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#48「2023→2024」

前回の投稿から約2ヶ月が経つ。

この間にもいろいろと書きたいことはあったが、書いている途中で手が止まってしまう。
モヤモヤしていることを吐き出してスッキリしたいという思いから文字に起こしてみようとするのだが、結局何がモヤモヤしているのかわからなくなってやめてしまう。


ちょうど1年ほど前は、休職明けで窓際で仕事をしながらも日々見えない何かに不満を抱え、そんな自分にイライラしていた。

その時よりは今の方が仕事としては忙しくて大変ではあるが、日々新しいことに向き合ってそれなりに充実している。

ただ、何か書きたいことがあってモヤモヤしているけど結局手が進まない近頃を振り返って思うのは、当時の方があらゆることに対して熱量があったのではないかということである。


入社2年目、まだまだ若造であることは間違いないが、仕事にも慣れて徐々に自分がやりたいことへの熱量が薄れていることに気づき始めた。
同期を見ていてもそんな温度感を感じ、別の活路を見出した者は潔く次のステップへと踏み出している。

社会においてやっぱり大事なのは、何事もなく平和に穏便に日々を過ごすこと。特に人間関係を拗らせないように、大抵の人間は周囲に対していい顔をする。そこからはみ出す者は周囲の目に留まりつまみ出される。

はみ出し者にもいろいろな種類がいるが、良くも悪くも自分の中の熱量が溢れてしまって、周囲からはみ出してしまっている人もいる気がする。

ここでのはみ出しを、「熱量」と昇華してしまうことが正しいとは思わないが、職業柄、そういう人間でないと頭ひとつ抜け出せないと思った。


先週末、世間はクリスマスムード一色というのに、土日の2日間ほぼ一歩も自宅から出ることなく週末を終えた。
今シーズンイチの冷え込みだったからとか、M-1を敗者復活から全部観るためとか、そういうことではなくて、単純に体が動かなかった。

来年本格的に取り組んでいきたいこと、かなり実現性は低いかもしれないが、当たったら話題になると思う企画を頑張って企画書に起こした。

これも数ヶ月前から構想はあったのだが、忙しさと疲れを言い訳になかなか行動に起こせずにいた。
入社2年目、自分のアイデアがどれだけ実現性や妥当性が低かったり、内容に論理性や説得力が欠けていたとしても、そんなことを気にして動かなかったら何も変わらない。

それをわかっていても前に進まないのだから難しい。



黄色信号


黄色信号は決して“進んでいい”という意味ではない。

頭ではわかっていても、多くのドライバーがそれを体現できていないのではないだろうか。
東京へ出てきてからというもの、街を歩いていると交差点の右折車が赤信号になっても平気で突っ込んでいく場面をよく見る。
それが気になって夜も眠れないほどではないが、街を歩いているとそういうことばかり視界に入ってきて気になってしまう。


なんていう、社会に対して何かをいいたかったわけではなく、自分自身の黄色信号というのが最近わかってきたような気がしたため、それについて書いてみようと思う。

冒頭に書いた通り、1年ほど前の精神的にかなり余裕がなかった時期は、その時々の不満や迷いをありのままにnoteに書き殴っていた。

その時と状況が変わった2023年、仕事の多忙化と自分の内面の安定化によってnoteへの投稿頻度は少なくなったが、今こうして思うままに書き連ねている。まずこの状況を見て、「今の自分、マズいのかな」と思うわけである。

そして、もうひとつ典型的なパターンとして行動に現れるのが、本屋に行って本を買い漁ることである。

都内でも有数の大型書店に赴き、各フロアをひと通り見て歩く。
飽きてくると、大体ビジネス書や自己啓発本のコーナーに行き着き、ひどい時は表紙だけ見て惹かれたものを何冊か買ってしまう。

こうして書店を後にした時点で満足感は得られ、買ったこれらの本を最後まで読み切ることはない。

ふとした時にこの一連の流れを振り返り、書に向き合えない自分にがっかりしてしまう。


さらに危険な自分の黄色信号が、自分でもコントロールできないほど湧き出てくる他者の愚痴である。

1年ほど前に休職した際、直前にあった出張の道中の新幹線で、ある先輩の愚痴をこれでもかというほどこぼしていたらしい。
らしいというのも、普段自分は比較的他人の悪口を大勢の前で言わないように気をつけているタイプだが、その時は自分でもコントロールできないほどに喋っていたみたいであまり記憶がない。

あとから冷静に思い返した時に、それを聞いている周りが相当引いていたのをかすかに覚えている。


最近また、その黄色信号を自分の中で感じていて反省している。

直接自分に影響を及ぼす話ではないのだが、周囲の人間関係のゴタつきを見ていると、どっちの言い分を聞かされている身としては、しょうもなさすぎてイライラしてくる。

そのことを飲みの場で愚痴っている自分を俯瞰で見たときに、さすがにマズイと思った。1年前は自分が直接不利益を被る立場だったが、今回に関しては全く関係のない第三者であり、そこまで自分が首を突っ込む話ではないからだ。

ただ、遠回りに自分にも被害が及ぶような気がして、自分勝手な自己防衛センサーが働いて、それを事前にシャットアウトしたくなってしまうのである。

自分のために周囲を盤石に固めたくなる。
かつてはそんなことを意識しないほどに、自分が暗躍した通りに周囲を動かすことができていた気がするが、社会というのはそう甘くはない。
つくづく身勝手なやつだと気づいた。



圧倒的な才能に触れたい


「オンラインサロン」というのもひと昔前の言葉になったような気がするが、最近個人的にそういったものに足を突っ込んでみたくなっている。

圧倒的な才能に触れたからといって自分もそうなれるとは1ミリも思っていない。むしろオンラインサロンといったコミュニティが流行り始めた当初、そこに群がる人たちが、そのトップにしがみつくことによって自分もそうなれると思っているのではないかと馬鹿にしながら見ていた。

しかし2年ほど社会人をやってみて、圧倒的な才能にしがみついていくことの大切さを感じ始めている。
結局のところ才能がある人にはたくさんの視線が集まり、そこにはチャンスがたくさん転がっている。いくら頑張って自分のアイデアを溜め込んだところで、ひとり斜に構えていては誰の目にも触れず実現することはない。

ここ数ヶ月の間に、自分が頑張ってアイデアを出した企画が前に進み、今までの仕事では絶対に接することのなかった人たちと何人か知り合った。

人脈という意味で誰かにしがみついてみることの大切さに気づいた気がする。オンラインサロンとは異なり、仕事上で圧倒的な才能にしがみついていくのはタダである。2024年はそう気楽に構えて、2023年よりも自分から積極的に誰かにしがみついてみようと思う。



結果を追求する


大人たちが知らないもので1発当てて、
新たな世界で評価されたい。

#37「2022→2023」

1年前の年末に書いた自分の本音。
その方向に向かって動き出した1年だったが、会社員である以上自分たちがやりたいことを提示する相手はその大人たちであり、誰もまだ見たことないものを圧倒的な説得力を持って説明するのは、普通に企画をプレゼンより難しく、そういう意味では茨の道を進んでいるのかもしれない。

ただ、そうやって言い訳をしていても何も変わらないため、そろそろひとつひとつのアクションに結果を追求していきたい。

「次のチャンスのため」「経験のため」というようなごまかしかたをよくしてしまう風潮が、自分を含め周りで起きているような気がする。

自分で言うのは恥ずかしいが、
圧倒的な才能に自分がなれたらいいのかもしれない。



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2023.12.31 作成

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