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幼馴染み

私には幼稚園、小学校、中学校と一緒だった幼馴染みがいる。彼女とは(記憶が正しければ)8年間同じクラスで、必ず出席番号が前後であった。幼稚園、小学校低学年の頃はお互い家を行き来したりして遊んだりもしてたが、中学に入るとグループも違うし話すことはほぼなかった。無論彼女がやんちゃ組で私は日陰のそのまた日陰である。高校は別で、もうそれ以来会っていない。

そんな彼女がどうやら結婚していたらしい。

なんとも喜ばしいことである。

なんとも、喜ばしいことである。

他人の幸せを喜べない奴など風上にも置けない。

しかし何だろう。
謎のショックを感じるのである。


「同い年の奴が知らないうちに良い相手を見つけ結婚し子供が出来その様子をInstagramに載せているその様子が何とも微笑ましい」

という状況が、あらゆる感情の波を連れてやってくるのである。
私が湘南生まれの生粋サーファーだとしてもこの波は乗りこなせないであろう。無論、バンドマンの私にそんな波を乗り切るすべはなく、仕方なく海へドボンした。

なるほど、「結婚に焦る」という感情の根本は此処にあるのではないだろうか。ブクブクと海をさまよいながら考える。ig上の幸せそうなフォトショット、(無論その背景にはさまざまな苦難の歴史もあったことだろうが)、切り取られたものにしか目がいかないのは人間の性である。その幸せフォトショットから発せられる大量の「幸せオーラ」は一瞬にして致死量に達し、「あぁ俺は何をしているんだろう」と自己肯定感をひたすら低下させていく。そして短絡的に「結婚したら何か変わるかもしれない」という気持ちが「結婚したい」という願望へ転換されていく。海の中で目の前を流れていく「日々の不安」「孤独」「将来」「幸せ」という言葉たちは気づけば自分の足にまとわりついて海底へとこの体を連れて行こうとする。

「ほかの誰かになんてなれやしないよ」
と書いた常田さん(king gnu)の言葉がグサグサとささる。
所詮は他人の幸せは他人の幸せである。
そいつは眺めるくらいにして、自分の幸せは自分でつかまねばならぬのが世の常というものである。なんとも哀しきことかな。
とはいえ、
それ故に、人間というものを眺めているのが面白かったりする。
まだまだモラトリアム真っただ中の私は、自ら感情の海へ飛び込む選択肢が許されている。もう少し泳いでみようじゃないか。


とにもかくにも、
結婚おめでとう。
体調に気を付けて。
無事元気な赤ちゃんが生まれることを祈っているよ。


そうか、
もし今後何かしらで同じクラスになっても、
出席番号が前後になることはないのね。
それはちょっと寂しいね。

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