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英語学習日記 #7 "Empire"

今回学んだアイディア
・大英帝国の歴史

こんにちは!
こちらの英語学習日記シリーズでは、Blinkistで新しく知った英語表現や英単語を中心に、個人的に面白かった、勉強になったポイントを紹介していきます。今日はその第7回です!
とりあえず、noteへの投稿を1週間休まずに続けることができました。

本日のBlinkのタイトルと著者はこちら。今回の記事で、読み終えたBlinkは合わせて25本になりました。

Empire by Niall Ferguson
- How Britain Made the Modern World -

世界史のおさらい

今日は、イギリスの帝国主義のはじめから終わりまでを、かんたんに要約してみようと思います(今日のBlinkの内容を訳しているだけで、世界史の本などで確認しているわけではないため、抜け・漏れや翻訳ミスによるニュアンスの誤りがあるかもしれません)。

EnglandやBritainは、イングランドやブリテン、イギリスなどと日本語に置き換えずに、そのままアルファベットで書いています。っていうかイギリスって何?(唐突)
英語だとBritainだし、日本語だけにある音なのかなあ。

chapter 1

帝国主義に関しては、Englandは遅れを取っていた。16世紀初期までにはスペインやポルトガルなどの強国は、アメリカに関する所有権を宣言していた。この時点ではEnglandは、自分自身でアメリカを制圧して植民地化するのではなく、スペインがアメリカから得た金銀などの富を、海賊によって奪う戦略を重視していた。

スペインが行く先々でCatholicismを布教していたことも、Protestantを好むEnglandには都合が悪かった。エリザベス女王はprivateeringによって、私掠船を認め、スペインから富を奪った(ちょうどその頃、海賊たちは富を求めて世界中を航海しても、何も見つけられなくなっており、海賊たちにも都合がよかった)。

これによって利益を上げ、砲術や航海術、機動力を高めたEnglandの船団は、17世紀には、スペインの船団のレベルに追いつこうとしていた。Christopher Newportは1599年にメキシコのTabascoにあるスペイン植民地を襲撃し、片腕を失った代わりに富を築いた。Henry Morganは1668年にスペイン帝国の植民地(現在のキューバ、パナマ、ベネズエラ)を襲い、奪った富でジャマイカの土地を買った。ジャマイカがサトウキビ栽培に理想的なことがわかってから、ジャマイカは最初の植民地となり、Morgan自身が総督となった。

chapter 2

England人は甘い物好きだった。ジャマイカのサトウキビのおかげで、砂糖の価格は貴族だけでなく庶民も楽しめるほどに安くなった。England人はコーヒー、紅茶、タバコ、綿、チョコレートなどの輸入品に夢中になった。1740年から1750年までの10年間だけで、紅茶の消費量は80万ポンドから250万ポンドに増えた。これらの消費需要に見合うだけの莫大な金がEngland国内にはあり、消費需要によって帝国主義は拡大・成長を遂げた。

これらの需要を満たしていたのは東インド会社だった。複雑なことに、最初は2つの東インド会社があった。オランダ東インド会社(the Dutch East India Company)とイギリス東インド会社(the English East India Company)だ。

2社間の競争は激しく、1652年から1674年の間に、Englandとオランダ公国の間には3回の戦争が起こった。多くの面で力の弱かったオランダが、戦争でも貿易でもEnglandを打ち負かした理由は、先進的な経済制度だと言える。オランダでは近代金融の初期段階が実践されていた。オランダの金融機関は、自国通貨と海軍を支えるために設立されており、国際も管理されていた。

これらの敗戦に続いて、1688年にはEnglandでクーデターが起こった。ジェームズ2世は追放され、オランダ総督のオラニエ公ウィレムがEnglandの王となった。2つの東インド会社は合併され、Englandには金融制度の進化がもたらされた。1964年にはアムステルダム銀行にならってイングランド銀行が誕生し、お金が集められ、国債が発行され、信用と負債の管理が行われた。これらの金融システムの刷新により、東インド会社はかつてない利益を上げ始めた。Englandはインド、東南アジア、アフリカ、西インド諸島などに強固な根を張り始めた。

chapter 3

Englandのライバル、フランスがこの状況を黙って見ているわけはなく、1664年にフランス東インド会社を設立した。両国間の緊張は18世紀初期に沸点に達し、以降様々な衝突が起こった。

1707年にScotlandとEnglandの国会が公式に合併し、the United Kingdom of Great Britain(グレートブリテン王国)が誕生した。1713年にはスペイン継承戦争が起こり、弱体化していたスペイン海軍とスペイン帝国はさらにその力を失い、Britain海軍がヨーロッパ1の実力を持っていることに疑いの余地は無くなった。

