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途上にて

1.長崎市の浦上天主堂の近くに「珈琲家(かふぇや)」という名の喫茶レストランがある。近くには長崎子ども・女性・障がい者支援センターがあり、少年鑑別所もある。平和町商店街からも近い。2024年3月のある日、そこで読んでいた地元紙に映画の試写会の案内が出ていたのでスマートフォンを使って応募したところ、ハガキが後日届き試写会に参加できることになった。それで映画 "OPPENHEIMER"を3月18日に視聴することができた。見終えてからこの作品がアカデミー賞を受賞したことを知ったが、それは納得できるものに思えた。

 「科学と幸福」佐藤文隆著(岩波現代文庫)に、真珠湾奇襲攻撃の前日に陸軍の予算として原爆計画の予算が格上げされた頃から、ジョン・ロバート・オッペンハイマー(1904-1967)はいわゆるマンハッタン計画に深く関わる様になったことが記されていた。そのことはすっかり忘れていたが、戦後東京にやってきた際に記者に囲まれ「原爆の技術的成功のために私がしたことを反省していない」と、オッペンハイマーが述べた旨記されていたことは微かに脳裏にあった。

 映画を見終えて製作者クリストファー・ノーラン(1970〜)に感心した。試写を見る前に彼にインタビューしたテレビ番組も視聴していたので、多少作品についての情報を事前に知っていたが、オッペンハイマーの生涯についてはそれほど知らなかった。それもあって戦後東京を訪れた際に、なぜ記者にその様な返答をしたのかが映画を見終えて腑に落ちる思いがした。

 上述の「科学と幸福」には『イルカ放送』として第一章が記され、著者がオッペンハイマーの伝記を記したいと考えていることや、アインシュタインに物理を学んだとされるレオ・シラード(1898-1964)のことも出てくる。冒頭は1995年にワシントン市のスミソニアン宇宙航空博物館で広島の被曝資料の展示を計画したところ、元従軍兵士の団体の反対にあって中止されたことが記されている。『イルカ放送』とは、シラードが記した風刺風の短編小説らしく、みすず書房から朝永梨枝子訳で出版されているようだ。

 オッペンハイマーも、アインシュタインも、シラードも、理論物理学者であると同時にいわゆるユダヤ人であった。そもそもユダヤ人とはどのように定義されているのか、よく知らない。調べてみると、三省堂国語辞典(第8版)には「ユダヤ」として「古代のパレスチナにあった王国。」と記載され、用例に「−人」 としてあるものの、「ユダヤ人」の説明は記載されていない。因みにパレスチナで1980年代に始まった「インティファーダ」は記載もされてない。日本社会では余り認識されて使われることのない言葉であり、概念や現象なのだろう。

2.1894年ドレフェス事件が起き、記者としてユダヤ人に対する差別を目の当たりにしたテオドー ル・ヘルツル(1860-1904)が「ユダヤ人国家」(1896)を記してウィーンで出版した。その後、スイスのバーゼルで最初のシオニスト会議が出版の翌1897年に開催されたという。これらの経緯は「イスラエルとパレスチナ 和平への接点をさぐる」立山良司著(中公新書)に丁寧に記されていた。

 1948年5月14日イギリス委任統治が終了してイスラエルの独立が宣言された際、テルアビブの美術館で宣言したダヴィド・ベン=グリオン(1886〜1973)の背後にはヘルツルの肖像が飾られていたようだ。独立宣言の翌日から翌年にかけて第一次中東戦争は始まっている。ベン=グリオンは当時ユダヤ人機関議長を務め、イスラエル初代・3代首相を務めたと記録にある。初代大統領は英外相バルフォアに書簡を出させる働きかけをしたシオニスト運動の牽引者ハイム・アズリエル・ヴァイツマン(1874-1952)が務めている。イスラエルの建国は「ユダヤ人国家」がウィーンで出版されてから半世紀余りのちのことだった。

