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「アートであれば許される」を許さない ~越後妻有里山現代美術館展示物破損事件について知っておくべきこと~

4月21日、越後妻有里山現代美術館にて修学旅行に来ていた中学生が美術館の展示物2点を破損、うち1点が公開中止に追い込まれました。

本件について、さまざまなニュースサイトで報じられ、各種SNSにおいて中学生を誹謗中傷する書き込みが多発しております。

しかしながら、破損された作品のうち、公開中止となった作品を知る私にとっては本件は起こるべくして起こったものであると言わざるをえません。展示物の性格上、破損されるおそれが極めて高い展示物でした。

また、現代美術、特に視覚以外の感覚を用いて鑑賞者を楽しませるタイプの芸術作品の、展示における種々のリスクは議論されるべき論点です。本件を故意であるか過失であるかに関わらず、罪を中学生にのみなすりつけることはこの論点の軽視を招くおそれがあります。

事件について語る前に、まず公開中止となった作品について説明します。

クワクボリョウタさんの『Lost#6』は、真っ暗な部屋のなかに日用品を置き、その隙間に鉄道模型を走らせる作品です。鉄道模型の先頭部分にはライトが点けられていて、壁面に映し出された日用品の影がトンネルやビルディングのように見える仕組みになっています。これにより、まるで架空の都市を走っている感覚を鑑賞者に与えます。

今回の事件の展示物とはシリーズの異なる作品ですが、コンセプトはほぼ同じです。2010年のICC(東京の初台にあるNTT系のギャラリー)で展示されていた作品です。

『Lost#6』と同コンセプトの作品は屋外芸術祭では非常に人気があり、六甲ミーツ・アート 芸術散歩や札幌国際芸術祭でも展示されています。正確な初出がいつかは分かりませんが、少なくとも、東京では2010年のICC、関西では2011年の六甲ミーツ・アート 芸術散歩や同年の国立国際美術館にて類似作品が展示されています。10年以上もあちこちで展示されていることからも、その人気の高さがうかがえるでしょう。

本作、確かに素晴らしい作品ではあるのですが、その半面、危険な作品でもあります。理由は3つあって、作品の性格上、①暗闇のなかの展示物であること ②作品と鑑賞者とを隔てる仕切りが存在しないこと ③係員による懐中電灯のガイドが不可能なことが挙げられます。

①暗闇のなかの展示物であること
『Lost#6』は暗い場所にあるので、鉄道模型が照らす光だけを頼りに作品 と鑑賞者の安全を気遣う必要があります。

②作品と鑑賞者とを隔てる仕切りが存在しないこと
 暗闇の展示作品の場合、どこまで鑑賞者が入ってよいか分かる柵のような ものがあることが多いです。しかし、それを設置すると壁に映り込んでし まうために作品の世界観が損なわれるおそれがあります。そのため、どこ からどこまで歩けばいいかは注意深く見ないと分かりません。

③係員による懐中電灯のガイドが不可能なこと
 明るいところから急に暗闇の入ると前が見えないので、係員の方が足元を 照らしてくれることがあります。しかし、本作でそれをすると作品の世界 観(以下略)。

上記のことから、本作は安全性について鑑賞者の良識と良心に任せなくてはいけない作品といえます。このような展示物について、鑑賞者側にすべての責任を帰すのは間違っていると思います。展示物に危険性があるのにそれを放置して、いざ鑑賞者が事故を起こせば鑑賞者の責任などというのは、アート以外の世界では通用しません。製造メーカーではPL法のようなものがあり、消費者が事故を起こした場合、製造者責任が問われるようなことがあります。

もちろん、絵画や陶芸、ジュエリー、彫刻など最初から触れることがタブーであるのであれば、PL法のようなものは免責されて当然でしょう。しかし、現代美術のインスタレーションのような触れることができる作品が多く存在するジャンルの場合は、芸術家や美術館側が事故の発生リスクを制作および展示の段階で考慮に入れる必要があります。

デザイン、アートの展示物による製造者責任については、何も本件が初めての事例ではありません。

2016年、TOKYO DESIGNERS WEEKにて、子どもが死亡した事件が起きました。木製ジャングルジムが投光器によって発火して、遊んでいた子どもが全身にやけどを負いました。この事件で製造者責任が問われ、主催者と出展者が民事および刑事裁判で起訴されました。

本件は中学生の「悪ふざけ」によるものだから関係ないという意見は間違っています。『Lost#6』で死亡事故が起きる可能性は極めて低いですが、作品が破損する事故が起きる可能性は十分にあるからです。また、展示にあたってはしかるべき対策を取るべきですし、できなければ展示もしくは鑑賞を制限するほかありません。

また、本件で鑑賞者の良識を当然視する意見が少なからず見られます。美術鑑賞をするなら作品を壊さないのが当たり前だと。

私はこうした考えには反対です。鑑賞者の良識など信じてはならないと考えています。特にインスタレーションの展示物においては、作品相手に無闇にはしゃぐ「下品な鑑賞者」が当たり前のようにいます。そのような鑑賞者のすべてに良識があるなんて信じるほうがどうかしています。

ましては、昨今、アートで遊ぼうだとかアートを鑑賞すれば頭がよくなるとかいうマスコミのホラ話とか、コロちゃんのおかげで美術館しかデートに行ける場所がないとかいうこともあって、いままで美術に興味のなかったひとが美術作品を鑑賞する機会が増えているように思います。

私自身はこうした鑑賞態度は嫌いです。以前にも『国立国際美術館は悪魔に魂を売った』というエントリーを書いたぐらいに、美術鑑賞初心者を現代美術で遊ばせようとする風潮に対して疑義を投げかけています。ですが、この流れを止めることは私にはできません。それならば、美術館側も鑑賞者側も、「良識なき鑑賞者」についてきちんと向き合うことが必要があります

アートの鑑賞人口が少なかった昔では「アートであれば許される」ことがありました。展示物のはらむ危険性などはその最たるものです。しかし、鑑賞の間口が広がったいまでは、美術鑑賞のいろはを知らないひとがいたり、なまなかに知っているからこそ「インスタレーションの場合は羽目を外してもよい」という考えを持っているひとが出てきたりします。こうした状況の前に、「アートであれば製造者責任は許される」という発想をするのは時代遅れと言わざるをえません。

本件について、事件を起こした中学生ばかりに罪を負わせるのは、「アートであれば製造者責任は許される」という、いまとなっては浮世離れしている考えに与することと同じです。このような考えはいますぐにでもやめて、広い社会と折り合いをつける必要があります。それはアートが社会に開かれるために最も重要なことであると考えます。

追記:個人的には中学生をむりやり美術館に連れて行く行為はやめてもらいたいと考えています。美術が好きな子どもはもちろん、小説家志望のようないずれ美術と関わるだろう子どもを連れて行くのは賛成です。けれども、美術が好きではないとかほかにやりたいことがあるとかいう子どもを連れて行って、美術鑑賞がいったい何の役に立つのでしょうか? 感性は働きかけなければ働きません。本人が働きかけようともしていない状態で美術館に行っても感性など磨かれません。それなら、もっと別のことを楽しんだほうがよっぽど感性が磨かれるはずです。

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