豪雨でも流されなかったものは

「今年のコメはもうダメだ」
腰の曲がった祖父はつぶやいた。

 梅雨。黒々とした雨雲が空を覆う。人の気持ちは落ち込みやすく、夏前の憂鬱な季節。けれど、ぼくたち農民にとっては恵みの雨。腰を曲げて一所懸命に植えたイネたちが水分を全身に浴びてすくすくと成長する。

 だけど、今年は違った。世界が一変した。それも一晩で。

 7月7日から8日にかけ、山陰地方は線状降水帯に覆われ、豪雨に見舞われた。各地で河川が氾濫し、土砂崩れによる通行止めが多発した。
 
 翌日から「復興」は始まった。道路の泥を撤去し、巨大な石を砕いた。田んぼを点検し、多すぎる水を調整する。

 今年の雨は大変だったなぁ。
片付けも一通り終わり、そう思った矢先のことだった。

 同月13日、山陰はまたも豪雨に襲われる。

 1週間のうちに2度訪れた「災害」。再び河川は氾濫し、しかも前回の雨をたっぷり含んだ山の斜面が崩壊、土砂崩れが各地で起こり、孤立世帯も多く出てしまった。
 そして、青々しかった田んぼには、茶色い悪魔のような土砂が容赦なく流れ込み、美しいキャンパスは汚れた。

 4月から種を蒔き、5月に植え、毎日手入れをしてきた田んぼが無残な姿になっていた。
 秋に向けてどんどん元気になっていくはずの祖父の曲がった背中が萎んでいる。
 その姿はまるで、時間をかけてつくった雪だるまが翌朝には溶け、顔も何もない雪の塊になってしまったものを見る無邪気な子どものような、悲しげな背中だった。

 私たちは自然に生かされている。その自然は突然牙を剥く。誰も責められない。悲しみのやり場もない。

 けれど、希望はある。今回の災害で幸いにも「人」は失われなかった。
ダメになった田んぼはまた整備すればいい。何年かかってもやるんだ。やらなければいけない。ここでぼくが手放したら永遠にあの美しい田園は失われるのだ。連綿と受け継いできた水面を無くすわけにはいかない。

 黄金色に輝く稲穂と、曲がった腰を精一杯に起こして、誇らしげに見守る爺さんの背中をぼくは見続けたいから。

ぼくらの希望まではまだ、流されちゃいない

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