SUPERMARINE (2)
スーパーマリーンの創設者ノエル・ペンバートン=ビリングの晩年の姿。彼の奇抜さと”飛べるボート”の革新的なアイデアはスピットファイア以前のスーパーマリーンにアイデンティティを与えた。
1. The Man of Supermarine
ノエル・ペンバートン=ビリングはイギリスの中でも最高峰の奇人の一人に数えられる。様々な学校から追い出されたが、とりわけ13歳のときに校長室に火を放ったときにはついに家を飛び出した。
羽毛の枕ふたつ、コルネット(トランペットと似たような楽器)、リボルバーとペットの猫を身につけて、ロンドンの東インドのドックにいる南アフリカ行きの帆船バンプシャー号の甲板手伝いになる契約書にサインをした。ペンバートン=ビリング(以下PB)には学校生活以上に船乗りには向いていなかった。
彼は船を離れ、16歳で自らが持つ文明から離れてナタールとズールー王国の荒野に向かうまでは南アフリカで数々の風変わりな仕事をした。
彼の地では、ナタール騎馬警察に加入しボーア戦争に参戦した。この血なまぐさい紛争の経験は彼を幻滅させ、赤痢と腸チフスの熱でひとしきり苦しめられた後 、イギリス行きの病院船に乗った。イギリスで彼はモーターカーと言う新しいテクノロジーにのめり込むようになり、お抱え運転手として働くこととなった。 (運転の仕方など知らなかったにもかかわらず!)
それから数年間、PBは様々な事業で生計を立てた。サウザンプトンのボートで貿易を始めると同時にタイプライター、ドアの掛け金、シガレットホルダー、計算機などを含む特許品の発明も始めた。アメリカでのライト兄弟の初フライトはPBのイマジネーションを刺激し、彼が自身で飛行する機械を創り出すのは避けられないこととなった。その飛行機はPBの家の屋根から”飛び跳ねる”ことによってお披露目となった。パイロットの間で言われている格言で、 離陸は随意で行えるが、着陸は不可避である と言うものがあるが、おそらくPBはこの”飛び跳ね飛行”の前に彼が選択できる随意事項についてもう少し考えるべきだっただろう。彼は大怪我は免れたが、彼の飛行機は短距離での落下で木っ端微塵となってしまった。PBは庭にその失われた努力の結晶を埋めた。
PBはさらに次の 空飛ぶマシンに熱心になり、それは大地に突っ込む前に小さな”ひと跳ね”をつくりだした。クラッシュに関わらず、PBは飛行を達成したと確信し、あるリポーターにその場面をしっかり調査しに来るよう要請した。気乗りしないジャーナリストは拡大鏡を渡され、飛行機が野原に作った走路を手と膝をついて調べるよう言われた。この綿密な調査は、調査レポートの文章中に飛行機の残骸の背後の約60フィートの消えた滑走路の跡から、PBが実際にほんの少しの間空中にいたことが認められる、と言う記録を残した。
PBの航空への興味は他の飛行家、パイロットの先駆者たちとの繋がりをもたらしたが、PB自身は全く飛びかたを知らなかった。このことはロイヤルエアロクラブの歴史の中で最も悪名高い賭けの対象となった。同僚の航空パイオニアであるフレデリック・ハンドレイ・ページ(後のイギリス航空界の大御所の一人である)は、PBが24時間以内にロイヤルエアロクラブのパイロットの資格を取得できない方に賭けた。
この挑戦をPBはひたむきに受け入れ、しかし驚くべきことではないかもしれないが、その賭けの条件を考えると RAeCのインストラクターのほうが乗り気でなかった。クラブの飛行機を使用する機会を断り、捨て身でPBは自分用の古いアンリ・ファルマンの複葉機を購入し、その全く純な人間性の強さはインストラクターをも説得して教えを得ることができた。そしてついに1913年の9月17日早朝5時45分にノエル・ペンバートン=
ビリングは空へ飛び立ったのである。
その25分後、(どういうわけか)PBはソロ飛行をすべきではないか、そのためにインストラクターは降りて彼を一人にした方が良いのでは、という考えが頭をよぎった。PBのこの唯一の飛行のレッスンを思い起こして、当時のインストラクターは後に”不思議なことに、地上にいるときに恐れていたのは空中に対するものだったが、空中にいるとすぐに恐れは地上に対するものに変わった”と語った。
居合わせたすべての人々を驚かせたことに、9時30分にPBは飛行機を着陸させ、彼のRAeCの証明書を手に入れた——24時間以内であっただけでなく、なんと朝食前に。ちなみにその賭けは500£というかなりの額をハンドレイ・ページが約束通りに支払うこととなった。
PBのパイロット証明書の件に関して、その証明は技術的に合法的に獲得したものだが、それでもパイロットとして正式に達成したことを証明するものではない、ということは指摘されるべきことかもしれない。彼のインストラクターはこう言う。もし彼が飛行のことを全て知っていると言うのであれば、神が彼を助けただけた、と。
これらの突飛な行動はPBに一定の名声と悪評をもたらし、彼が飛行家として有名になりたいと言う決意を手助けした。サウザンプトンの彼の小型船制作所に戻り、PBは古い石炭波止場を飛行場に改装した。彼の二つの興味は彼の工場にユニークな特性を持たせ、PBが言う”飛行機は浮かないがボートは飛べる”の体現へ導いた。会社自体はペンバートン・ビリング・エアクラフト名乗っているにも関わらず、新しい工場の電信アドレスはこれらの新しい考案の海での特性を強調するため”スーパーマリーン”として登録された。
SUPERMARINE AN ILLUSTRATED HISTORY
CHRISTPHER SMITH
2016
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