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織田信長にもたてついた!?佐分利殿、武藤上野介のこと。

謎多き武将

グッドモーニングのトキオカです。
ひょんなことから築230年の古民家を譲り受け
それを活用したまちづくりを目指すこととなった
僕たちグッドモーニング。

今日は「佐分利谷の古民家」のある
「佐分利谷」の歴史についてお話します。

戦国時代、ここ福井県おおい町の石山地区を中心に
佐分利谷一帯を治めていた武将が、
今日紹介する「武藤上野介友益(むとうこうずけのすけともます)」です。

武藤上野介2

(イラストは町内の歴史愛好家、四方氏の作をお借りしております!)

別名「佐分利殿」とも呼ばれる友益は「謎多き武将」とも呼ばれており、
15世紀に若狭武田氏と共に安芸から入ってきたという説があるものの、
その出身地や最期など、詳しい生涯は分かっていません。

好戦的?平和的?

時は戦国時代。正に「下剋上」によって身を立てる世の中。
「好戦的」ともいわれる武藤氏には、数々の戦の記録が残っています。

ただ領土の民が安心して暮らしていくためには
周りからの領土を守る必要があり、
そのために戦に明け暮れざぜるをえないという
ある種、矛盾をかかえていた面もあったのかもしれません。

実際武藤氏には、菩提寺である父子区の海元寺を訪れる際には
わざわざ汗や泥で汚れた衣服を着替えて山門をくぐったという逸話や、
石山区の浄土寺を夫人の菩提寺として定め
足しげく通ったとされる逸話なども残っており、
一概に好戦的だったとは考えられないいわれも多くあります。

ただ16世紀には周辺の本郷氏やお隣高浜町の逸見氏と
激しい合戦を繰り広げた逸話も多く残っており、
やはり一国一城の主として、戦を繰り広げる毎日だったようです。

織田信長に狙われる

好戦的だったとされる武藤上野介ですが、
全国統一を目指す織田信長にも頑強に反抗を続け、
1570年にはいよいよ信長から武藤氏討伐の命が出ます。

命を受けた信長軍は、京都から熊川(現在の福井県若狭町)に入り、
武藤氏を襲うように見せかけますが、
その後一転して越前の朝倉氏を攻めます。

これは朝倉氏を油断させるための作戦だったようですが、
このときの様子は大河ドラマ「麒麟がくる」でも紹介されていました。

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一旦難を逃れた武藤氏ですが、その後丹羽長秀と明智光秀に
石山城を包囲され、結局織田勢の軍門に下ることになります。

その記述は信長の一代記「信長公記」にもみられるようで、
興味のある方はご一読ください。

そして佐分利谷の古民家に

織田の軍門に下ったのちの武藤上野介については
実は詳しい文献が残っておらず、
1580年ごろには史実からその名前が消え、一時代が終わります。

ただ佐分利を離れる際、その家督を家臣に譲ったとされており、
家督を譲られた家臣こそが
現在の「佐分利谷の古民家」の当主にあたるわけです。

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歴史は流れ、武藤姓を継いだ家臣家はここ佐分利谷に暮らし続けます。
武藤上野介が去ったのちには、庄屋として
代々、地域のまとめ役を担ってきたようです。

当家とともに佐分利谷の歴史を見守ってきたこの古民家。
やはり、ヘタなことには使えないなぁと。
改めてその責任を感じざるを得ないなぁ...

楽しく、そしておしゃれに。
僕たちのとりくみは、まだ始まったばかりです。

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