1756年に始まった7年戦争は、最初の世界大戦とも呼ばれ、プロイセン、オーストリア、ロシア、スペインなどの多くの国を巻き込んだ。北アメリカの領地に加え、カリブ海やインドも戦場となった。結果はBritainの大勝で、フランスはカナダ、フロリダ、ドミニカ、グレナダ、トバゴ、セントビンセントなどほとんどの領地と、ベンガルの戦略的地域をBritainに割譲した。

chapter 4

インドはBritainのものとなり、インドで一儲けしようと多くの人が海を越えた(このような人々はNabobと呼ばれた)。このような人の動きは大英帝国誕生の土台となった。17世紀だけで、イギリス諸島から70万人もの人々が新しい目的地へ飛び出ていった。

このような人の中には、自らの意思でなく、無理やり連行された人もいた。

貧困層や前科者などから集められた、indentured servant(年季奉公人)と呼ばれる人たちは、5年間働けば自由になれるという希望から、成功の見込みのない元の世界を抜け出し、大西洋を越えた。壮絶な船旅の後(到着前に亡くなる人も多かった)も、アメリカでの未知の病気や、雇用主からの虐待が待ち受けていた。

奴隷にされた人たちもこの中に含まれた。16世紀から18世紀にかけて、国際的な奴隷売買によって、人の悲劇から莫大な利益が生まれた。1750年までに、約80万人のアフリカ人が強制的にイギリス船でカリブ海に送られた。1807年までに、約350万人の奴隷にされた人たちが北米に送られた。奴隷にされたアフリカの人たちが強いられた境遇は非常に非人道的だった。

18世紀末期には状況が変わり始めた。奴隷廃止論者が政治的権力を高め、Evangelical ProtestantsとQuakersが奴隷売買廃止委員会を立ち上げ、ついに1808年には奴隷売買が大英帝国で公式に禁止された。

1837年に始まったヴィクトリア朝では、大英帝国内でEvangelical Protestants, Quakers, Methodistの影響力がより強くなった。少なくとも人権が尊重される点でこれは良い傾向だったが、帝国内の非キリスト教信者に対し、神を恐れるクリスチャンになれという宣教師からの圧力が強まることにもつながった。これが後に重大な結果を引き起こすことになる。

chapter 5

宗教的弾圧を恐れ、自由を求めてメイフラワー号に乗り、アメリカに渡った集団(Pilgrim Fathers)をルーツとして成長したアメリカのコミュニティでは、大西洋を隔てた母国の法律に従い、税金を治めることに対する反感が高まっていた。Bretainで生まれた人どうしがお互いを殺し合った独立戦争の後で、最終的に、1776年に独立宣言が採択された。

オーストラリアの植民地化が始まったのは、アメリカが独立した後だった。1787年から1853年の間に、オーストラリアには約15万人の犯罪者が送られ、労働を強いられた。結果的にこの犯罪者たちは、自らの意思でアメリカに移住した者たちよりも、より強力で安定したコミュニティを形成し、オーストラリアは不毛な土地から新興都市へと成長を遂げた。

アメリカの独立により、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカなど、大英帝国の他の植民地にも自治権が与えられることになった。このことはそれらの土地の先住民にも大きな影響を与えた。

アメリカへの入植者がネイティブアメリカンを迫害したのと同じように、オーストラリアに入植した犯罪者たちはアボリジニを虐殺していた(スポーツハンティングなどという記述を見ました。。最悪にも程があります)。大英帝国はオーストラリアの自治を認めながらも、監視の目を光らせており、大英帝国はニューサウスウェールズと西オーストラリアにアボリジニ保護区を設けた。これにより暴力が完全になくなることはなかったが、入植者の自治を制限する効果はあった。

chapter 6

東インド会社設立初期から、イングランドはインドから富を搾取していた。しかしビクトリア朝時代は、それのみならず、インド住民に対するキリスト教への改宗も行われた。想像の通り、これはうまくいかなかった。

インドでは、娘の結婚費用が捻出できない場合に起こるとされる、生まれた女児を殺す慣習(female infanticide)があった。また、サティ(sati)という、死んだ夫の火葬の際に、妻が生きたまま燃やされるというヒンドゥー教の慣習もあった。

このような慣習についての報告書がBritainに提出されたが、大抵その件数は実際よりも多く誇張されていた。とはいえ、このような慣習の報告によって、キリスト教団体の決心は強められ、内政干渉によってinfanticideとsatiの慣習は禁止された。これを皮切りにキリスト教の影響力は増していった。

反逆のきっかけとなったのは、慣習の禁止や法の施行ではなかった。セポイと呼ばれるインド人の歩兵は、ムスリムやヒンドゥー、シーク教徒で構成されており、彼らにとっては戦士であることは信念と直結していた。そのため、大英帝国が新しく用意した軍服のターバンに動物の皮が使われていたことや、エンフィールド銃の薬包の潤滑剤に動物の脂肪が使われていたことは、彼らにとって非常に大きな問題だった(牛はヒンドゥー教で神聖視されており、豚はムスリムに不浄とみなされていた)。

