校閲は小説家の仕事です

大手出版社の校閲のプロでも見逃すことはありえる「校閲」。これができていないと、小説のリアリティが減ってしまう場合があります。

「校閲」という言葉をご存じでしょうか? 似た言葉に「校正」という言葉がありますが、両者は似て非なるものです。校正は間違った字を直すことですが、校閲は書かれていることが事実かどうかを調べることです。

私は小説を書くとき、この校閲をしつこく行います。私の書いている小説は現代ドラマものが多いので、実際と異なることを書いてしまうと物語のリアリティが一気に薄れるからです。

現代ドラマものはフィクションに現実性を与えるために、実際に起きたことを下敷きにすることが多いです。

最近上梓された、パリュスあや子さんの短編連作『燃える息』。その短編のひとつ「呼ぶ骨」にナビ派の展覧会が出てきます。ナビ派はフランスの有名な芸術団体みたいなもので、浮世絵などの日本美術から影響を受けた画家が多いことでも知られる団体です。

主人公はナビ派の展覧会に行くのですが、そこにこんな一文があります。

企画展の後、しっかり常設展まで見て回ったら疲れ切っていた。

これは明らかにおかしな文章です。

ここ最近、ナビ派の画家が取り上げられる展覧会はいくつかありますが、ナビ派全体に焦点を当てた展覧会は、三菱一号館美術館で開かれた「オルセーのナビ派展」(2017年)だけです。この美術館は確かにルドンやヴァロットンの絵画は所有しているのですが、常設展が開かれることはありません

ナビ派の画家単独で見てもヴァロットン展(2014)は同じく三菱一号館美術館での開催です。ピエール・ボナールの展覧会(2018)は国立新美術館で開かれましたが、ここは所蔵品を持たない美術館として有名です。所蔵品がないわけですから、常設展の開きようがありません。つまり、ナビ派関連の展覧会にはすべて常設展が開かれていないのです。

作中に出てくるモーリス・ドニの絵についても、該当するような絵画は三菱一号館美術館の展覧会には出品されていないようです。これは手持ちの図録で確認しました。この図録も作中では分厚いと書かれていますが、ナビ派の展覧会の図録は一般書籍としてみても標準的サイズです。分厚い図録といえば、江戸時代までの日本美術か森美術館主催の現代美術展ぐらいです。

多くのひとは美術ファンではないため、見過ごすかと思います。でも、数少ない美術ファン(しかし小説の書き手にはかなり多いですよ)の目はごまかせません。こうした下調べの足りなさが露呈してしまうと、小説ひいては小説家の信頼性が揺らいでしまいます。

フィクションだから嘘をついてもいい、というのは甘えです。ついていい嘘とついてはいけない嘘があります。フィクションをフィクションたらしめるための嘘は別についても問題はありません。ただ、フィクションにリアリティを加えるために書いたことについては、嘘であってはいけません。そうでなければ、事実っぽく書いた意味がないからです。

普通に考えれば、講談社がちゃんと調べればいいだけの話なのですが、校閲担当者もそこまで守備範囲が広いとは限りません。自分の身は自分で守らないといけません。バレないだろうと思って書いたのなら、その書き手の志は結局それだけのものです。

校閲して初めて分かるようなバグは、誰が見ても分かるバグではありません。だからこそ、書き手たる小説家がきちんと確認しなければなりません。

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