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「分かった」という前に、見ろ ~泉太郎展感想の前に~

東京オペラシティ『Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎』に行きました。

本展、はっきり言って観に行かなくていい展覧会です。言葉にならない感想を抱えるぐらいなら、「知らんでもええわ」と言い切ったほうが誠実です。

「美術鑑賞が好き」と自称するひとに問いたい。あなたたちはなぜ、明らかに野球でいうと「ボール球だと分かる球」であっても、喜んでバットを振ってしまうんですか?

何も見えていないのに、わけのわからない感想を垂れ流して絶賛する。スポーツであれば明らかにおかしいことが、どうして美術鑑賞では奨励されるのでしょうか? そんなことをして、果たして、そのひとの趣味が趣味たりえるのでしょうか?

趣味というのは上達するのを楽しんでこそのものだと思います。下手の横好きでもいい、ただ楽しみたいだけなら、美術鑑賞の技術を上達させたいひとのために黙ってあげてほしい。それなら、「楽しかった」「かわいい」などというだけでじゅうぶんです。

別に展観しているひとが自分の友だちでないのなら、無茶な称賛はやめてもらいたい。子どもに相撲で「負ける」おじいちゃんの姿はほほえましいです。でも、これを大相撲でやったらどうなりますか? 八百長ですよ。このなものいくら趣味だと考えても、はたから見たら大変見苦しい。

なんでこうなるのかというと、見えもしていないのに分かったふりをしているからです。分かっているから分かっている部分だけを言葉にしようする。だから、欠陥のある作品に対して無理筋な称賛が集まる。はっきりいって、このような美術の作者と鑑賞者の共犯関係は好きになれません。

美術鑑賞で大事なのは「分かる、分からない」じゃないんですよ。
「見える、見えない」なんですよ。

分かるというのは何かを結論づけることです。よく美術館で「かわいい」としかいわないひとがいますが、そのひとは美術作品を分かっていないのではないのです。その逆で、分かっているのです(ここは、本当に大事)。そのひとは目の前の作品が「かわいい」と分かっているから、そういうのです。

美術鑑賞は主観的な行為なので、明確な正解がありません。ですから、そのひとが「分かった」ことが正解なんです。

分かったことをそのまま感想とするなら、それは美術鑑賞のアウトプットとしてはあまりにもの足りない。本当に分かったのか、っていいたくなりますね。
例えば、鹿を見せられて馬だと感じた(分かった)とします。美術鑑賞においてはそのことは別にどうでもいいのです。大事なのは、どうして鹿が馬に見えたか、です。「そう言わないと権力者に殺されるから」でもいいですし、「鹿にしては走りが豪快だから」でも構いません。「俺はあの鹿が馬に見えたんだから、あれは馬だ」では、それこそ中国の故事の由来通りに「馬鹿」みたいです。

言葉にならない感想は、分かっている状態であるにもかかわらず、見えていないから言葉にできていないのです。
主観的には分かっている。でも、客観的に見れば、何も分かっていない。
言い換えればそうなります。
こういう感想を書くの、もうやめにしませんか? うんざりです。

前置きは、ここまでにします。とはいえ、ここで1000文字。多すぎる。


補足:野球の場合、例えば外角スライダーといって、ストライクゾーンの内側から外側に逃げていく投球があります。動画の10秒あたりに出てきます。

バッターは「ストライクだ!」と分かって振るわけですが、実際には球はボールゾーンに行く。今日のWBCで大谷選手が最後に投げた球のようにストライクゾーンギリギリであれば分かるのですが、動画の中田選手の場合は、はたから見ると「なんでこんな球を振るの?」と思ってしまいます。

山本選手のように球速が高く、変化量の大きいスライダーであれば分かるのです。けれども、展覧会でわけの分からないものを無理やり評価している作品にこれといった「キレ」を感じることはありません。筋の悪い“球筋”が見えてしまっているからです。

美術鑑賞をするときには、どれもこれも「ストライクだ!」と思わずに「ボールだってじゅうぶんありえる」という姿勢で鑑賞すれば、作品の良さも悪さも見極めることができます。分かろうとするのはそれからで十分です。

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