元気があれば

最近、ない。

著しく、パワーが無い。
なんとなく落ち込んでて、なんとなく感傷的になることが多い。

体力がないのも原因だと思う。
かねてから筋力がなくて、かねてから体調を崩しやすい。
筋力がないと自覚しながら、何も解決しようとしない自分がまねいた事態である。愚かだ。

本来の気の強さと傲慢さを凌駕するほどの繊細さ、ストレス耐性の低さが招く体調不良。心が気づくより先に、身体が悲鳴を上げはじめる。もはや生活の一部となった胃腸痛、生活から程遠くなった脂っこい食べ物、大好きな揚げ物、ジャンクフード。

大好きな酒やファストフードをたらふく楽しめなくなったこと、無理して食べた次の日は必ずトイレに頻繁に行くようになったこと、人間は変化する生き物だけど経験したくないそれだった。

精神の脆弱性も最近何度も考えあぐねる大大大問題だ。
この精神のまま生き続けるには、ちょっと人生は長すぎる。

25年生きてきて、いろんな人と出会った。気が合う人、そうじゃない人、素敵だと思う人、こうはならないようにしないとと思う人、本当に多種多様。
その中で気づいた一番のショックは、世間一般の母親と娘の関係性と自身の違いだった。これは私と全世界のそれ以外、とかそんな大きな話をしているのではなくて、出会ってきた人と私の対比だ。

私にとって母親とは、権力であり、絶対的存在だった。
母に嫌われないように、母に叱られないように生きることが何より大事で
友達と喧嘩をしたと言えばお前が悪いの一点張り、
テストでいい点をとっても上には上がいると言われ、
修学旅行の写真を見せれば、ため息をついて「あんたっていつも引き立て役ね」と一言。
母に向かって本音100で話すことなんて今思い返せばほとんどなくて
いつも母の様子を機嫌を伺い、彼女が求めている展開は何か、答えは何か、いつもいつも探っていた。もしかしたら今もそうかもな。

でもそれがおかしいとか、間違っているとか
そんなふうに思ったことは一度だってなかった。だってそれが私の当たり前だったから。けどそれが歪だと気づくきっかけが、友人たちとのふとした会話の中にたくさん散りばめられていた。

たとえば実家に帰るのだって、家族イベントだって
億劫なものの一つだ。気を使うし疲れる。
母なりに愛情たっぷりにここまで育ててきてくれたのだろうと思うが、
私にとって母は、自己肯定感をすり減らす脅威だ。

何を話しても大抵嫌味を言われ、「すごい」と言われることが前提の持論を展開される。疲れる。

祖父母と母の関係性を見ていて思うが、母は両親から大きくて優しい愛をたっくさん受けて育った人だ。それが自分への容姿内面ともの自信につながっていると思う。だから人生で壁にぶつかった時も、挫けそうになった時も、その両親の後ろ盾や両親によって培わられた自己肯定感や自信が彼女を支え、強くしたのだろうと勝手に思う。

彼女にあるそれが、娘の私にはない。
容姿の自信なんて、彼女に削ぎ落とされた今あるはずもなく
どれだけ褒められることがあってもおべっかにしか聞こえない。
人前に立って注目を浴びるなんて、絶対に嫌だ、辛い、逃げたい。

こんな調子だから、他人を信用することができるわけもなく
家族を築くということへの希望なんてまるでなく
家族という文脈では一生独りかもななんて思う。

血のつながった家族に心地よさを感じられない、絶対的な味方がこの世にいると感じない、私のこの人生は自分を好きにならないと結構きつい。

でもその、自分を好きになるハードルがあまりにも高すぎる。
自分との約束を守るとか、そういう対自分との決まりをしっかりこなして積み上げて
人の目よりまず、自分の目を気にしてコツコツ積み上げる必要があると思う。

家族を大事にしないととか、そんなことはわかっていてもなかなかできないし乗り気になれない。だって脅威なんだから。仲がいいと言われるが、そんなことはない。殿様と家来の関係だろう。相手が心地よく感じるようにこっちが動いているだけにすぎない。そして彼女は、他人から仲の良い親子ねと言われることに満足する。そんなものだ。

そして幼少期から培った、相手の機嫌や欲しい言葉を察知する能力は社会で生き抜く上でいい武器になった。嫌いな上司も苦手なあの子も、そいつらの特徴をつかめればこっちのもんで、どれだけ心の中で奴らを踏み潰しても、外面だけはいいものだからそいつらはいつも私に親切にしてくれた。楽だった。

でも今、そのシーズンが終わり、また虚無シーズンに入っている。
日本から離れ、知り合い1人いない環境に飛び込んだ。ご機嫌察知能力は、国を超えて役に立った。すぐにコミュニティになじめるし、アルバイトだって順調だ。ただ、その社会的な私は本当のわたしとあまりにも違いすぎる。

ここでは誰も本当の私を知らない。
本当の意味での友達なんて、1人もいない。

日本に帰れば、こんな私を大事にしてくれる友達がいるが
ここには誰もいないのだ。

日本と比較しても、自分の気持ちに正直に気を使わず生きている人が多いからこそ余計に感じるものなのだろうと思う。人を気遣う、ということはやめたくないがもう少し程度を下げてもいいなと思う。もっと、自分らしく生きることを大事にしてもいいかもしれない。愛想笑いはやめよう。わかったフリはだいぶやめられるようになってきた。

(うんこみたいな発音なのに、理解できない私を責める様な口ぶりをしてくるあの女は気にしなくていいな。だってあの子の声がデカくて頭が悪くて自分のことばっかりな性格がダメなだけだもん。私悪くない、声がでかい女に碌な奴はいないし、まともに取り合う時間は無駄だと思う。)(これはただの悪口)

きっと今は、そのモヤモヤが強くなって元気がないのだ。

どこにいても自分がぶち当たる悩みって同じだ。
そんなことにこのノートを書いていて気づいた。

自分との約束を守る、なりたい自分に近づく。これが今私ができることだ。

他の人は裏切ってもいい、ダメだけどいいよ。まずは自分との約束を守ろう。

そうすることで自然と他人も守れるように、大事にできるようになるのだから。
誰も守ってくれない、愛してくれない自分は、自分が愛するしかないのだから。

恋愛なんてその次よ、今の私を誰が好きになるというのかしら。

落ちるところまで落ちたのだから、あとは上がるだけよ。頑張りなさい。




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