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2023年1月 美術鑑賞東京遠征 ③ 東京都現代美術館

1.ビデオ・アートは映像メディアを使った純文学である

東京都現代美術館の……じゃないほうの展覧会に行ってきました。

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展覧会です。オランダのビデオ・アート作家の展覧会です。というか、なかなか書けないうちに、会期が終わってしまいました。

本展を一言で表現すれば「2010年代以降のビデオ・アートおよび現代美術の典型例を見せた展覧会」といったところでしょう。とても素晴らしい展覧会ですし、この作品を分かろうとしないのなら「今後のビデオ・アートや現代美術(そして、純文学)にどう向き合うつもりなの?」といいたくなりますね。

本稿では、この展覧会の作品については一切触れません。そうするよりむしろ、現在のビデオ・アートや現代美術のありようを記憶していただいたほうが、本展をストレートに受け入れることができると考えるからです。

それはともかく、ビデオ・アートと21世紀の美術、それぞれについて話を進めましょう。

2.ビデオ・アートについて

まずは、ビデオ・アート。これは文字通り、映像で記録、放映されるアート作品です。細かい説明は Wikipedia をご参照ください。

ただ、このWikipediaにある「1990年代以降はメディア・アートの中に包含されつつ現在に至っている」という表現に対しては苦言を呈さざるを得ません。実際はその逆です。

1990年代以前こそ、ビデオ・アートはメディア・アートの一部でした。ビデオの映像ではなく、ビデオというメディアのありようを伝える芸術作品が多かったのです。
当時のモニターの画質は悪く、サイズも小さかった。そのくせ筐体はばかでかい。いまとなっては忘れられがちですが、画面が湾曲していて凝視にたえられませんでした。当時のモニターは、映像作品をじっと見せるには適していなかったのです。

芸術家たちは、そのような映像機器の性能の低さを逆手に取って芸術作品を創りました。ナムジュン・パイクや久保田成子あたりがその代表例です。彼ら彼女らの作品には、独特の姿形をしたモニターを制作したり、映像機器を並べることで独特の空間を作りあげたりしました。1980年代に生まれたビデオ・アートの作品群は人間とメディアとの関係を問いかけるものが多く、それゆえ、ビデオ・アートはメディア・アートの一部たりえたのです。

【注】1990年代以前のビデオ・アートに純粋な映像作品がなかったわけではありません。1968年に制作された『つぶれかかった右眼のために』はそのなかでの傑作です。新宿、学生運動、ゴーゴーなどをサイケデリックに記録した作品で、1960年代の要素がこれでもかといった具合に詰めこまれています。YouTubeに動画がありますが、著作権のことがあるかもしれないので、リンクは貼りません。

2000年代に入ってようやく家庭用デジタルビデオカメラや液晶モニターなどの普及しました。これによって、ビデオ・アートは映像だけで表現ができる時代になりました。ビデオ・アートの主役がメディアからコンテンツに映ったのです。これにより、21世紀にはビデオ・アートはメディア・アートからほぼ独立することができたのです。

ただ、このころのビデオ・アートは、メディアからは独立できたものの、ジャンルとしては絵画や写真に従属していたといえます。静止画ではできなかったことを表現する、つまり「動画であること」を特徴とする作品が多く見られました。ほとんど変化のない映像を数分ないしは十数分見せることで、鑑賞者に「何か」を感じさせるのが狙いでした。作品と鑑賞者の関係は絵画的な(悪く言えば網膜的な)ものでした。

2008年に開催された「液晶絵画 Still/Motion」は、その題名の通り、絵画でできないことを映像によって表現する展覧会でした。ボウルに盛られた果物にカビが生えていく映像を使って、16世紀以降のヨーロッパで多く描かれた静物画の“ヴァニタス”を現実暴露的に見せる作品などがありました。

2010年代に入ると、ドキュメンタリー手法を取る作品が主体となります。SNSの発達により、個人的な問題、そしてそこから透けて見える社会的問題にアクセスしやすくなったことが影響しているのかもしれません。マイノリティや政府の政策の犠牲になった人々などを取材した作品が多く見られるようになりました。

こうしたビデオ・アートを特集した展覧会はほとんどないのが現状です。私の知る限りでは、2016年に横浜美術館で開催された“BODY / PLAY / POLITICS”と、2015年から16年に国立国際美術館と東京都現代美術館で介さされた“他人の時間”ぐらいですね。あとは、地方自治体が主催するトリエンナーレや単独の美術館が企画した展覧会で数点展示される程度にとどまっています。

以上、ビデオ・アートの歴史はこのようにまとめられます。
1960~1990年代 ビデオ・“メディア”・アート
2000年代 絵画的ビデオ・アート
2010年代 ドキュメンタリービデオ・アート

