さよならの金木犀
どうしたって生きていれば骨は軋むし
崩れて壊死する思いもある。
理由なんて後付けで
なんでもいいから意味があればそれでいいんだろう。
でも
これはなに?
わたしには、解らない。
そうして 君にも、きっと。
―金木犀の髪飾り―
いつぞや思っていた。
金木犀の花のような髪飾りがあったら、さぞかし可愛いんだろうなって。
だから落ちた花弁を掬い上げて、自分の頭の上に降らせたら、
「ばっちいでしょ!」
誰に言われたかは忘れた。お母さんのようなおばあちゃんのような知らない人だったような。あやふやだ。
すぐ頭の上の花びらをはたかれて、結局髪飾りにはならなかった。
あれはいつのことだったかな。
冷たい秋だったことは、あとからの知識でわかっている。
肌で感じたあの秋の空気も、実は忘れてないのかもしれないけれど。
それでも香りの記憶は無い。
―隠れる先生―
小学校の頃、学校の裏門のすぐ左に金木犀の木があった。大きさはそんなに大きくない。木の下には姫つつじの茂みが植わっていた。
その頃はわたしは小学三年生くらいで、もう金木犀を髪飾りにしたかったコトなどコロッと忘れて
それでも秋になったときにその木の側を通るのは好きだった。
「先生?」
去年の担任の先生、少し変わった女の年配の先生。
先生は金木犀の木の下に隠れていた。
「なにしてるんですか?」
わたしが言うと、先生は、しーっと口元に指を当てて、
「隠れているのよ」
と言った。意味が解らずぼやっとしていると、
「金木犀の香り、いい香りね」
と言うから。
わたしはその時、生まれて初めて金木犀の香りを感じた。
その香りを、今では思い出せないけれど、でもその心の震えだけは覚えている。
冷たい空気に、橙色。深い緑の葉。なんとも言いがたい、泣きそうに心地よく、でも突き放された気のしたあの心地。
隠れる先生と、その上にある金木犀。なんとも 不思議な秋だった。
―さよならのはじまり―
「金木犀が満開なのよ。お散歩に行きましょう」
そういったのは看護師さん。
少なからずわたしはその言葉に期待を抱いた。
中学二年生。わたしは子ども病院の精神科に入院していた。
ギスギスした心を持ち合わせたわたしは、九月の初めに入院したのに
十月半ばに差し掛かるそのときも、まだ入院生活に馴染めなかった。
パジャマの上にパーカーを羽織って、わたしは看護師さんに連れられて、
病室を出て病院の駐車場近くにある大きな大きな金木犀の樹に向かった。
「まあ、いい香りね」
その女の看護師さんはわたしは実はあまり好きな看護師さんではなかった。
でも好意で連れ出してくれたんだから、とわたしも倣って金木犀の樹を見上げた。
?
どうしたんだろう。
何か変だ。
相変わらず看護師さんは樹を見上げたまま「いい香り」とか言っている。
…香り?
香りが、しない。
「………香りが、しない」
とわたしが言うと、看護師さんは目を丸くして、
「そんなわけないわよ。こんな強い香り。ほらもっと近くに寄ってごらんなさい」
花びらに顔を近づける。……なんの香りもしない。
そう言うと、
「まあ!今度、耳鼻科で診て貰わないとね」
でも別に全ての香りがしないわけじゃない。
ただ、金木犀の香りがしない。
その看護師さんは、次の日も、その次の日もわたしを散歩のときに樹の下に連れていった。
「今日こそは」
そんなコト言いながら。
でもわたしには何も感じられなかった。
そのうちに、雨が降って、寒くなって、花びらは皆、地に落ちた。
それが、わたしと金木犀のさよならのはじまりだった。
―そこにずっとあったのに―
退院はその次の年の春だった。
ギスギスした心はすっかり丸くなって、
高校受験も視野に入れたり、いろいろとなすべきことのある年だった。
その秋、やっとわたしは家の前のマンションの生垣が金木犀であることに気付いた。
それを母に告げると、
「この家に住んで四年は経ってるのに、今気付いたの?」
と笑い混じりに呆れていた。
そうしてやはり感じられないその香り。
やはりその年も、感じられないまま、花びらたちは雨に振り落とされて、去っていった。
―そして 今―
もう、どんな香りだったかわたしには思い出せない、橙の、冷たい季節のそれ。
十四歳から二十二歳の今まで、一度も ただの一度も、金木犀の香りは感じられなかった。
そうして今年も群れて咲く金木犀の花。やはり、香りはしない。家族に聞けば、「ああ、いい香りだね」。
どうしてだろう。わたしにはわからない。
きっと君にもわからないだろう。ましてや、金木犀の香りを知る、君になんて。
髪飾り、払われた花びら、小さな木、隠れる先生、目の覚めるような心地、入院、大きな樹、橙・橙・零れ落ちるような 橙色。
もう思い出せない。ただ、金木犀を取り巻くその秋の淋しさだけ。
そういえば、何故か今挙げた金木犀の話の中の秋空は、いつも曇っていて、金木犀と言えば曇り空、なんて認識ができてしまっている。香りは忘れたのにそんなコトは覚えているのね。
もしも
もしも香りがもう一度したなら、わたしはどう思うんだろうか。
もうこれ以上しないとは思うのだけれど、秋になるたび仄かな期待を抱いては、やはり裏切られる。
どうしてだろう。わたしにはわからない。
そうして、君にも、きっと。