総裁選に思う
岸田文雄内閣は、個人的にはなかなか酷い内閣だったと思う。具体的には2024年明けからの与党派閥裏金問題が、政治の信頼を失った…となっているが、一昨年7月の参院選最中の首相経験者の銃撃殺傷事件を受けての国葬の実施や、その年の瀬の安保関連3文書の改訂は、自民党単独与党時代にも踏み入ることのなかった領域へと、敗戦国の政府として足を踏み入れてしまった感想を持つ。
宮澤喜一内閣の下で、第40回衆議院選挙(総選挙日1993年7月18日)を経て、自民党は鳩山一郎内閣の下で1955年11月15日に結党して以来、初めて野党となった。政権交代が起き、1993年8月9日、第79代内閣総理大臣に細川護熙が就任した。当時は1985年9月のプラザ合意を経て円高が急激に進み、バブルと呼ばれる時期を迎え、「不良債権」や「地上げ屋」といった言葉を耳にする様になっていたのではないかと思う。1990年8月にはイラクのクウェート侵攻が始まり、国連安保理決議に基づく多国籍軍が構成されて、日本政府は自衛隊をそれに参加させることを見送り、資金提供に留めたことで批判も浴びていた。
誰が新たな与党総裁、内閣総理大臣に就任しようとも、この一年の間に第50回衆議院選挙は実施される。次期米国大統領も選出される。今年欧州議会選挙やドイツの地方議会選挙では、いわゆる右派勢力が議席を獲得し、「民主主義」は地球規模で危機的な状況を迎えているとされる。2001年9月11日からも23年経過し、その後に始まった米国のイラク軍事侵攻は、根拠とされた大量破壊兵器は発見されることもなく、同盟国としてそれを支持した日本政府の平和主義は、2012号12月26日の第二次安倍内閣の発足以降、内閣の閣議決定によって憲法解釈の変更や立法府での平和関連二法の成立など敗戦国としての歩みを軌道修正してきた感がある。
細川護熙内閣の発足に伴って、野党に回った自民党は、しかし、村山富市内閣の発足時に連立内閣の一角を担い、一年足らずで与党に復帰していた。第41回衆議院選挙(総選挙日1996年10月20日)で連立を組んだ社民党、新党さきがけが議席を失い閣外協力に転じると、同年11月7日に第二次橋本内閣が自民党単独内閣として発足し、それに伴い厚生大臣が菅直人から小泉純一郎へと交代した。普天間基地の返還を日米首脳のトップダウンで決めたのはこの年の4月だった。
第二次橋本内閣で再度始まった自民党単独内閣は、第18回参議院選挙(選挙期日1998年7月12日)で議席を失い、総裁選を経て第84代内閣総理大臣に小渕恵三が就任して1998年7月30日に小渕内閣は発足している。それから5ヶ月余りで小沢一郎を党首とした自由党との連立内閣が発足し、これを最後に自民党単独内閣は成立していない。第78代内閣総理大臣に就いた宮澤喜一以来、再び連立内閣が崩れて誕生した自民党単独内閣は2年2ヶ月程で終わりを告げた。その後、1999年10月自自公連立内閣が発足し、ガイドライン関連法、国旗・国歌法、住民基本台帳法の改正などが次々に成立した。
憲法の平和主義や専守防衛の防衛政策は、第二次安倍内閣の発足以降、消極的平和主義政策の下で転換が図られてきた。「一強多弱」と言われ、第23回参議院選挙(選挙期日2013年7月21日)で、衆参の捩れは解消し、既に10年余り経過した。その選挙の際に、自民党本部で旧統一教会との選挙協力の密談がなされていたとのスクープがつい最近朝日新聞によってなされていた。その真偽は未だ定かではない部分は残されているとはいえ、憲法遵守が求められる立法府や行政府で、かなりいかがわしいことが、一部で懸念されてもいる。
いずれにしろ、2024年10月には岸田文雄内閣は退陣し、後継の自公政権が継続することになる。誰が内閣を率いることになろうとも、有権者は、この後も自公政権に政府運営を信任し続けるのか?個人的にはそのことが問われている様に感じている。
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