伊藤 京一郎

社会福祉士・精神保健福祉士です。よろしくお願い申し上げます。

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最近の記事

総裁選に思う

 岸田文雄内閣は、個人的にはなかなか酷い内閣だったと思う。具体的には2024年明けからの与党派閥裏金問題が、政治の信頼を失った…となっているが、一昨年7月の参院選最中の首相経験者の銃撃殺傷事件を受けての国葬の実施や、その年の瀬の安保関連3文書の改訂は、自民党単独与党時代にも踏み入ることのなかった領域へと、敗戦国の政府として足を踏み入れてしまった感想を持つ。  宮澤喜一内閣の下で、第40回衆議院選挙(総選挙日1993年7月18日)を経て、自民党は鳩山一郎内閣の下で1955年1

    • 自民党の命運は尽きた…?

       2024年9月、8月14日の岸田文雄自民党総理総裁の与党総裁選不出馬の表明を受けて、与野党のいわゆる党首選挙が耳目を集めるようになった感がある。  第5次吉田内閣の退陣を受け、1954年暮れに民主党党首の鳩山一郎が内閣総理大臣に就任する。そういえば、当時1931年暮れに誕生した犬養毅内閣の発足から約23年が経過していた。宰相犬養毅は翌年5月15日に「話せばわかる…」と、襲撃しに来た海軍将校らに語ったと伝わるが、大正末期から続いた「憲政の常道」は犬養毅内閣を区切りに終わった

      • 選択肢

         野党代表選、与党総裁選が続くようだ。いずれにしろ、今月末から来月初めに新たな日本の内閣が発足し、米国次期大統領が選出され、衆議院選挙という運びになるのではないだろうか。  野党代表選に、江田憲司、野田佳彦、枝野幸男、泉健太、吉田晴美と候補ないしその予定者の名前が報じられている。個人的にはよく知らないこともあるが、江田憲司候補ないし吉田晴美候補が野党の代表となるのが相応しいと思うが、野田佳彦、泉健太では日米安保体制路線は野党であっても変わらず、沖縄の基地負担軽減にはそこへ踏

        • 野党代表選に関心が向かないのは「政治」に関心がないからだろうか?

           すっかり忘れていた。与党の総裁選の前に。野党の代表選も行われるらしい。伝え聞くところ、与党派閥裏金問題の追求をしてきた神戸学院大学の上脇博之教授が、昨夜民放ラジオ番組に出演していた。そして語っていたことを聞いて、自分が本当に阿保な人間なのだと思った。与党総裁選がどうなるかはわからない。しかし、上脇教授が追求してきた政治とカネの問題は、今回の公職選挙法も適用されることのない与党総裁選で、争点となることはないのは火を見るより明らかなことなのだ。それは私にはよくわかっていなかった

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        • 私の徒然随想
          21本

        記事

          自民党総裁選に本来求められていること 2

           最近になって私は認識した…つまりよく知らずに生きてきた。最初の自民党総裁選は、鳩山一郎初代自民党総裁の内閣退陣表明を受け、1956年暮れに実施された。自民党発足から約1年後だった。最初の投票では岸信介が一位となり、党員票の過半数を満たさないか何かの要因で、決選投票が行われ7票差で石橋湛山が二代目の総裁に就任し、内閣を率いている。70年近く前になる。  この夏、1884年生まれの石橋湛山、東條英機、山本五十六を取り上げたラジオ番組を放送していたが、そのなかで首相就任した石橋

          自民党総裁選に本来求められていること 2

          自民党総裁選に本来問われていること

           調べてみると、第一次岸田内閣は2021年10月4日に発足し、早々に衆議院の解散をした。38日の東久邇宮内閣の記録(54日)を超える最短命内閣となった。衆院選を経て自公政権は多数を占め、同年11月10日から翌年8月10日まで第二次内閣、2022年8月10日から翌年9月13日まで第二次一次改造内閣、2023年9月13日から恐らく2024年9月30日までが第二次二次改造内閣になるのだろう。3年足らずの内閣だったことになるようだ。  最近、原武史の著作「戦後政治と温泉-箱根、伊豆

          自民党総裁選に本来問われていること

          岸田文雄の退陣表明に寄せて

           阿呆の記すことだから、さして中身あることは記せないだろう。しかし、何処へもぶつけようのない怒りが心中にマグマの様に蠢く…。55年体制を継承する自民党総裁としては及第点が付けられるとの見方もあるかもしれない。年が明け自民党派閥裏金問題の批判を受け、先の国会ではその対応策としての法案も、衆参で採決時に補完野党勢力の対応に差は出た様だったが、多数決で与党案が成立した。それはこの内閣の在り方を象徴するものだった様にも思える。来月予定される与党総裁選には出馬しないとの表明は、何を言っ

          岸田文雄の退陣表明に寄せて

          二十一世紀の日本でファシズムは既に始まっている?

