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瞑想が日常にどう生きるのか

哲学とか瞑想とか、抽象的で概念的でふわふわしたものは、学んでどうなるのか、やってどうなるのか、具体的に何に役立つのか、ということが伝えにくいです。長年、数々の哲学書、瞑想指南書を読み漁っている私ですが、皆、あの手この手で伝えようと頑張っています。

というわけで、私も挑戦。
ヨガ哲学に続いて、瞑想編。


少し瞑想を習ったことがある人なら聞いたことがあるでしょう。「瞑想中に、雑念が出てもまったく問題ないですよ。雑念が出たことに気がついたら、また意識を呼吸に戻す、これを繰り返しますよ、それでいいんですよ」と。

でもやるほうからすると、

「いいんですって言われても!!」

っていう感じだと思います。

でも、とりあえず言われたままにやってみる

よくわらからない

まあ、でも1週間くらいはやってみるか、瞑想いいって言われてるし

よく寝た

よく雑念出た

瞑想脱落

誰もが瞑想すべき、とは思っていませんが、こういうの、指導側が理屈でちゃんと説明してあげればいいのに、と思ってしまいます。体得するしかない、とはいえ、効果を実感するまでが時間がかかるから、早急な結果をもとめる現代人には少々しんどいのです。

瞑想は、自分を観察して、自分を俯瞰して、自分の状態を客観的に見られるようにする訓練みたいなものです。


例えば、傲慢になっている人がいるとします。だとしたら、その人が「ああ、自分は傲慢になっているな」と自分で気づくか否か、ということです。気づいたら、傲慢さにブレーキをかける心の作用が働きます。これを陰陽の法則といいます。一つの性質は磁石のNとSのように均衡しあう特性をもっているから、片方に寄りすぎてるなと気づいたら、元に戻す心の作用が働くように、生物学的にできています。傲慢なままあり続けるのは、「自分は傲慢だ」ということに、気づいてないからです。気づいてないから、その自然の作用がはたらかないのです。

だから、もし心が傲慢になっているとしたら、問題なのは、傲慢になっていることそのものではなく、傲慢になっている自分に「気づく」こと。ああ、自分は傲慢になってるな、と。傲慢な人は、自分のことを傲慢だと思っていません。気づいていません。

これと同じで、雑念が出ることそのものが問題なのではなく、雑念が出ていたことに気づくのがめちゃくちゃ重要ということです。気づかずに、雑念にずっと引っ張られ続けちゃう状態が良くないんだよということです。

これを繰り返すと雑念に意識がもってかれる、と言うことが少なくなってくる。そして日によっては雑念が全く出てこなくなる時間が増えます。

そうすると、「いやいや、傲慢になる性質自体が問題じゃないの?」という質問が出てきます。でもあなたは生まれてこの方、一度も傲慢になったことはないですか?そう言い切れますか?傲慢になる事は絶対にないと言い切れる人がこの世に存在すると思いますか?

誰しもが、傲慢になる特性は持っています。全員です。その特性が表面化しているか否か、必要に応じて、それを鎮める状態にもっていけるかどうかだけです。(これをヨガ哲学で「中庸」といいます)

戦争を始める人は、自分は100%正しいと思っています。自分が間違ったことをしているとは、思っていません。日本にいると他人事のようでしょうが、誰しも、生まれた国と生まれた文化が違えば、戦争を始める人になっていた可能性はあります。誰しも、です。


子どものころに戦争体験をした90代のおばあちゃんが、40代の私に聞いてきたことがありました。

おばあちゃん「戦争は嫌よ。なんで戦争って起こるの?」

私「自分は正しくて、人はまちがっているって思うからじゃないですか?」

おばあちゃん「そんなことで戦争になっちゃうの?」

私「戦争を始める人が間違っている。戦争をやめるべきという自分はあっている。そういう心が、戦争を起こすんじゃないですか?」

おばあちゃん「なるほどね」


知ってる人は知ってるでしょう。これは、小林正観さんの哲学のパクリです。私が「数々の哲学書、瞑想指南書を読み漁っている」中の一つです。私が伝えるヨガ哲学は、時代ところかまわず、世界中のあらゆる哲学者のおかずがつまった、幕の内哲学弁当です。


哲学も瞑想も、学んだだけでは自己満足。
哲学は実践哲学にして、瞑想は日常に生かせば、確実にしあわせに近づきます。


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