 NHKラジオ番組の「宗教の時間」では最近(2024.3.24、3.31)「ユダヤ教とイスラム教の関係史」と題されて2回に渡って番組が放送され、「啓典の民」と呼ばれる2つの宗教は共に発展する関係を築いてきたこと、ロシアにユダヤ人がいたこと、ユダヤ人には渡米し亡命する人々とパレスチナに渡る人々があったことが紹介されていた。アインシュタインやオッペンハイマーも渡米した「ユダヤ人」に縁あるひとりに含まれたのかもしれない。オッペンハイマーはドイツから移民として渡った両親の下、ニューヨークで生まれている。

 そんなことでユダヤ人に多少関心が湧き、インターネット上に合衆国の Holocaust Memorial Museumの Holocaust Encyclopediaなるものを見つけ、調べるうちに"погром"「ポグロム」とのロシア語があることが紹介されていることに気がついた。初めて初めて知る言葉だった。「破壊」「破滅」といった意味の言葉らしく、ポグロムとは「歴史的にはロシア帝国のユダヤ人以外の市民がユダヤ人に対して行う暴力的攻撃を意味するもの」とあった。

 最初にポグロムと分類される事件が起きたのは1821年オデッサでのことだったらしい。その後、1881年にロシア皇帝アレクサンドル2世がサンクトペテルブルク市内で暗殺された頃から、1884年にかけてウクラナイやロシア南部で起きた反ユダヤ運動により「ポグロム」の言葉は定着するようになった、ともあった。オデッサは現在ウクライナ国内にある都市で、映画「戦艦ポチョムキン」のロケに使われた有名な階段があるそうだ。

 「反ユダヤ主義」と呼ばれるひとつの社会現象としてポグロムはあったようである。「反ユダヤ主義」の言葉はドイツ人ジャーナリストのヴィルヘルム・ マルが1879年に初めて使用したものらしい。その年にマルは「ゲルマン民族に対するユダヤ人 民族の勝利」と題された本を出版し、「反ユダヤ主義」の言葉がその図書に使われることになったようだ。ユダヤ人に対する憎悪は、19世紀のロシアやヨーロッパに存在し、それは宗教的なものとして主に存在していたようだが正確なところはわからない。想像すれば「キリスト殺人者」といったユダヤ人に対する憎悪の類が偏見として存在したとしても不思議なかったかもしれない。

3.アルベルト・アインシュタイン(1879−1955)は1905年26歳頃に幾つかの論文を立て続けに発表し、その年は「奇跡の年」と呼ばれているようだ。一説には妻と共同でそれらの論文を作成したとの話も耳にしたことがある。1921年40代を迎えて日本に向かう船上でノーベル物理学賞の受賞の知らせを受けたという。大学で同期であった妻ミレヴァ・マリッチ(1875−1948)とは1919年に離婚し、従姉妹のエルザ・アインシュタイン(1876−1936)と再婚していた。受賞した際には賞金を前妻ミレヴァに渡す旨の約束もしていたらしい。この年、日本では11月4日に原敬の暗殺が東京駅で起こり、11月25日にのちの昭和天皇が高橋是清内閣の下で摂政宮に就任している。

 1932年に三度目となる渡米をした頃、ドイツでナチスが第一党となり、翌年にはヒトラーが首相に指名される。アインシュタインは渡米したまま二度とドイツに戻らなかったようだが、亡命前の1930年にはベルリン郊外に別荘を建て、シラードとともにガス吸収式冷蔵庫の特許申請もしていた。最期の言葉はドイツ語で語られ、周りにいた者にはそれが理解できなかったとのエピソードを見聞した覚えがある。

 1939年7月16日、レオ・シラードは師のアインシュタインの別荘を、共にアインシュタインに学んだユージン・ウィグナー(1902−1995)と一緒にニューヨーク州ロングアイランドに訪ねた。道に散々迷った挙句、地元の子どもに尋ねて教えてもらい別荘にたどり着けたとの逸話があるそうだ。ウィグナーのことはこれを記していて今回初めて認識した。1963年ノーベル物理学賞を受賞した人物で、「ウィグナーの友人」と呼ばれる量子力学の思考実験を発表したことでも知られている。アインシュタインからすると教え子にあたる二人が師の下を訪ね、それからアインシュタイン書簡と呼ばれるものが作成されることになるが、晩年アインシュタイン自身はその書簡に署名したことを後悔していたようだ。シラードから「ウランの連鎖反応が爆弾に使用される」旨の話を聞かされた際には、話の途中で「そんなことは考えてもみなかった」とドイツ語で叫んだともいわれている。

