燕三条、銀食器の歴史
第一次世界大戦で欧州の主要都市が戦果に見舞われ、イギリスでは困ったことになった。
「銀食器が手に入らない!」
開戦前のイギリスは主にドイツから輸入していた。まさか敵国から買うわけにはいかない。
彼らにとって銀食器は単なる食器ではない。
ステータスを表すシンボルでもあった。
だからこそ是が非でも欲しい。
一方日本は大正時代。まだ日本に洋風文化が浸透していなかったため、洋食器はほどんど作られていなかった。
そんな日本で、イギリスからの要望に応えれる街があった。
それが、新潟県燕市だ。
燕市は江戸時代から金属加工が盛んな街で、和釘や銅製のキセルを作っていた。
だが、和釘は洋釘に価格で勝てず、キセルは紙巻きタバコの普及で、これらの受注はピークを過ぎていた。
金属加工なら他の地域には負けない自負があった彼らは、洋風文化にあわせて明治末期から金属食器作りにも挑戦していた。
彼らの技術力さえあれば、フォークやスプーンなどは簡単に作れた。
はじめの頃は手加工作っていたが、技術改良を行い機械化したことで量産が可能となり、次第に受注が増えていく。
だがナイフの量産には手間取った。
フォークやスプーンと違って、刃物だからだ。
ステンレスや銀で刃物を量産する技術は当時燕にはなかったので、岐阜県関市から刃物の専門家を招き、技術を習得。
銀だけでなくステンレスにも対応し、海外からの様々な需要に応えた。
折しも日本では、関東大震災。
これにより東京の和風な暮らしは建物とともに潰れてしまい、代わりに少しずつだが洋風の生活が営まれるようになった。
燕の銀食器産業は、時代の流れに乗って国内にも対応し、需要を伸ばしていく。
軍や宮内庁御用達など、汎ゆる需要にも対応した。
域内では高度な技術同士が鎬を削ることとなり、燕市の金属加工技術は更に向上した。
現在では金属食器だけでなく、あらゆる金属加工の集積地となっている燕三条エリア。
伝統の銀食器はノーベル賞授賞式の晩餐会にも使われる由緒正しきブランドへと成長。
また、その技術を活かし、最近ではアウトドア用品なども手掛けている。
時代の変化に柔軟に対応しつつも、彼らはこれからも磨き続ける。
金属とその技術を。
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