エンフィールド銃を使う際、戦士は薬包を歯で食いちぎって開封する必要があり、これらは彼らの宗教的禁忌を犯すことと同義であった。そのためセポイたちは反乱した(1857年、インド大反乱)。

chapter 7

この反逆によって1857年にインド政府法が設立され、東インド会社はついにBritain政府の一部となった。これにより、インドは初めて公式に英国政府に支配されることとなった。これは大きな変化だった。この時期、インドの他の地域では、民間企業が大英帝国建設の主導権を握っていたからだ。

南アフリカではセシル・ローズがダイアモンド採掘企業を設立した。1895年には武力で中央アフリカを征服し、自分の名にちなんでローデシアと命名した。それだけでは飽き足らず、アフリカ中を大英帝国領にしようとした。20世紀の初めには、その夢はほとんど叶えられようとしていた。大陸中に途切れることのない商業網は、帝国をかつてない強さまで引き上げた。

chapter 8

アフリカを植民地化したのは大英帝国だけではなかった。19世紀にはアフリカ分割と呼ばれる支配権争奪があり、これにはドイツ、フランス、ベルギー、ポルトガル、スペイン、そしてイタリアが関わった。大英帝国領は世界の4分の1にも及び、その支配は最盛期に達していた。しかし、これは転換点でもあった。

南アフリカのダイアモンドと金の高山を手に入れるために、1880年から1902年にかけて、大英帝国はボーア戦争に突入した。ボーア共和国は定住したオランダ人の子孫からなる国で、東南アフリカの独立国だった。この戦争でボーア共和国の約3万軒の家が焼き払われ、強制収容所でほぼ3万人の女性と子供が死亡した。

防げたはずのこの悲劇のニュースは、Britainに悲しみと怒りをもたらした。リベラル派はこれを機に政権を取ろうとした。1902年にはJ.A. Hobsonにより「帝国主義」が出版され、帝国主義は最も豊かなエリートのみに利益をもたらすだけの税負担でしかないと論じた。

同時に、ドイツとの戦争がリベラル派の立ち位置を複雑にしていた。ドイツは強力な軍隊を持っており、大英帝国は衝突を望んでいなかったが、ドイツがヨーロッパを征服するのを座って眺めることはできなかった。戦争の鍵となったのは、帝国主義だった。大英帝国のために戦った兵士の3分の1は植民地の兵士だった。インド、オーストラリア、ニュージーランド人は特に勇敢に戦った。

chapter 9

大英帝国は第一次世界大戦の終わりにさらに領地を得たが、戦争による財政の消耗は大英帝国の終わりの始まりとなった。帝国であることがBritainを苦しめていた。防衛力を再構築し、軍隊の近代化に投資する必要があったが、それができなかったため、第二次世界大戦でBritainはほぼ全てを失った。

第二次世界大戦の始めには、Britainはいまだに戦場で馬を使っており、ドイツが持っていた近代的な戦車や砲台をまったく持っていなかった。このままでは戦争に勝てないと多くの人が思っていたところだったが、幸運にもチャーチルは、ヒトラーの和平条約締結の申し出が悪意に満ちたものであることを知っていた(ドイツと和平を結んだ他の国は、ナチスの傀儡国家になっていた)。そして、Britainには帝国の兵士という強みがあった。全部で約500万人の兵が集められ、彼らはまたもや戦勝に重要な役割を果たした。

決定的となったのはアメリカの参戦だった。アメリカは新たな帝国を作る立場となった。Britainは莫大な借金と深刻な再建の必要性に追われ、広大な帝国を維持することは不可能となっていたし、終戦後の交渉の場で、ルーズベルトとアイゼンハワーは帝国主義の存続を認めなかった。ルーズベルトは、「植民地制度は戦争を意味する」と述べた。植民地制度には搾取構造がつきもので、これが軋轢を生じるのは避けられないからだ。

1947年にはインドが独立した。大英帝国にかわり、イギリス連邦が誕生した。現時点でカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどを含む54か国のメンバーが所属している。

感想

訳すと長くて死ぬかと思いました。ただの英語学習ルーティン&記事投稿になんで10時間もかけてるんだ俺?

