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コトバってむずかしい

6月から始めた毎日noteとメルマガ。3か月ちょっと経って改めて、言葉を紡ぐって難しいなと思う。

声に出したときの言葉は、強弱、はっきりしているかどうか、声の高さ、そして感情も乗ってくる。さらに実際に目の前で話していれば、表情や身振り手振りなどの視覚的な情報も追加される。つまり、声に出した言葉というのは、言葉だけではない情報がたくさんついてくるのだ。それ全部を含めて、聞いた側は理解したり感じたりしている。

でも、文字にしたときの言葉は、その言葉そのものの意味、文脈、それからnoteのように画像を添付したりできる場合はそれらの情報が伝えるものから、読む側が理解したり感じたりするわけだ。添付資料が増えれば伝える情報はどんどん増えていくことは確かだけれど、基本的に「単語と文章」から読み取るわけだから、声に出した言葉よりも気をつけて扱わないと大きな誤解を生むことになり得る。

私がここで書き散らかしてる文章は、そんなに大ごとになってしまうような意味の深いもののつもりで書いていないので、割とぶっつけ本番で書いている部分が大きいが、それでも投稿する前に1回は推敲する。
メルマガはもっと時間をかけている。内容をざっと考え、構成を考え、ざっくり書いてから肉付けをし、あいまいな情報は資料を探して調べ直して確認し、書きあげてから推敲して修正。その後最低1時間は時間を置いて読み直し、また修正をしてから配信予約をする。

推敲するときには、自分の文章、自分の言葉なのに、考えたことが自分に伝わらないようなこともある。そういう時に、どんな言葉なら伝わるのだろう、どんな言葉だと違った意味にとられてしまうのだろう、ということをあれこれ吟味する。文章の中での言葉の順番を入れ替えたり、文章の構成自体を直すこともある。それでも、数週間経ってから読み直すと、なんだかなぁ…と思う文章もたくさんあるのだ。

ただでさえ、価値観や思考パターンがひとりひとり違うのだから、お互いを理解することはとても難しいことなのだ。それをさらに、言葉という形のない物にのせて伝えようとするのだから、本当に難しい。
でも、だからこそ面白いし、時には書いた本人の意図したもの以上の気づきを得る人がいたりして、そうなってくるともう、文章が自分から独り立ちして、新しい意味や価値を持ったような気がしてくることもある。

自分の主張や伝えたいことを表現することも文章を書く醍醐味だけれど、そういう思いもよらない価値を持つ文章をひとつでも多く生み出すことができたらいいなと思う。そういう文章がたくさん書けたら、ひとつにまとめてみたいような気もする。

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