 この書簡はシラードが依頼してアインシュタインが署名し、1939年8月頃に当時のルーズヴェルト米大統領に当てて出されたと伝えられている。9月1日のドイツのポーランド侵攻前になる。この書簡にはウランの連鎖反応が強力な爆弾となり得ることが指摘され、政府の注意喚起と研究支援、政府と物理学者を仲介するしくみ作りが訴えられ、最後にナチスドイツが核エネルギー開発する事実について指摘されていたという。書簡が届いたのち、ルーズヴェルトは国立標準局長官リーマン・ブリッグズにウラン諮問委員会を設けさせ、同年10月21日にシラード、ウィグナー、エドワード・テラー(1908−2003)と初会合を開いたとされる。(Wikipediaより)

4.アインシュタインは亡命直後から「アメリカの敵」としてFBIに監視されていたとの話もあり、マンハッタン計画に関してはシラードの依頼で書簡に署名したことのほかは何も関係がなかったようだ。

 シラードとウィグナーが師の下を訪ねてからちょうど6年後に、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所で人類史上初の原子爆弾のトリニティ実現が成功する。シラードはアインシュタインに依頼して二度目の書簡を1945年3月作成し、日本への原爆投下への懸念と戦後の核開発競争の懸念を記していたとされるが、4月にルーズヴェルトは急逝してそれは読まれることなく終わったと伝わる。後任のハリー・S・トルーマン(1884−1972)はマンハッタン計画については何も知らされぬまま大統領に就任し、就任から約3ヶ月後にトリニティ実験は成功する。

 戦後、オッペンハイマーはプリンストン高等研究所の所長に就任し、アインシュタインは1955年に他界するまで晩年をその下で過ごした。再婚した妻のエルザはすでに1936年に他界していた。父と息子ほどの年の差のある理論物理を共に専門とする二人のユダヤ人には、相当の価値観の差があったことは想像される。事実アインシュタインの息子ハンス・アルベルト・アインシュタイン(1904−1973)はオッペンハイマーと同じ年に生まれている。これまでアインシュタインとヒトラーを比べて考えたことはなかったが、2人は約10歳の年の差がありアインシュタインは20年ほど長く生きた。アドルフ・ヒトラー(1889-1945)はオーストリアのブラナウという小都市に生まれ、同じ頃チャールズ・チャップリン(1889-1977)がロンドンに生まれている。

 「ヒトラーの時代 ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 池内紀著(中公新書)によると、ヒトラーは1907年18歳の頃にウィーンにあった「造形美術アカデミー」に不合格となっている。その前年、エゴン・シーレ(1890-1918)は合格していたそうだ。「ヒトラー」との名も、父親が3度結婚を繰り返す中で改姓したものだったようで、いずれにしろアドルフ本人の記録についてはほとんど残されていないようである。ヒトラー自身もユダヤ人であったとの説もあり、事実らしい。

 上述の池内紀の著書によると、ヒトラーが演説に目覚めたとされるのは1919年10月16日ミュンヘンのビアホールで開かれたドイツ労働者党の公開集会だったとされる。同じ年に、アインシュタインは従姉妹のエルザと再婚しており、それはイギリス委任統治局がパレスチナの公用語にヘブライ語を認めた年でもあった。8月11日にはヴァイマール憲法が制定され、14日に公布・施行されている。話は逸れるが「ライ麦畑でつかまえて」で知られるJerom David Salinger(1919−2010)はこの年の1月1日ニューヨークのマンハッタンで生まれている。極秘で進められた原爆開発計画の事務所が置かれたのはマンハッタンであった。サリンジャーもユダヤ人であり、先の小説の初版はトリニティ実験の成功から6年後だった。

 ヒトラーの生まれ育ったドナウ川支流のブラウナウではバイエルン方言が使われ、そのことはヒトラーの演説に熱狂する聴衆に関係があったのかもしれない。Wikipediaによると、アインシュタインが生まれてまもなく、家族でミュンヘンに移り住んでいる。つまり、耳にする機会があったかどうかはわからないが、ヒトラーが演説で語る言葉をアインシュタインは通訳なしに理解することができたと考えられるだろう…そんなことはこれまで考えてみたこともなかった。