           以下の記事は、2014年7月1日の日本経済新聞の記事からの引用になる。  政府は1日夕の臨時閣議で、集団的自衛権を使えるようにするため、憲法解釈の変更を決定した。行使を禁じてきた立場を転換し、関連法案成立後は日本が攻撃されていなくても国民に明白な危険があるときなどは、自衛隊が他国と一緒に反撃できるようになる。「専守防衛」の基本理念のもとで自衛隊の海外活動を制限してきた戦後の安全保障政策は転換点を迎えた。  引用はここまで。これから遡ること約半年前、安倍内閣は「国家安全保

          二十一世紀の日本でファシズムは既に始まっている?

          安保関連三文書の改定と自衛隊ヘリ偵察、訓練中の事故に思う

           2024年4月20日10時33分頃、伊豆諸島沖で海上自衛隊の哨戒ヘリSH60K(16号機、43号機)2機が、潜水艦を探知する訓練の最中に衝突して墜落した。乗っていた隊員8人のうち1人の死亡が確認され、ほかの行方がわかっていない7人は死亡したと判断された。  2023年4月6日にも、沖縄県宮古島市沖で第8師団第8飛行隊所属のUH-60JA多用途ヘリコプターが航空自衛隊宮古島分屯基地を離陸した後、海岸地形に対する航空偵察にあたる最中に宮古空港から北西約18kmの洋上空域でレー

          安保関連三文書の改定と自衛隊ヘリ偵察、訓練中の事故に思う

          時間が経ってわかってくること…

           「オッペンハイマー」という映画を試写で観たのがきっかけだった…。ぼんやりと知っていたことに光が当てられ、よりはっきりと見えてきた。そんな感じがしている。  インターネット上で目にしたのだが、ある書簡がオークションで売りに出されたという。1939年8月2日付でAlbert Einsteinを差出人として、当時の米国大統領F.D.Rooseveltに宛て作成された「アインシュタイン書簡」と呼ばれる手紙があるのだが、それが売りに出されたと伝えられていた。それは当時の米国大統領に

          時間が経ってわかってくること…

          イスラエル考

           イスラエル🇮🇱のことをよく知らなかった…。2023年10月7日のハマースによるイスラエルの奇襲テロ攻撃以降のことが一つの考える契機に私の場合はなった。これまでも地中海に接する死海を含む旧約聖書に「カナン」と呼ばれる地域で、ユダヤ人とアラブ人の間に、21世紀に入ってからは「ガザ」と呼ばれるパレスチナの自治地区でイスラエルによる壊滅的な軍事攻撃が繰り返されてきていたことは知ってはいた…。  世界史で、20世紀初頭のサイクス・ピコ条約、フサイン・マクマホン協定、バルフォア宣言と

          アルベルト・アインシュタイン2

           先日も、アインシュタインについて記した。これまでこの人物にそれほど関心を持ってこなかったこともあって、この科学者のことを改めて認識している。補足してその後知ったことを少し記しておくことにする。  「ユダヤ人」その定義は明確に存在するのか、よくわからないが、Wikipediaには「ユダヤ教の信者(宗教集団)またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のこと。」とあった。Albert Einstein(1879.3.14ー1955.4.18)はHermann Ei

          アルベルト・アインシュタイン2

          途上にて

          1.長崎市の浦上天主堂の近くに「珈琲家(かふぇや)」という名の喫茶レストランがある。近くには長崎子ども・女性・障がい者支援センターがあり、少年鑑別所もある。平和町商店街からも近い。2024年3月のある日、そこで読んでいた地元紙に映画の試写会の案内が出ていたのでスマートフォンを使って応募したところ、ハガキが後日届き試写会に参加できることになった。それで映画 "OPPENHEIMER"を3月18日に視聴することができた。見終えてからこの作品がアカデミー賞を受賞したことを知ったが、

          アルベルト・アインシュタイン

           アルベルト・アインシュタイン(1879-1955)に映画オッペンハイマーの試写を視聴してから少し感心が沸いてしまった。Wikipediaに記されていたことに過ぎないが、ほとんどよく知らなかった。これまで関心を持つこともあまりなかった。日本では同時代に生きた人物としては吉田茂(1878-1967)、広田弘毅(1878-1948)がいる。ちなみにJ・ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)は彼らから四半世紀ほど後に生まれていた。  アルベルトはドイツ生まれで、卒業した

          アルベルト・アインシュタイン

          OPPENHIMER

           クリストファー ノーラン作品を初めて鑑賞したような気がする。試写会に行くことができたのである。この作品は私のツボにハマった。傑作だった…。このような作品が見たかった…そうした映画であった。  1900年の12月に、ドイツの物理学者マックス プランクがブランク定数とのちに呼ばれるものを着想し、物資が分子から構成されると考えられていた様に、エネルギーもエネルギー素子から構成されるとした量子仮説を構想したことが量子力学の皮切りになったとされている。これから四半世紀のち、1925

          象徴って?

           表紙?の絵はオディロン・ルドンの絵画になる。作曲家の武満徹が確か、この絵画の影響を受けて「開かれた耳」とアイディアを得ていたような気がした…。勘違いであったら恐縮である。  1889年2月11日に公布された明治憲法で主権者とされた天皇は、1946年11月3日、日本国憲法の交付によって象徴とされることになった。その間、57年9ヶ月足らずだったことになる。以来、77年が経過した。アジアで最初に憲法を作ったのはトルコであったと昔学んだ覚えがある。東京外国語大学などのホームページ