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【観劇感想】「世濁声」−good morning beautiful mouse−を観て

鈴木勝吾さんを追いかけるようになってから、
きいていた。いつか脚本演出をやってみたいというお話。私自身、いつかそんな日が来るのなら観たいと思っていた。遠い先の話だと思っていたら、まさかの発表にドキドキした。


彼が語る言葉は、私にとってときに共感し、ときに新しい世界で、ときに認めがたい世界だと感じていた。だから、全てを肯定することはできない。けれど、だからといって否定するものでもないとは思う。強いていうなら、共感はできなくてもわかりたいとは思っていた。そうは思いつつも、私にとっては綺麗事だと言い捨てたくなるような理想を語る姿に、歯がゆさを感じるのは、私にとってそれはもう捨てたものだからかもしれないとも思う。
だから多分、尊敬と羨望と、、、気持ちは入り乱れ、彼の言葉に揺れ動く自分を好きになったり嫌いになったりしながらここまで来た。

そんな、彼が描く世界はどんなものだろう?何を芸術だと思い形作るのか。そんな楽しみがあった。

そんなわけで、当日。
私にとっての初日、そしてそのまま千秋楽になる公演が始まった。

言葉の応酬だ。
真っ先に感じたものはそれだった。繰り返し繰り返し、同じ事象を別の言葉で語る。いや、別の言葉が存在するということは、厳密に言えば同じ事象とは言えないのかもしれないが、とにかくぐるぐると言葉が巡っていったように私は感じた。
強いて言うならば、思考を巡らせ続け自問自答を繰り返す一人称小説を朗読されているかのような印象だった。
でも、同時に思った。この作品は間違いなく鈴木勝吾という人間が書いたのだろうと。
とは言っても、私自身が彼に対してもっている印象は、彼にとって彼を形作る一部に過ぎない、いやその一部ですら、まがいものかもしれない。(でも、嘘偽りない瞬間を信じれる気がするのも彼のことを好ましく思っている1つの事項でもある。)
なんだか、ぐるぐる言葉を煮込んでひとつ言葉を発しては、その言葉の意味を疑い、疑う理由を疑うようなそんな、そんな感覚におちいった。

ストーリーに話を戻すと
当初、小学生が話をしているはずなのに、ボキャブラリーに違和感を感じすぎて、脳内は大混乱だった。正確にいうと、二人いるのに似たようなボキャブラリーで会話が進んでいくことに、違和感を感じていたのかもしれない。個性があるようで無い事が二人を分け隔てるものがない気がして混乱していました。(後に、伏線だったというか、納得はした)
その後、言葉の量が私の処理速度を超えていたので、途中で思考を放棄してしまいました。(ごめんなさい。)
小木という一つの核のためだけに存在していた世界で、核を失ったあとは、悟くんは、止まった時間を繰り返していたのかとか、いや、記録も、記憶も確かではないということの強調だったのか、悟の自我が目覚めたのはいつだったのとかとか、小木の存在が別時空にいるようになってから、小木の年齢に合わせて悟は歳を重ねたのかとか、最終的に、小木の切り離した存在であった悟のほうが本物になったのかとか、であるならば、自己とはなんだったのかとか、悟の珈琲がからなのに飲んでいる気持ちになっているのは、小木が珈琲を飲んでいる感覚のせいなのかとか、珈琲を入れるのが悟になったときは?とか、主が入れ替わっているだけで世界から脱した世界を見ている気がしているだけで結局二人も同じ世界を延々と繰り返しているんじゃないのかとか、、、確証を持って拾えなかったなぁ……と思いつつだった。(1回しか観てない上に記憶が飛びやすいもので、、、明らかに違うだろっていうのも入っていると思います。。。)
とりあえず?
最終的に、思考することを放棄するななと、いうメッセージとして捉えました。

ライティングという意味では
時折、天上より光が落ちてくるかのように各テーブルの薔薇の花が照らされたのだが、純粋に美しいなと思った。(会場は、中央に舞台となる円卓があり、その周囲には観客が座る円卓がいくつかあった。その各円卓の中央に薔薇の花が飾られていた。)円卓に置かれているバラは核であり、バラを中心に広がる世界が広がっている。物語の中の表現を利用するならば、ずっと真っすぐ歩いた先は、一番最初に立っていた場所に戻ってくるのか?という問いの答えにもなるような(物語は、世界だと思っていた世界の外側に世界がある、ひとつの閉ざされた空間(と私は認識した))いくつか存在する丸いゲージの中にいる彼ら(小木と悟)とそれ以外にも存在する誰かの世界(と私は認識した)の存在が、示唆されている気がしたからかもしれない。

会場について
客席とステージが同等な観劇スタイル。観客が演者に触れられるような距離感で演者が居ることに、こういうことか〜とも思った…。
これはきっと、近いことが何よりも正解の人にとっては最高の環境だろうなという気持ち。
演劇を見るという意味では、私は、苦手かもしれない。どこを見れば良いのか、わからない混乱におちいっていた。みんなで会場を作るという意味では一体感があったようにも思う。欲を言うならば…劇場を使ったらどう作品づくりをするのかをみたい!!!

物語の最後の方で、悟は観客側に向かい表情をみせた。私にとってそれは、鈴木勝吾という俳優を知ってから、焦がれてしまうほどに好きな表情だった。言葉なんていらない。その一瞬に全てがあって、すべてを包み込んだような暖かさを感じた。傍観者だった私は、一気に感情が引きずり込まれるような感覚に陥るのがたまらなく、これを味わうことができた事が、何よりも楽しい観劇体験だった。

記録、記憶、歴史、物語、本、、、
あのときあの場に居たという事実は、事実であったようにも思うけど、記憶はあやふやに薄れているのを感じている。真ん中の円卓に二人座る。円卓中央から外に向かって照らされる光が、悟の髪を照らしなお拡散されていく様が美しく、この瞬間を切り取りたいと切に願った。

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