 アインシュタインはドイツ帝国の徴兵義務から逃れるため1896年1月の17歳頃に父親の許可の下でドイツ市民権を放棄し、しばらく無国籍となった後でスイス国籍を取得している。この年アインシュタインの父親は兄弟で始めた電気会社が行き詰まり、イタリアへ移住することになった。ドイツ国籍を喪失したのはウィーンで「ユダヤ人国家」が出版された年に当たる。

 オーストリアに生まれたヒトラーは1932年2月にドイツ国籍を取得し、議員としての立候補の資格を得た。首相に指名されるのはその1年足らず後だったことになる。アインシュタインは当時ベルリンに暮らしていたようだから、ナチスのことを多少知ってはいただろう。当初は誰からも鼻にもかけられない政党だったらしい。ナチス政権が誕生した後、アインシュタインが二度とドイツに戻らなかったのは、亡命したアメリカから戻るには高齢になったこと等もあったかもしれないが、それだけではなかったのかもしれない。

5.立山良司の著作ではエリエゼル・ベン・イェフダー(1858-1922)のことが紹介され、ヘブライ語を復活させた人物であることを知った。幼い頃にヘブライ語で記された「ロビンソン・クルーソー」を読んで衝撃を覚えたことがWikipediaには記載されていた。イェフダーは現在ベラルーシ領内にあたる旧ロシア帝国の町に生まれ、両親はユダヤ教の初等教育施設を営んでいたことも紹介されていた。

 イェフダーは、パリのソルボンヌ大学で医学を学んでいたようだが、そこでヘブライ語の授業が行われており、やがて大学を辞めヘブライ語の研究に専念するようになったようだ。1881年に大学を辞めてパレスチナに渡った。アインシュタイン等とは異なるユダヤ人の民族移動の系譜みたいなものになるのかもしれない。アインシュタインは1879年にドイツに生まれているので、イェフダーがパレスチナに渡った頃は幼子だった。アインシュタインの生まれた翌年一家でミュンヘンに移住し、1881年に妹のマリアが生まれ、1894年までミュンヘンに暮らしたとされる。父と叔父が始めた会社が行きつまり、その後イタリアのミラノに一家は移り、ギムナジウムと呼ばれた学校を卒業するため一時アルベルトは一人ドイツに残されたようだ。1894年はフランスでドレフェス事件が起き、ヘルツルが記者としてその事件に出会い衝撃を覚えた年になる。オッペンハイマーがニューヨークで生まれたのはその10年後になる。

 パレスチナにはヘブライ語の新聞があり、イェフダーはそこで仕事も得たようだ。1884年には自らヘブライ語新聞を発行し、1890年には「ヘブライ語委員会」が設立されその代表にも就任したが、シオニズム運動以前からパレスチナに住んでいたユダヤ人からは反感を買っていたらしい。1891年に結核のために妻と死別し、新聞記者で作家の女性とその後再婚した。ヘブライ語大辞典はイェフダーの死後に完成し、彼の息子は二千年ぶりにヘブライ語を母語とする最初の人物となったとのこと。1919年に、オスマン帝国に代わりパレスチナを治めたイギリス委任統治局はヘブライ語をパレスチナの公用語の一つとして宣言するに至っている。

 パレスチナに入植したユダヤ人は「キブツ」と呼ばれるイスラエルの農業に基づいた共同体を築いた。キブツは社会主義とシオニズムを組み合わせた共同体として始まったようで、どこまで正確なことかはわからないが、1909年頃にイスラエル北部にあるガリラヤ湖の南岸にDegania Alefとして始まったのが最初のキブツであったらしい。農業が占めてきた一部はハイテク産業や工業プラントに代わってきているようだが、21世紀前半の今日も継続していると聞く。ある会社のホームページにはその旨記されていた。2010年時点で、イスラエルには270ヶ所のキブツがあり、工業生産の9%、80億ドル、農業生産の40%、17億ドル以上を占める、とあった。

