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自民党総裁選に本来問われていること

 調べてみると、第一次岸田内閣は2021年10月4日に発足し、早々に衆議院の解散をした。38日の東久邇宮内閣の記録(54日)を超える最短命内閣となった。衆院選を経て自公政権は多数を占め、同年11月10日から翌年8月10日まで第二次内閣、2022年8月10日から翌年9月13日まで第二次一次改造内閣、2023年9月13日から恐らく2024年9月30日までが第二次二次改造内閣になるのだろう。3年足らずの内閣だったことになるようだ。

 最近、原武史の著作「戦後政治と温泉-箱根、伊豆に出現した濃密な政治空間」を読んで、1946年11月頃から1965年8月の池田勇人の死去まで続いた政府首脳の…避暑地通いとでも表現しておくと、総理大臣が閣議を欠席することも日常的に起きていたことで、それに対する世論の風当たりもそれほど強くはなかった時代があった…政治の持つ意味合いやそこに求められていたものが、閣議によって決定されてゆくといった手法によらない時期が存在していたことが伺えた。

 敗戦後最初の衆院選で、第一党の党首であった鳩山一郎は、GHQによる公職追放で政界を離れ、東久邇宮内閣で重光葵に代わって初入閣し外相を務めていた吉田茂が、幣原喜十郎の後を受けて内閣を担う。1947年の敗戦後2度目の衆院選で社会党が躍進し、第一次吉田内閣が退くと、片山、芦田内閣と続いたが、第二次吉田内閣が再び組閣され、1948年10月から6年余り政権運営に当たった。東條英機が首班指名を受けた1941年10月からおよそ7年後に第二次吉田内閣は発足し、サンフランシスコ講和条約と日米安保を締結することになる。

 吉田内閣の退陣を受けて、鳩山一郎が内閣を担い、この内閣が日ソ共同宣言を行なって退陣し、最初の自民党総裁選を経て、石橋湛山が2代目の自民党総裁を務める。しかし、石橋は体調を崩して2か月ほどで総裁選を競り合った岸信介に内閣を引き継ぐことになり、安保改定まで岸が内閣を担う。その後、吉田茂の抜擢で入閣して政権運営に携わるようになった池田勇人が60年代に所得倍増計画を打ち出し、政治の季節から経済へと、吉田の唱えた軽武装経済重視路線へと日本政府の方針は変わっていったようだが、池田勇人自身には日本が核武装することの想定も、念頭にまるでなかった訳でなかったらしい…。

 南原繁に代表されたような全面講和は、吉田内閣の下で退けられ、日米単独講和の路線で政府は歩みをなし、それは今日の岸田内閣まで継承されてきた。1990年8月2日、重光葵とマッカーサーが東京湾上の戦艦ミズーリ甲板上で、降伏文書に調印してから45年まであと一ヶ月というところでクウェートにイラクの当時のフセイン大統領が進行し、国連の多国籍軍がよく年明けに軍事介入するに至った。

 日本政府は自衛隊を多国籍軍には参加させず、それから33年を経て特に第二次安倍内閣の発足(2012.12.26〜)以降、日本国憲法の下では認めてこなかった集団的自衛権の行使まで可能とする平和関連二法の成立や、2022年暮れには安倍内閣の下で成立してきた安保関連三文書の改訂に岸田内閣は踏み込んできた。しかし、よく考えてみれば、岸信介内閣の下で改定された日米安保体制はそれからの10年を経た1970年以降、日本政府が意思表示すれば1年で破棄できる状態を迎えていた。それは半世紀余り自動更新を重ね、日米安保体制を前提とした安全保障体制を維持してきた。つまるところ、岸田文雄の退陣表明を受けた与党総裁選では、この体制の是非など問われることはさらさらなく、それを前提として辺野古沖への普天間基地移転を進めることには意義は唱えられない政府がこれからも誕生することが見えている。

 小泉内閣の下で、同盟国のイラクへの軍事侵攻が起きた際には、いち早くその立場を支持したのも日本政府だったが、根拠とされた大量破壊兵器はイラクからは遂に発見されず、3年3ヶ月の民主党政権の下でも、そのことは検証されたり、審議された経過はなかったように思う。その延長下で、憲法学者から違憲の指摘もされた安倍内閣の2014年7月の閣議決定も、その後の平和関連二法の成立も、乱暴に言ってしまうと吉田内閣の延長線上にあって、小渕内閣を最後に自民党単独政権は誕生してはいないが、公明党がそれを補完して政権は20年余り継続してきた。近く行われる与党総裁選において、それが解消に向かうことは考えにくく、憲法を変えずとも実質的に平和主義は変質した。

 日米安保条約を一度破棄した上で、普天間基地の移転はグァム島等への移転を主張する新たな日米関係を築く外交政策は期待できるはずもない。その気はさらさらないのが日本政府と言っても言及が過ぎることはないだろう。戦時下でも犠牲を強いられた沖縄は、普天間基地の返還という課題でもその尻拭いを負わされ、つまるところ日本の政治はその辺りに終始している。しかしながら、本来なら実質的総理大臣が困るとされる与党総裁選には、その様な本質的な政治課題が問われ、それにどの様に対応して対峙してゆくのか…そのことが問われて然るべきではないのだろうか…。

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