自立と「思いやり」は相反関係にあると思う

私は、子どもが苦手だった。


特に2歳くらいの無邪気な子が

近寄ってくると

生理的嫌悪感が湧いて

吐きそうなほどだった。


虫が苦手な人、ハ虫類がダメな人と同じだ。

小さな子どもがダメ…だったのだ。


その嫌悪感はどこから来るのか?

ある日ふと、その嫌悪感が来る源に

興味が湧いた。


吐きそうなほどの嫌悪感とともに

やってくるのは

「怒り」と「悔しさ」

そして、「羨ましさ」だった。


「人に甘えたことがない私に、なぜ

   あなたは甘えてくるの?」


自分ができなかったことを

目の前で難なくやってのける無邪気さ。


その甘えに対する妬ましさと羨ましさ。


その気持ちに気付いた時

昔のあるシーンを思い出した。


セーラー服を着た私の足元に

まとわりつく小さな子ども。


私には、年の離れた弟がいる。

セーラー服を着ているから

私は中学生なんだろう。


その弟が小さい時、笑いながら

私に甘えてまとわりついてきたのだ。


セーラー服の裾あたりに

抱きついてくる弟に

「私は父にも母にも甘えられなくて

   1人で頑張っているのに

   なぜ、あなたは父母に甘えるだけでなく

   私にまで甘えるんだ?」


その無邪気さに対する

妬ましさと羨ましさが怒りを増幅させて

吐きそうなほどの嫌悪感となっていた。


それが、冒頭のシーンの理由だったのだ。


私は、自分の深層心理に降りて行って

昔、甘えたかった自分に気づいた。

気づいたことが後に

その嫌悪感を克服するきっかけとなった。


父は、とてもしつけの厳しい人だが

母は、自立を重んじる人だった。


自立とは、自分で生きていける人のこと。

人の助けを借りず、自分一人で…


本来の自立とは違うかもしれない。

今はそんな気がするが

当時の私には、自立とはそういう意味だった。


元から、あまり手のかからない子だった私を

自分で生きていけるよう

手を貸さずに自分でやるよう、しつけた母。


「自立とは、甘えてはいけないこと」

と、子どもながらに感じていたので

父母には甘えられなかった。


唯一の救いは

母方の祖母が私を可愛がってくれたこと。


私は、祖母の布団に入り

一緒に寝させてもらって

映画にも連れて行ってもらったりした。


5歳の記憶がある。

私は、風呂の外の脱衣所で一人

先に上がって着替えていた。

風呂の中では、母が弟を洗っていた。


私は、記憶のある頃には

既に一人で風呂に入っていて

私が出た後に、母と弟が風呂に入った。


ふと、脱衣所の鏡を見ながら

「祖母が死んでしまったら

   私は、この先どうしたらいい?」


そう思うと、涙が止まらなくなり

とてつもない孤独感と絶望とで

一人で静かに泣いた。


祖母は、私の心の拠り所だった。

祖母がいたから

私は今も生きている。


自立を「自分で生きていけること」

と仮定すると

子どもの頃から手をかけてもらうことなく

自分で何でもやれるように

自分一人で悪戦苦闘しなければならない。


そして、自分で何でもできるようになり

一人で生きていける大人になった時

誰かのために何かをしてあげたいと

思うだろうか?


誰も私を助けてくれなかったのに?


その反面、いつも誰かに頼りたいと思う

不安な気持ちを持った大人になった。


「人は一人では生きていけない」


そう聞くけれど、私はずっと孤独だった。


自立は、一人で生きていくことだと

思ってしまっていたから。


一人で頑張るのに精一杯なのに

どうして、人のことを気遣ったり

思いやったりしないといけないんだ?

誰も、私のためにしてくれたことはないのに?


誰かが私のために何かを気遣ってくれたり

思いやってくれたことを

心から嬉しく、有り難く思うから

大人になった時に、誰かに

その嬉しかった行為をするんだと思う。


子どもの頃、甘えさせてもらって

嬉しかった記憶があるから

大人になって、子どもが近寄って来た時に

抱きしめたり、可愛がったりするんだと思う。


抱きしめてもらった記憶がないのに

目の前の子を抱きしめられる?


「私は抱きしめてもらったことがないのに…」

という悔しさと羨ましさに阻まれて

抱きしめることをためらってしまうと思う。


私は、子どもを産み

育てることができるのか?


結婚をした後

私は、そんな目に見えない不安と

戦うことになった。



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