濃く作りすぎてしまいましたわ」
そう呟いて軽く咳き込む妻。
「そうか?わしにはちょうどいいぞ」
夫はまたごくりと喉仏を心地よく上下させた。
「実に感慨深い」
妻は唇を噛み締め俯いた。
そんな妻の様子を見つめた後、花も実もならなくなった老梅の木を夫は見つめた。
「きっと蝕まれてしまったんだろうな。あの梅の木も」
「すみません。世話が行き届きませんで」
「そうではない。きっと寿命だったのだろう」
夫は自分に言い聞かせるように再度呟く。
「そうだ。やはり寿命なのだ」
夫はまた最期の梅酒を味わう。
「あの梅はもう二度と咲かぬのだろうな」
「……いいえ。咲きます」
夫の言葉の翳りを打ち消すかのように、妻が強い意思で告げる。
「私はまだ諦めてはおりません」
妻の瞳が潤む。
夫は優しい微笑みを浮かべ、梅の老木を見つめる。
「あの梅は人生をまっとうしたのだろうな。だからあんなに堂々としているのだろう。老いとは、そういうものなのかもしれんな」
「……あなた」
「あの梅は諦めたんじゃない。限りある寿命を認めただけだ」
妻の顔を見つめて夫は告げる。
「わしも最期の時を悔いなく謳歌したい」
そう言うと夫は意を決したように、妻のグラスの中身をぐゆりと呑んだ。
あっ、と妻が制する間もなく、そのとろりと濃密な液体が、喉を焼きながら胃に落ちてゆく。
「やはり、本物の梅酒は格別だな」
「気づいてらしたんですか」
「何年連れ添ったと思ってるんだ」
「……そう、ですわね」
妻は自嘲ぎみに微笑み夫を見る。
「浅はかな事をいたしましたわね」
「いや……ありがとう」
夫が妻に優しく告げる。
妻は目頭を着物の袖で拭いながら、梅の老木を見つめる。「しかし認めるとは、何とも難儀なことですわね」
「あぁ……実に難儀だな」
妻は梅の老木を誇らしげに見つめる。
「あの梅の木は、昔も今も幸福なのですね」
「あぁ。きっと幸福だよ」

老いて朽ちゆく梅の木に
優しく纏いて慰む春雨
花も実もならぬ身を
嘆けど認めて終の終まで
我が人生謳歌せんとや

「あぁ……実に幸せだ」







                                                                              ― 完 ―

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