5.幾つかの立山良司の著作によると、1900年代初めパレスチナには約1万人のユダヤ人が移民として移り住んでいたと考えられているようである。以下記すことは立山の著作からの引用が主になる。ヘブライ語を復活させたイフェダーはその移民のひとりであったと思われる。ロスチャイルド家のような富豪から援助を受けてパレスチナに土地を購入し、キブツ運動が広がりを見せたのだろうか。正確なところはよくわからない。

 1901年には 世界シオニスト会議が「ユダヤ民族基金」を設立し、パレスチナでの土地購入機関として世界各地のユダヤ人から寄付など集め、組織的に土地購入を行うようになったようだ。日本の皇室に後の昭和天皇裕仁が生まれたのはこの年の4月29日である。また、マックス・プランクが黒体の放射と呼ばれる現象から法則を導き、のちに量子力学につながるエネルギー素子(あるいはエネルギー量子)quantaの着想を得たのもこの頃とされている。

 20世紀を迎え1914年6月28日、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ領内にあるサラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者をボスニア出身のセルヴィア人の青年Gavrio Princip(1894-1918)が暗殺したことを端に発して第一世界大戦が勃発する。Principは当時二十歳を目前とした青年だったため、その後死刑は免れることにもなった。しかし、獄中で結核性脊椎症の悪化のため右腕を切断し、栄養失調も重なって24歳を迎えることなく亡くなっている。

 第一次世界大戦の最中に、中東イスラエル、パレスチナを巡って英仏間でサイクス・ピコ条約と呼ばれる秘密条約が1916年5月に結ばれた。ほぼ同じ頃、メッカの太守フサイン・イブン・アリーと英国代表カイロ駐在高等弁務官ヘンリー・マクマホンの間で書簡が取り交わされ、東アラブ地方にアラブの独立国家を築く英仏間の秘密条約と矛盾する約束も交わされた。フサインはそれを知らされないままトルコに対して同年6月に反乱を起こし、シオニストは英国政府にパレスチナにユダヤ人国家建設を働きかけ、1917年11月2日英外相バルフォアからロスチャイルド卿に「パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを設立することを支持」する旨書簡が出された。書簡が出されたのはロシアで2月革命、10月革命が起きた年になる。

 第一次世界大戦後、1920年代には8万人のユダヤ人がパレスチナに移民として移り住み、「春の丘」を意味するテルアビブはこの時期に発展して1931年には人口4万5千人ほどのユダヤ人社会の経済の中心地となっていたそうだ。ドイツでナチスが政権をとる直前だろうか。1930年にはパレスチナのユダヤ人は16万人にまで達していたが、それでも世界各地のユダヤ人人口からすればそれは未だ少数であり、大量の移民は1930年代以降のことになる。パレスチナのユダヤ人人口は1948年の独立時点で65万人、1960年に190万人、1965年に230万人を数え、1989年末には370万人となっていた。一方、1967年の第三次中東戦争(「六日戦争」1967.6.5〜6.10)以降、ヨルダン川西岸とガザ地区はイスラエルの占領下にあり、1988年現在UNRWAに登録されたパレスチナ人難民は230万人に登っていた。

 サイクス・ピコ条約を結んでいた英仏間で交渉がなされたのち、1920年4月サン・レモ会議でパレスチナは英国の委任統治領として認められた。その後1922年7月国際連盟理事会がパレスチナに関して委任統治規約を採択し、英国の委任統治が追認される経過をたどった。1929年8月には「嘆きの壁」でユダヤ人とパレスチナのアラブ人との間で既に衝突は起きており、1936年から1939年にかけて「アラブの大蜂起」と呼ばれたアラブ人による反シオニズム運動も起きていた。

 第二次世界大戦後、1947年2月パレスチナの問題解決を英国は国連の手にゆだねる宣言をし、同年11月国連パレスチナ特別委員会の多数決により、パレスチナをアラブとユダヤの二つの国に分割し、エルサレムとその周辺を国際管理下に置くパレスチナ分割決議は賛成33、反対13、棄権10で採択された。翌年5月14日英国のパレスチナの委任統治は終了し、イスラエルは独立を宣言した。一方、パレスチナ民族評議会が1947年の国連パレスチナ分割決議に基づきパレスチナの独立を宣言したのは1988年11月、イスラエルの独立から遅れること40年余りのちのことだった。

