映画を早送りで観る人たちとサメ映画の隆盛

『映画を早送りで観る人たち』という本がある。

タイトルの通り、映画を早送りして観る人たちの行動原理や文化の背景を探る本らしい。

この本が出版されて以降、早送りする人たちが可視化された…ということはなく、その存在は以前より至るところで認知されていた。この本を読んだかどうかは知らないが、話題に上がるたびに「コンテンツが多すぎるから早送りでもしないと消化しきれない」「手早く消化しないと仲間の話題についていけない」など様々な考察(という名の当て推量)がなされているのをよく見かける。いずれの考察にも共通するのは「消化する」という意識であり、コンテンツそのものを楽しんでいると自称し、早送りなんてとんでもない!と思うTwitterのオタクからは理解できないという声が聞かれる。

ただ、個人的な印象としては、Twitterのオタクもこういった人たちと同じ精神性を有しているように見える。さっさと、簡単に、コンテンツを「消化」しておきたいという気持ちを持っている。こういった精神性をファスト文化と呼ぶのだそうだ。

たとえば、下記のツイート。2024年の名探偵コナン映画の予告を切り抜いたものだ。

このツイートは、コナンの公式アカウントが2月15日の5:00にツイートした予告動画を切り抜き、同日9:09にアップしたものだ。その間たったの4時間。通常の人間が6-7時に起床することを考慮すると想像される猶予はさらに短い。

なぜ、この人間は高々1分半の予告動画から2秒のシーンを切り取って自分のアカウントでアップしたのだろうか? なぜ、「コナン映画の爆発がすごいから見てくれ!」と公式のツイートを引用リツイートしなかったのだろうか? この人間は知っているからだ。標準的なTwitterユーザーは高々1分半の予告すら億劫がって観ないということを。自分の好みのシーンを確実に見てもらうには、そのシーンだけ切り取ってツイートするのが最も優れた手段であることを。

だから過去一でヤバいらしい爆発シーンを切り抜き、ツイートが一瞥されただけでもわかるように2秒程度のショート動画に収めた。どこまで自覚的な行いだったかは定かではないが、自分の好みのシーンを手軽に見てほしいという欲求があったことは間違いない。単に思ったことをつぶやくだけならば引用リツイートで済むからだ。

私は、ここにファスト文化を肯定する精神性、コンテンツの肝だけ手っ取り早く「消費」する精神性が潜んでいると感じた。これこそが、映画を早送りして観る人たちと同じ精神性なのだ。映画を早送りするひとたちは、たくさん観たい、周りと話を合わせなきゃならない、要点だけ押さえれば十分など、様々な理由でコンテンツをファストに消費する。一方で、だからといって早送りにするのはよくない、ちゃんと提供された速度で観よう、それが一番面白いのだから、と思う人間がたくさんいる。私も同じように思う。どんな理由があっても切り抜きだけ見るのはよくない、ちゃんと提供された予告動画を全て見よう、それが一番面白いのだから、と思う。


ところで全く関係ないTwitter初級者としての疑問なのだけれども、Twitterの動画を保存→切り取り→アップってそんなに早くできるの? そういうアプリがあったりするの? AndroidのTwitterアプリだとそもそも動画保存すらできないのだけれども…。他動画サイトや映像媒体からの切り抜きやgif化も毎回不思議。そういうのって無断転載防止機能があるんじゃないの…?


さて、Twitterで見られるファスト文化はもちろん動画に限らない。noteやブログにネット記事、果ては電子書籍やマンガアプリでも気軽なスクショ切り取りが日常的に行われている。一週間Twitterを見ていればどこかで必ず目にするはずだ。紙の書籍でもそうではあるが、デジタル媒体ほどの頻度ではない。

たとえば、次のツイートは電子書籍をスクショで引用したものだ。多くの人間の目に留まり、togetterにもまとめられている

ただし、こちらの人間は上のツイートのリプライにつなげてちゃんと引用元を示している(下記ツイート)ため、先例のツイートとは異なり、学術的に正当な引用であり、ファスト文化と呼ぶにはそぐわない。

しかし閲覧数に注目していただきたい。上のツイートが66万件の閲覧で下のが4.3万件(2024/02/23時点)と、約15倍の差がある。TLにたまたま表示されただけでも閲覧したことになるため単純な比較はできないが、コンテンツのキモを手軽に「消費」できて満足し、他の部分を味わおうとしない人間が多い傍証にはなるだろう。しかもその興味充足は「TLに流れてくるツイートを見る」という受動的な形で得られるので、映画を早送りで観る人たちの方が能動的に興味を満たそうとする点でマシである。そもそもTwitter自体が、タイムラインが流れていくのをぼーっとスクロールするだけの、能動性を阻害するメディアではあるが。

なお、15倍の開きは、そもそも一般人に引用を示す習慣がないことも要因のひとつではあるだろう。つまり、出典を探しにリプを覗きに行く人間がそもそも少数であり、「消費できたからもういいや」だけが15倍の開きを生んだわけでないのだ。ちなみに先述のコナン映画予告を切り抜いたアカウントは公式の予告ツイートをリツイートしておらず、当然出展も示していなかったため、あの切り抜き動画のツイートからは出典が確認されないようになっていることは付言しておこう。もちろん「コナン映画」と言っているのだから引用元が明らかで確認可能ではあるのだが、わざわざ公式ツイートを検索する人間が非常にレアケースであることは言うまでもないだろう。


以上二点からは、①Twitterのオタクも手っ取り早く消費することを好み、②出典を確認して肝だけではなくコンテンツすべてを味わおうとする気概がないことが言える。たとえ映画を早送りして観る人たちに否定的な姿勢をとるTwitterのオタクであっても、自分たちの専門の埒外であれば、手軽に素早く消費したいという気持ちがあるのだ。