でも、すごく勉強になりました(ちゃんと訳すために、人物や出来事の経緯、日本語での呼び名などを調べたりもしました)!あんなに眠かった世界史の授業ですが、こうしてストーリーを読むととても面白かったです。

1年後から外資系企業で働くことになっている身としては、このような背景をきちんと勉強しておくことはすごく大事だなと思いました。ある国のルーツや歴史について勉強しておくことは、将来僕の同僚や友人になるかもしれない、その国出身の人のアイデンティティを理解することに繋がりますし、それによって不用意に地雷を踏んでしまうことも避けられるかもしれません。日本が第一次・第二次世界大戦中に犯した加害の歴史も、もっとちゃんと勉強しなきゃなと思います。


また、今日の文章を読んで、数百年前と比べて、現代がいかに人権的に進んでいるか、恵まれているかがわかりました(先住民虐殺や奴隷売買の話などは反吐が出ました)。

と言っても、昨年のBlack Lives Matter Movementを引き起こした事件などを見れば、今も世界にはracism(レイシズム)やwhite supremacy(白人至上主義)が残っています。

日本国内を見回しても、日本の外から来た人に冷たい目を向けたり、「(特に中国や韓国出身の方に対して)〇〇人は〜〜だ」などと国籍だけで決めつけるような発言をする人もいます(その人の属性だけを見て、異なる扱いをしているのですから、これは差別であり、「国籍」や「人種」という属性によって差別をする人はレイシストと呼ばれます)。僕やあなたの何気ない発想や言動にも、レイシズムの片鱗が見え隠れしているかもしれません。まだまだ僕も勉強する必要があります。

また、日本にいれば日本人はマジョリティですが、海外に行けばアジア人差別の対象になる側でもあります。C○VID-19の流行初期には特に、アジア人に対するヘイトクライムが多く報じられました。


「国籍」や「人種」から視点を変え、もう少し身近な「性別」という属性に目を向けてみると、日本社会が圧倒的な男性優位社会であることと、その結果として日本がいかに女性に優しくない国であるかが見えてきます。

成功の鍵はイノベーション、イノベーションの鍵は創造性、創造性の鍵は多様性(diversity → creativity → innovation → success)...そんな内容のBlinkは既に少なくとも3記事は読みました。国家だろうが会社だろうが研究チームだろうが、組織が結果を出して生き残るには、多様性と、多様性に対する寛容さが必要なのです。しかし、日本の現状はというと、自民党も、経団連も、大手企業の役員会も、、メンバーはみな高齢日本人男性。多様性はどこに?

そんな組織に未来があるはずがありません。

この辺の話が、自分が外資系企業や海外留学を目指してきた理由でもあるので、何かきっかけがあればまた文章にまとめて発信しようと思います。


Global citizenshipの追求を人生のゴールとしている自分としては、人権問題を前に進めてきてくれた上の世代の人々に感謝しつつ、残った課題や悪い慣習は俺たちの世代で叩きつぶしていこうぜという気持ちです。

そのために、まずは問題を知ることから。
「自分の持つ特権に気付かずにいられること」それ自体が特権であると言われます。太田啓子さんの「これからの男の子たちへ」を読んだり、一般教養で家族法の授業をとってみたり、男女間の不平等問題に関しては今年度は意識的に学んできましたが、他にもいろんな分野の問題を学んでいきたいと思います。

あとは、未来の人目線で今を見るのも良さそうです。
今日のBlinkのような奴隷売買や先住民虐殺などは数百年前の話でもあり、考えるだけでおぞましいレベルの非人道的行為ですが...
GHQによる改革がなされるまで、「女性には参政権がなかった」なんて、75年前の日本やばいですよね?
未来の人にとって当たり前だけど、今はそうじゃないこと。これを想像するだけでも、今何をすべきかが明確になりそうな気がします!


以上です!

(男女間格差も、人種問題も、めちゃくちゃデリケートな問題だと思うので、浅い知識で適当に書き散らかすのではなく、本来はたくさん本を読んで、何日も練りに練って書き上げるべき内容だとは思うのですが、英語学習日記を毎日休まずに書き上げることが僕の使命なので、今回はこれで終わります。勉強不足ゆえ不適切な表現等があるかもしれません。その場合はコメント機能などでご指導いただけると助かります)


 勉強になった表現

今日登場した、個人的に勉強になった/面白かった表現たちです!

unprecedented[that has never happened, been done or been known before]

辞書で調べたら、すでに線が引かれていたので。1週間くらい前のBlinkで見た気がする。

best sb[to defeat or be more successful than sb]

bestに動詞があるのは知りませんでした!

the final straw / the straw that breaks the camel's back

AtsuさんのDistinctionに載っていた表現。なるほどこうやって使うのね!

今日調べた単語

今日英英辞典で調べた単語・表現は次の128個です!春休みで時間もあるので、前から知っている単語も意識的に調べて、例文を音読したり、自分が知っている意味以外での用例を確認したりしています。(ピンクの蛍光ペンでチェックしている単語は、重複していました💦)

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今日は普段読まないタイプの歴史の文章だったので、知らない単語が多くありました。

気がついたら8561字も書いていました。
ここまで読んでくださった方に感謝です!ありがとうございます!
明日も書きます!

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