心の余裕の話
心の余裕がある人ってカッコいいよね。誰しも一度はそう思ったことがあるんじゃないかな。
ムキにならないだとか、いつでも丁寧だとか冷静だとか、感情に振り回されないだとか、人の悪口を言わないだとか。そういった振る舞いができる人のことを「心の余裕がある人」と表現したりすると思うんだけど、どうやったらそういう人間になれるのかってとこで明確な答えを見つけるのはちょっと難しいよね。
今回は俺が知っている「心の余裕」についてのアレコレを書いていこうと思う。
「心の余裕」は副次的な産物でしかない
まず、心の余裕の正体について俺の見解を述べるんだけど、心の余裕というものがいわゆる「気の持ちよう」で生まれることって実はほぼないんだよね。こういう精神論的な話になると、思考や解釈でどうにかできると思い込む人がとても多いんだけど、それは間違いだ。
心の余裕というものは、常に形のある根拠に付随する副産物的なもので、単独で手に入れたり、無から生み出したりということはできないものなんだよね。それを前提として理解することは必要になってくる。
これは簡単な話で、たとえば1万円入ったお財布を落としてしまったとする。落とした人の全財産が1万円しかなかったら途方に暮れるだろうし、1億円だったらなんとも思わないだろう。
そのように、起きた出来事と発生したストレス、その1つ1つに対して感情や精神が耐えうる状況に自分がいるかどうかという話にほとんどが集約されるので、ここでいう心の余裕の正体とは単純に全財産の1億円とそれを持っている事実ということになる。
お金だけではなく人間関係や人生設計など、あらゆるすべての物事にこの理屈は当てはまると俺は思っている。本物の心の余裕を手に入れたければ、それが叶うだけの形ある根拠を手に入れるほかないということで、逆に言えばそれが手に入っていない故に心に余裕がないということは、いたって普通・健全であるということだね。
先に言っておくけど、心の余裕がないことってそんなに悲観することじゃないからね。それも覚えておくと良いと思う。その認識を持つことが心に大きな余裕を作ったりはしないけど、心に余裕がありそうな人の振る舞いができる根拠にはなるから。今の自分は余裕がない、と思えるという大事なことに繋がる。
寛容と心の余裕の関係性
心の余裕を持つためにやってはいけないことがある。それは「無理に寛容であろうとすること」だ。
これは絶対に覚えておいてほしい。
性格診断を行った人たちの統計を性格別に分けた結果が「診断・占いが好きな性格の人」に偏るみたいなもので、心に余裕を持ちたいと考えて答えを求める人というのは、そもそも「心に余裕がなくなりやすいタイプの人間」が多いと思う。
かくいう俺自身もそうなんだけど、単純にこれは性格で、そういう星のもとに生まれたとしか言いようがない。先天的に、心の余裕という概念を課題として捉えるタイプなんだよね。
一方で、それを課題として捉えないような、生まれ持った「取るに足らない」「気にしない」の範囲が広い人間もいるんだけど、決して彼らの真似をしようとして「寛容な性格になろう」などと考えてはいけない。それは心の余裕を生んだりしない。
何故かというと、彼らは性格的に結果として寛容には振る舞えるけど、意識下で能動的に心の余裕を作っているわけじゃない。つまりは「気にしない」というのは方法じゃなくて性格であって、彼らが寛容に振る舞えることと心に余裕があることは、必ずしもイコールではないんだよね。
彼らだって「受け流せないこと」が起きたら余裕のない素振りを見せもする。心の余裕というのは、そうやって「センサーが反応した後」に表れるもののことを言う。見習うべきなのはあくまでもそこであって、性格による「気にしない」という部分ではないということ。
心の余裕があれば寛容な態度をとることを楽に選べるけど、寛容な態度をとれば心の余裕が生まれるわけじゃない。それどころか、心の余裕がないのに寛容に振る舞おうとすると、それだけでリソースをすべて使い果たしてしまい、余裕は微塵もなくなってしまう。
心が広い人ぶることにいっぱいいっぱいになって、指で少しつついただけで破裂してしまいそうな人を見たことがないかな。本当は寛容になれるほど余裕がないのに無理して寛容な素振りをしてるせいで、他者から寛容でないと思われることを「努力を否定された」とヒステリックに捉えるしかなくなってしまう状態にいる人。