3.21世紀の現代美術について

続いては、現代美術についてです。これはあくまで私見であることに注意してください。

21世紀に入って、美術と文学は互いに近づいているという印象を受けます。もともと、文学と美術の関係は深く、美術好きの小説家や小説をよく読む芸術家は少なくありません。

文学理論を下敷きに美術を鑑賞すると理解が深まるという作品が多く見られるようになりました。

文学理論の書籍を一冊でも読んでもらうと分かりますが、ざっくりと言いますと、文学理論の半分はテクスト論で、もう半分がカルチュラル・スタディーズです。もっと粗いことをいえば、文学理論は哲学と社会学が合体したものといえるのです。

長年、芥川賞候補に社会学者が選ばれる傾向がありますが、ひょっとしたら、こうした文学理論のありようが原因になっているのかもしれません。

現代美術でも文学でも、フェミニズムやポストコロニアリズムを取り上げた作品が多くなっています。文学理論、特にカルチュラル・スタディーズへの理解が文学を読むのに欠かせなくなったわけですね。

こうした流れは、芸術分野の社会(学)化といっていいでしょう。

社会的なことをテーマにする芸術運動は大昔からあります。20世紀だけに限っても、1920年代後半から30年代にかけてのプロレタリアやメキシコ壁画運動、1950年代の日本で描かれたルポルタージュ絵画などがあげられます。21世紀あたりだとつい最近、森美術館で展覧会をしたナントカという自称芸術団体もいます。

これら芸術活動と現代の社会的な芸術活動の違いは、学問として理論化されているかでしょう。以前の社会的な芸術は重大な事件や社会問題、政治体制から直接インスピレーションを得たものが多かったですが、現代のものは多かれ少なかれ、学問のフィルターを通しています。純文学はもちろん、美術も文学理論をふまえているというわけです。

まとめ.純文学化するビデオ・アート

ウェンデリン・ファン・オルデンボルフの展覧会に林芙美子の小説が取り上げられていたとか、そういうちゃっちい理由ではなく、ビデオ・アートと文学との関係は密接になっていると思います。

とはいいつつ、日本ではまだ過渡期という印象を受けます。

別に存在を無視していたわけではないのですが、2019年に「現代美術に潜む文学」というタイトルの展覧会がありました。

この展覧会を開催した国立新美術館のホームページには情報がすくないので、美術手帖の記事のリンクを張ります。展覧会の図録を自社で出しているのに、コメントが若干否定的なところが微妙な感じを受けます。

実は私も、本展にはあえて行っていません。理由は、この展覧会のステートメントに疑問を抱いたからです。以下の通り、引用します。

本展では文学をテーマに掲げています。ですが、ここでの文学は、一般に芸術ジャンル上で分類される文学、つまり書物の形態をとる文学作品だけを示すわけではありません。現代美術において、文学はこうした芸術ジャンルに基づく区別とは違ったかたちで表れているように思われます。日本の現代美術における文学のさまざまな表れ方を経験していただければ幸いです。

https://www.nact.jp/exhibition_special/2019/gendai2019/

古代ローマの詩人ホラティウスが『詩論』で記した「詩は絵のごとく」という一節は、詩と絵画という芸術ジャンルに密接な関係を認める拠り所として頻繁に援用されてきました。以来、詩や文学のような言語芸術と、絵画や彫刻のような視覚芸術との類縁関係を巡る議論は、さまざまな時代と場所で繰り広げられてきました。

https://www.nact.jp/exhibition_special/2019/gendai2019/

上記のステートメントの問題点は2つあります。

① 「現代美術において、文学はこうした芸術ジャンルに基づく区別とは違ったかたちで表れている」とあるが、現代文学と現代美術はむしろ「文学理論」という共通のプラットフォームに載っている。
② 「詩や文学のような言語芸術と、絵画や彫刻のような視覚芸術との類縁関係を巡る議論は、さまざまな時代と場所で繰り広げられてきました」ことは事実だが、現代においては美術と文学は、詩学的なところ(ポエジー)よりも、社会科学的なところにおいて密接な関係を築いている。

ひとことで言えば、国立新美術館の学芸員は美術と文学の関係性をアップデートできていないのです。これは日本の現代美術がこれから国際的に競争していくなかで、あまりよろしくないことだと思います。

ただ、東京都現代美術館の『ウェンデリン・ファン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』によって、21世紀の美術と文学の関係を見ることができました。もちろん、昨今の地方で行われている国際芸術祭でもビデオ・アートを通してそれを見ることはできるのですが、特定の美術館で、個展という形式で見られたのはすごく貴重な機会だったと思います。

会期終了前に発表すべきでした。以上。

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