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SUPERMARINE (3-前半)

 ヒューバート・スコット・ペインは1911年の暮れにヨットの取引をしていたペンバートン=ビリングのアシスタントになるためにサウザンプトンにやってきた。冒険好きな若者であったスコット・ペインはその仕事の面白さに気づき、変わり者の彼の親方のために世界中を旅してヨットを収集して届けた。

 ノエル・ペンバートン=ビリングに関連した仕事には避け難いことだが、その道には災難があった。ある時スコット・ペインはマルセイユに一文なし、移動手段もない状態でいたのだ。善き戦いを愛す頑丈な男であったスコット・ペインは現地のボクシング大会に出場し、帰るには十分な賞金を勝ち取ってサウザンプトンへ戻った。

 若き日の彼にとって戦うことは縁のないことではなかったが、彼の名声はリングの上でのことだけでなく、多岐にわたる街関連の ”パンチアップ”に関しても同様であった。彼のペンバートン=ビリングに関しての仕事は、PBのヨットのクルーを雇っているサウザンプトン海岸沿いのパブに足繁く通う必要があり、 その気でない船員を強引に就役させ、そして一度船に上がればその腕っ節と同じほどに強い彼自身の人間的な魅力でクルーの信頼を得た。

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若き日のスコット・ペイン



 1913年、PBは(モナコ王子から買い取り、その後スコット・ペインの家となった)ヨットのプリンセスアリス号のラウンジでスコット・ペインとともに腰掛け、彼らの新しい展望である空飛ぶ船について話し合った。そのすぐ後、スコット・ペインは”スーパーマリーン”の文字を艇庫近くに新しく購入した屋根に描き、航空力学の実験を始め、自走車の上に大きな帆装を積み、時速60マイル(約96km)近くでドライブした。(1913年にしてはなんと早いことか!)
 
 ペンバートン=ビリング・エアクラフトから現れた最初の飛行機はアーティストの様々な他のフライング・ボートのイメージとともに1913年のオリンピア・ショーで披露されたPB1だ。PB1は多くの人の興味を惹きつけたが、ジョージ5世とウィンストン・チャーチルもその例外ではなかった。(誰が呼んだか、海の飛行機(seaplane)という語がここで作られた。)

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1913年のオリンピア・ショーでのペンバートン=ビリングPB1。空に飛ぶことはなく、さらにそのエンジンは乗り手にとっては不快なものであったが機体のエレガントさは後に続くフライングボートの基盤を作った。


不運なことに、ペンバートン=ビリングとスコット・ペインの情熱は成功に繋がらなかった。PBIは長い滑走にも関わらず離陸しないまま(後のシュナイダー・トロフィー・レース優勝者であり)ソッピースのテストパイロットでもある操縦席のハワード・ピクストンとともにサウザンプトンの海に落ちた。スコット・ペインは96時間寝ずにPBのマシンを飛べるように奮闘したがそれは叶わず、そして飛行機は解体されて材木屋へと追いやられた。

工場でモーターが使われるようになり、しばらくの間まるでスーパーマリーンはペンバートン=ビリングのために様々なエキセントリックな失敗をしているように見えた。その後1914年3月、ドイツ政府がオリンピック前年の宣伝のためのデザインを施した PB7フライング・ボートを2機発注した。大型飛行機の翼がついた34フィートのキャビンクルーザーであったPB7は、真の意味でスーパーマリーンであった。PB7は、普通のモーターボートのように水の中で進むよう、翼は水中で取り外し可能なように飛行機としても船としても機能するようデザインされた。

PBはその仕事のために宿泊所であったプリンセスアリス号を売らねばならず、スコット・ペインに代わりの宿泊場所を見つけるように言った。だがそれは1914年8月4日の第一次世界大戦開戦によってドイツとの取引がなくなったことで必要がなくなった。

PBとスコット・ペインはペンバートン=ビリング・エアクラフトが戦争のためにどう最善を尽くすべきか議論し、PB9というスカウト機を製作することを決めた。この機体はほとんど1週間のうちにデザインと製作がされたということで悪名高く、セブンデイ・バスという名を冠した。ペンバートン=ビリングが工場の壁に設計図を描き、完成するまで誰も家に帰さなかったというのが今でも語り草となっている。実際には破綻した航空会社から買い叩き、大部分はすでにできていたものを使ったというのが妥当なところだろう。PBはもともと自己宣伝の上手い人物だったが、1週間で飛行機を作り飛ばしたその物語は国際的なニュースになった。

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サウザンプトン外れのネットリー・コモンで初フライトの準備をされている、スーパーマリーンの数少ない陸上機の一つであるPB9 ”セブンデイ・バス” 。この飛行機はスーパーマリーンの創始者であるノエル・ペンバートン=ビリングの多くの名声と悪評の種を振りまいたが、技術的には決して優れた飛行機ではなかった。


彼らの最初の飛行機がそのように実際に飛んだという事実は、小さなペンバートン=ビリング社にとってはそれ自体がある意味成果だった。だがしかし、やはりそれは大きな成功ではなかった。あるメカニックは ある飛行機が1週間でデザインされて製作されたなら、それは確かに1週間でデザインされ製作されたなりの出来だ、と話す。

後に大西洋横断飛行で名をあげたジョン・オールコックはPB9でのフライトを断った。PBは機体の能力を実演するため、腹立ち紛れにPB9へ乗り込んだ。(操縦席に座ったのはロイヤルエアロクラブでのあの偉業以来初めてであった。)離陸時に着陸装置が潰れ、激怒したPBがスコット・ペインに向かってこのくそったれをどうにかしろ!とがなりたてた。


つづく



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UPERMARINE AN ILLUSTRATED HISTORY
CHRISTPHER SMITH
2016


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