縛りが自分を追い詰めている人は、本人は気付いていないだけで周りの人からはまるわかりで、まるで爆弾のような存在だね。
なので、俺らのような「気にしい」な人間が「気にしないようにする」を心の余裕を持つための手段として取り入れることは、不可能だと思っていい。
寛容であることにもまた、性格に並ぶような根拠が必要になってくるということだと俺は思う。
形のある根拠を手に入れる
心の余裕の正体とやってはいけないことについて触れたので、じゃあどうやって心の余裕のある人間になるんだ、という話に入る。
つまりは形のある根拠を手に入れるってことなんだけど、誰でも手に入る根拠が1つだけあるんだよね。それは「行動」だ。
「気の持ちよう」では根拠たりえないものが、「行動」を伴うことで形のある根拠になる、つまりそれだけ差があるということを俺は言いたい。
先の項で財布を落とした例を挙げたんだけど、1万円しか持っていない人間が「落とさないようにしよう」と強く思うことと、家に9000円置いていくという行動をとること、どっちがいいだろうね。
考えるまでもなく後者なんだけど、気の持ちようでは問題が起きたときに何も残らない。想いが強い分ショックも大きい。踏んだり蹴ったりだ。
もっと言うと、先ほど1億円が心の余裕の正体と言ったのは1万円しか落とさなかった場合の話であって、行動がとれない人間というのは極端な話、1億円持っていたら1億円落とす。
いくら持ってていくら落とそうが同じようにいつも明るくいられるというのは、心の余裕でも何でもなくて、現実逃避かただのバカなので目指すべきところじゃない。寛容について述べたのと同じことで、余裕を持てる根拠がないのに余裕ぶっているというのはただのバグ、不健全な状態なだけ。大事なのは家に9000円を置いていくという行動を取ることで、それだけが財布を落とすというトラブルから感情や精神を守ってくれる根拠になるということなんだよね。
これは保険を張るという話なんだけど、他にもたくさんある。たとえば善行もそうだ。
募金は良いことであると理解している人と、実際に募金をしたことがある人。ドナー登録者が増えると良いなと思っている人と、実際にドナー登録をしている人。ボランティアを支持している人と、実際にボランティアをしている人。
そのような、善悪の判断ができる人と実際に善行を積む人には超えられない壁があることは伝わると思うんだけど、その壁を超えるのは行動1つだよね。
これは善行を積んだ人にしかわからないことだから説明しないけど、積むこと自体が心の余裕を生んでくれる根拠になる。褒められるためにやってたら意味がないけどね。それは無理に寛容であろうとする人と同じマインドだから。
余裕がなければそんなことはできないというのが文句のテンプレートだけど、あえて端的に否定する。やれば多少なりとも心に余裕が生まれる。それが善行なんだよね。
あとは、努力した軌跡が自信を担保してくれるという事柄もこれに近い。自信も行動ゆえの心の余裕だろうね。やるべきことをしっかりやっている、心の余裕というものは、実際はそういった人間だけが持てるものなんだよね。能天気な性格でヘラヘラしているだけの人間には実は心の余裕なんてこれっぽっちもない、それが実態だと俺は思う。
心に余裕がある人間はいつだって意味のある行動を積み重ねている。思い込みや人の真似で簡単にできることじゃない。だから心に余裕がある人間はカッコいいんだよ。
総括
まとめると、絵に描いたような「心に余裕のある人間」になるのは難しいんだよね。そんな人、本当に珍しいよ。
色々書いたけど、俺の意見は以下になる。
・心の余裕は形のある根拠に付随するものである
・心の余裕は誤った認識では手に入らないし、簡単に手に入ることもない
・心の余裕がないことを悲観する必要はない
急いで「デカい人間」になろうとしなくていいんだよね。形のある根拠を得ていくというのは、人としての器を大きくすることと同義だから、ゆっくり確実にやっていくほかない。近道なんてどうせないんだから。俺も頑張っているけどまだまだなれそうにもないな。
強いて言うなら、心の余裕を持つというより、自分にとって心の余裕を奪う要因を正確に認識することが大事だと思う。大きくなるんじゃなくて、小さな自分の器の状態を欠かさずチェックすること。それなら、俺にも毎日できる行動だね。