網膜的なアフォーダンス ~国立国際美術館『感覚の領域 今、「経験する」ということ』感想~
2022年4月17日現在、国立国際美術館で『感覚の領域 今、「経験する」ということ』が開かれています。関西出身者を中心とする7名によるグループ展なのですが、展覧会のステートメントを見る限りでは、いい風に言って、なんだかよく分からない展覧会でした。
https://www.nmao.go.jp/events/event/sense/
国立国際美術館のホームページによると、本展は以下のことを目的に開催されたそうです。
ステートメントは確かに正しいことを言っています。現代美術は必ずしも視覚に頼るものばかりではありません。聴覚や触覚を働かせる作品も出てきました。聴覚は音声のあるビデオアートなどありますし、触覚であればレアンドロ・エルリッヒの作品があります。現代美術では「観せる」だけではなく、「経験させる」ことに重きを置いた作品が増えたことは間違いありません。
ただ本展では、このようなステートメントを掲げておきながら、出展作家のジャンルは絵画4人、彫刻1人、インスタレーション2人となっています。つまり、出展作品は展覧会のステートメントと真逆で、視覚に頼っている作品が大部分を占めました。
中原浩大さんの『Text Book』は絵画ではなく、インスタレーションとみなします。当作品は色の着いた丸が書かれた大型本ですが、作品を見ることではなく、ページをめくる行為が焦点になっているからです。
もちろん、現代美術作品が網膜的(視覚に頼るの言い換え、レトリックと考えてください)であったとしても構いません。ただ、『感覚の領域』なんてタイトルで、しかもあのようなステートメントを掲げたのならば、この展観では羊頭狗肉になってしまいます。
とてもひどい皮肉ですね。現代美術館なのに自分たちが過去のものと主張しているものの新作を出しているわけですから。日本有数の現代美術館が「美術=視覚的」という構図はすでに過去のものになったと言ったそばから、その過去のものになったはずの視覚的な作品を展示している。どうなっているのやら。
まあ、こうした美術館側の不手際についてここで非難しても仕方がありません。ここでは展覧会が提案するものとは別の楽しみ方を提示したほうが建設的です。
今回の展覧会は「網膜的なアフォーダンス」と名づけたほうがよかろうという気がしました。
美術はいまでも視覚的なものが中心ですが、現代になって大きく変化したのは、作品によって思い起こすことが具体化したことです。福田美蘭さんのパロディ作品からそのユーモアを感じ取ったり、須藤由希子さんの自宅アパートの花壇の絵画を観て一般的な家の庭を想像したり。文学理論でいうところの「間テクスト性」から楽しめる作品が多くなったと言ってもよいでしょう。
絵画を観て、別の、日常的な何かを想起する。これが、こんにちの美術の持つ間テクスト性だと考えています。こうした身近なものとつながる間テクスト性によって、観るひとが作品への働きかけを強化する。そうした作品が多く出展されたのが本展の特徴だったのではないかと思います。まさに、視覚から生まれる(知的な)アフォーダンスですね。
大岩オスカールさんの作品は、下の写真にある新作に加えて、『隔離生活』という版画の連作も展示されていました。
『隔離生活』は本展で展示される前に、東京都現代美術館や東京のギャラリーに出展されています。どんな作品か知りたい方は以下のリンクをご参照ください。
この連作のなかで大阪について取り上げた作品が2点あります。
ひとつは、道頓堀の水面に昭和の時代のネオンサインやたこ焼きの載ったボート、かに道楽のかにが描かれた作品。これを観て、鑑賞者のなかにある大阪の記憶やイメージを思い起こす方は少なくなったはずです。
もうひとつの作品。通天閣を下から見た作品ですが、これを観ると大岩オスカールさんが大阪に来てこの作品を描いていないことが一目で分かります。
実は、通天閣は東京タワーとは違って、天井画が存在するのです。
戦前にあった天井画の広告を2015年にクラブコスメチックスという会社が復刻しました。40歳以上の関西人だとフルベール化粧品のブランドで知られている会社です。戦前はモダンな文芸誌を発行したり有名画家(北野恒富)による広告を制作したりするなど、大阪の文化発展に貢献されました。そのクラブコスメチックスが前身の中山太陽堂時代に、初代通天閣の天井に広告を掲出していました。それを通天閣の耐震化工事に合わせて復刻したのです。
ここで言いたいのは、大岩さんが怠慢であるとかリサーチだけでは不十分であるという非難ではありません。この作品は、通天閣の天井画を知っているひととそうでないひとで見え方が異なるということです。実は、この作品には「大岩さんが例のコロちゃんのおかげで大阪に来られなくなった」というバックストーリーがあります。通天閣の天井画に復刻された広告があると知っているひとはこのバックストーリーの存在を知ることができる。でも、知らないひとはそんなことには気づかない。観ているひとによってバックストーリーへの想像をアフォードできるかできないか、が分かれるんですよね。
続いて、藤原康博さんの作品。
藤原さんは生活のなかにあるものから、山や橋などの風景を見立てる絵画作品を多く制作されています。写真にある作品以外にも、神社の風景絵画も展示されていました。
ベッドの掛け布団をもとに作り上げた風景や、ありふれた木の板に白いアクリル絵具で描かれた山の風景など、身近なものからふと現出する「風景」を描いた作品が多かったです。描かれているのは特定の場所ではなくて、鑑賞者のイメージのなかにある「風景」。つまり、作品を完成させているのは鑑賞者ということになるわけです。
芸術は鑑賞者が観てはじめて完成するという考えに即した作品ですね。もちろん、そこには鑑賞者が自身の記憶を膨らませることで作品を完成させるというアフォーダンスがあるわけです。
文字数が多くなったので、ほかは駆け足での紹介。
名和晃平さんの『Dot Array - Black』は黒字に3種類の丸が配されている作品“群”です。3種類の丸は色と大きさが異なりますが、それぞれ整然と並んでいます。最初は3種類が調和しているように並んでいるのですが、隣の作品に移るごとに、その3種類の配列がそれぞれの規則に従うようにして変化していきます。最後の作品では、一見、丸がバラバラに並んでいるように見えます。異なる規則性による変化が生み出す混乱。twitterでのクラスター化する言論空間を可視化したみたいな感じがしますね。名和さんがテーマの一つとして掲げている「情報化社会のありよう」を抽象的に描いた傑作と評するべきでしょう。
飯川雄大『デコレータークラブ』は手で回してリュックサックを上げる作品だったり、展示室の入口を塞ぐ金色の大きな直方体を押すことで展示室に入れる作品。これらはホワイトキューブ、すなわち白い美術館でやると芸術的妙味が落ちてしまう類いの作品ですね。最初から美術作品であると身構えることによって失われる感覚があるように思えました。本作のように、ぱっと見では美術作品に見えないように仕組まれている作品の場合、ホワイトキューブに置けば「これを美術作品だと知覚しなさい」というアフォーダンスが働いて、作品の面白みがなくなるのではないでしょうか? 六甲ミーツ・アートや東京都庭園美術館本館に置かれていれば、もっと面白かったかもしれません。
『感覚の領域 今、「経験する」ということ』については、五感を働かせるというよりも、視覚と知識を動員して知覚を刺激するある種のアフォーダンスとして作品を観たほうが楽しめる気がしました。
本欄を書くに際し、『ノスタルジー&ファンタジー』の図録を参照したのですが、本展と同じひとがキュレーションしてますね。確かに、本展も『ノスタルジー&ファンタジー』のコンセプトのほうがしっくりきます。
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