たった二点の証拠で結論を出すのは性急すぎるも思うだろうか。であれば、私の提示した観点で一週間だけでもTwitterを見てみてほしい。コンテンツを紹介しながらも自分が注目した箇所をスクショしたり、元動画のアドレスを示さずにショート動画を切り抜いてツイートしたりと、ファストな消費が日常茶飯事であることがわかる。他にも、短い記事ならわざわざ全文をスクショしてアクセスする手間を省く親切丁寧な心づかいも見かけるし、そもそも元記事を紹介しないものすらある。もっとひどく、拾いもののスクショや画像が使われ、出典もわからずにバズってしまうこともしばしばだ。


こういった、コンテンツを手軽に素早く消費したいという欲望、そしてスクショとTwitterという環境が生み出した、とある歴史的転換がある。

サメ映画の台頭である。

ファスト文化が大量のサメをスクリーンに解き放ったのだ。

まず、承知だろうが、"いわゆる"サメ映画を能動的に探して自主的に観る人間は少ない。ごく少数の異常者が自身の異常な欲望、あるいは義務感に駆られて進んで行う自傷行為こそがサメ映画探求なのだ。

ちなみに「"いわゆる"サメ映画」と書いたが、平たくトンデモサメ映画とも呼んでも良い。こう表現すれば、私が話しているサメ映画が名作サメ映画や低質なだけで面白くないクソサメ映画ではなく、サメが空を飛んだり頭を増やしたり巨大モンスターと戦ったりする類の映画であることがわかるだろう。以降、断わりがない限り、「サメ映画」は「トンデモサメ映画」を指すものとする。

さて、異常者たちは狂人な精神を活用してサメ映画を探し、鑑賞する。そして異常者の一部がサメ映画の愉快な部分を切り抜いてSNSで公開する。サメが空を飛んだり頭を増やしたり巨大モンスターと戦ったりするシーンを、だ。あまりに愉快なので皆がそれを面白がって広める。なされていることはファスト文化の肯定・促進であり、サメ映画の台頭にもつながる。ちなみに、ほとんどの人間はSNSの愉快な切り抜きで満足して本編を観ようとはしないため、私が上述した二例ともよく合致する。観ない方が賢いけれど。

なお、名作映画には見どころに至るまでの「流れ」があるため、切り抜きだけでは良さが伝わりにくい。そこに至るまでの流れをぶつ切りに編集すればさすがにわかるが、それこそ逮捕者も出た「ファスト映画」になってしまう。また、クソサメ映画は単純に見どころに欠ける。それどころか文章で説明した方がまだわかりやすい。一方でトンデモサメ映画は、『シャークネード』シリーズや『メガ・シャーク』シリーズなどに代表されるように、ひと目見たビジュアルのインパクトがすさまじいために話題になりやすい。最近だと設定もトンチキなものが多いのも追い風になっているはずだ。


私は昔、クソ映画ハントをしていた。毎週三本の映画を近所のツタヤで借り、うち一本は必ずパッケージをじっくり見てクソ映画を選んでいた。懐かしくも不思議なひととき…『ゾンビナース』、『最恐!ゾンビハンター』、『アイス・オブ・ザ・デッド』、『トランスモーファー』、『メン・イン・バカ』、『ザ・コンタクト』、『エイリアンvsニンジャ』、『デビル・クエスト』…色んなクソ映画が私の中に入っていったあの頃。中には『シャーロック・ホームズvsモンスター』や『プテラノドン』、『ゾンビクエスト』といった当たりもあった。名作だろうという期待が外れると悲しくなるが、クソ映画だろうという期待が外れるとちょっとだけうれしいものだ。

もちろんサメ映画も観た。『メガ・シャーク』シリーズ、『シャークトパス』シリーズ、『鮫の惑星』、『ゾンビ・シャーク』、そのほか、内容が大体同じゆえにタイトルを思い出せない数々のクソサメ映画。名前は思い出せないが、確かにあった。サメは出てくるが人間と一緒に映らないうえに、青い海を悠々と泳いでいるだけのサメしか映らないから恐ろしさが伝わってこない…そんな映画たちが。言うまでもないが名作サメ映画も観た。

その経験から言えば、大抵のサメ映画で愉快と呼べるのは、切り抜いてSNSに投稿されるようなワンシーンだけだ。そのほかのシーンは大概退屈だ。幼稚園児が画用紙に描く画のように、正面から撮影したカメラワーク。単調な演技に、どうでもいい長台詞。しかもそれらのカットはだらだらと長い。それを観続けるのが大変な苦痛なのだ。サメ映画はゴム・ジャッバールだ。

だから、サメ映画はTwitterでカルト的な人気を博すようになった。苦痛を呼び起こす本編なんか観ないでSNSで共有される愉快な切り抜きだけ消費していれば大変愉快なままなのだ。そしていつしか共通認識が生まれた。みんなで笑ってツッコミを入れながら楽しめる映画と言えばサメ。パッケージだけでも笑える映画と言えばサメ。

昔、そのポジションにいたのはゾンビ映画だった。ゾンビ映画も設定が命だ。どういうシチュエーションでゾンビアポカリプスが起き、どういうゾンビに生命を脅かされているのか、それをみんなでキャッキャしながら共有しあっていた。ツッコミどころがある設定も多々あった。いや、過去形ではなくまだあるにはるのだが、それがSNSで耳目を集めることはほとんどなくなった。ゾンビ映画は、サメに食われてしまったのだ。


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