6.東アジアでは辛亥革命(1911.10.10-1912.2.12)が起こって清朝が滅亡し、1912年1月1日南京に孫文(1866-1925)を臨時大総統とした中華民国臨時政府が成立する。日本では江戸幕藩体制が瓦解して半世紀足らずで「明治」(1868.10.23—1912.7.30)の終焉を迎えた。その後、第一次世界大戦に大日本帝国も参戦し、戦勝国側に立つが「大正」(1912.7.30−1926.12.25)にその時期を迎えたことになる。

 清朝と大日本帝国の間では19世紀末に日清戦争(1894.7.25-1895.4.17ないし11.30)が起きている。戦後、下関で前文と11条からなる日清講和条約が締結(1895.4.17)され、朝鮮の独立、台湾、遼東半島、澎湖列島の割譲が記されたが、独仏露による三国干渉(1895.4.23)によって遼東半島は返還を求められる。極東国際軍事裁判の判決で処刑された広田弘毅(1878-1948)は幼少期に経験したこの出来事に衝撃を覚え、外交官への道を歩んだとされる。1906年外交官及領事館試験に合格した11人のうち首席が広田であったそうで、同期の1人に吉田茂(1878-1967)がいた。

 孫文は袁世凱(1859-1916)に臨時大総統を2ヶ月程で譲り、この後、孫文と袁世凱は袂を別つことになった。中華民国臨時政府の下、国民党でリーダーとなった宗教仁は1912年12月の選挙で支持を得るが、袁世凱は宗を警戒して翌年3月に暗殺し、大総統の権限強化と人気の延長を 図る。21世紀前半のロシアのプーチンを彷彿とさせられるが、袁政権はまもなく大日本帝国政府 から21ヶ条の要求(1915.1.18)を突き付けられ、1915年5月9日に受諾させられる。これを記念して5月9日は「国恥記念日」と呼ばれるようになったようだ。袁世凱は政府を北京に移し、孫文は日本に亡命した。

 孫文は1917年に起きたロシア革命をへて誕生したソヴィエト連邦とも手を組む画策もしたが「現在、革命尚未だ成功するに至らず」の遺言を遺し、1925年北京で客死して南京に葬られている。孫文の遺言は北伐として蒋介石に引き継がれ、1928年6月9日国民党は北京に入城し北京政府を倒している。北京政府の最後の大総統が張作霖(1875-1928)になるが、張作霖は6月4日北京を出て奉天へと向かったが、その途上で乗車した列車が旧日本軍によって爆破され、重体となりまもなく命を落とす。これは日本の軍人河本大作によってなされたことが通説とされているようで、この責任をとって田中儀一内閣(1927.4.20-1929.7.2)は退陣したとされているようだ。大日本帝国はこれ以後戦火の歩みを続けることになってゆく。

7.第一世界大戦の最中にレーニンことウラジミール・イリイチ・ウリヤノフ(1870-1924)を政治指導者としてロシア革命が起きた。スコットランド出身の武器商人トーマス・ブレイク・グラバー (1838-1911)は幕末の日本で活動したことが知られるが、その息子倉場富三郎(1871-1945)は レーニンと同じ頃に生まれている。彼らはユダヤ人ではなかったようだ。

 カール・マルクス(1818-1883)とフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)は同時代人だが、レーニンはそれよりも少し後の時代になる。レーニンが「資本論」を読んだのは父の母校でもあった大学を退学して、内務省によって追放され、息子を心配した母親の働きで母親の暮らすカザン市に戻ったころとWikipediaには書かれていた。1888年頃のことと思われ、マルクスは既に他界していた。 因みにマルクスはユダヤ人と考えられているようだ。

 著名な小説家のフランツ・カフカ(1883-1924)はプラハのユダヤ人の家庭に、オーストリア=ハンガリー帝国下で生まれた。現在のチェコ出身にあたる。ドイツ語を満足には話せなかった小間物商の父親の期待を受けて法律を学び、保健局に勤めながらドイツ語で小説を書いた。生前に出版された作品は「変身」(1915.10)など限られた数編で、死後友人のマックス・ブロート(1884-1968)によって遺稿が発表され広く知られることになったようだ。1918年に第一次世界大戦の敗北でこの帝国もなくなった。国歌のメロディは現在のドイツ連邦共和国と同じだったようだ。ドイツにはその後ナチス政権が誕生して「第三帝国」が唱えられるが、1945年5月に再び敗戦国となり、東西に分裂した国家は1990年10月3日に統合する。

 最近は哲学者として紹介される柄谷行人(1941-)の「世界史の構造」(岩波書店)は読んだことがないが、「交換様式」という観点に注目 して、A 互酬(贈与と返礼)、B 服従と保護(略取と再配分)、 C 商品交換(貨幣と商品)、 D Aの高次元での回復というものが提示され、Dは未だ到達していないものとされるらしい。最近、マイナンバーカードと保険証の統合化が立法府の法制化と行政の閣議決定で勧められたが、それはこの交換様式に照らせばBに当たるものなのだろう。映画「シンドラーのリスト」で、ユダヤ人にID カードが配布される場面を見た覚えがあるが、国家の果たす一つの役割になるのだろうか。アインシュタインがドイツ国籍を失い、ヒトラーが取得したのも Bに当たるだろう。

 レーニンの生涯にも関心を持ったことはなかったが、父、兄、妹と死別を経験し、1893年8月サンクトペテルブルクに移り住み、マルクス主義の結社「社会民主党」に参加して党の幹部となってゆく。1895年12月に扇動罪で東シベリアに流刑され、1900年に刑期を終えると7月にスイスに亡命し、その後ミュンヘンに移り住んでいる。「レーニン」の筆名を使ったのは1901年12月が初めてのことだったようだ。世界シオニスト会議が「ユダヤ民族基金」を設立してパレスチナで土地の購入を組織的に開始し、マックス・プランクが量子力学へ繋がる着想を得た時期と重なっている。レーニンも、アインシュタインも、ヒトラーもミュンヘンと縁があったのは知らなかった。

 1917年に二月革命と十月革命が起き、1922年にソヴィエト連邦は誕生し、1991年に終焉する。レーニンの後、ソ連はスターリンによる支配を迎えるが、それはマルクス主義の一つの結果として誕生した国家だったとはしても、それはマルクスの考えていたものとは違っていたのかもしれない。

 敗戦後の英米仏の管理下にあった地域は西ドイツとなり、1949年5月に憲法にあたる基本法が採択され、東西ドイツの統一後も修正してその基本法が国の根幹にされている。イスラエルの建国はその前年の5月であった。イスラエルの建国後は第一次中東戦争が始まり、パレスチナの人々はイスラエルから土地を奪われる経験をしてきたのだろう。1980年代に第一次インティファーダとしてパレスチナの人々がイスラエルに抵抗を示し1988年にパレスチナ民族評議会はようやく独立を宣言している。よく知らず生きてきたが、1948年5月14日のイスラエル建国から2024年で76年が経過することになり、年月の長さは日本国憲法の歩みとほぼ重なる。

 第一次中東戦争(イスラエルとその建国やシオニズム思想に反対するアラブ世界の国々と間で起きた戦争「パレスチナ戦争」1948.5.15〜1949.2月/4月)
 第二次中東戦争(イスラエル、イギリス、フランスとエジプトの間で勃発した戦争「スエズ動乱」1956.10.29〜11.6)
 第三次中東戦争(イスラエルとエジプト、シリア、ヨルダン間の戦争。イスラエルの圧倒的勝利に終わり、国際連合の調停で停戦。「六日戦争」1967.6.5〜6.10)
 消耗戦争(1967〜1970イスラエルと現在のエジプトの間で起きた戦争)
 第四次中東戦争(ユダヤ暦の贖罪日に始まり、イスラエルとエジプト、シリア間で勃発した戦争「ヨム・キプール戦争」1973.10.6〜10.23)
 レバノン内戦(1975〜1990レバノンで断続的に発生し、1982〜1985イスラエル軍と多国籍軍が出兵)
 21世紀に入ってからも、
 レバノン侵攻(2006.7〜8レバノンのシーア派武装組織ヒズボラがイスラエルに侵攻・攻撃し、イスラエル軍がレバノン領内に空爆・侵攻した事件)
 ガザ侵攻(2006イスラエル軍のパレスチナ自治区ガザ地区へ侵攻した作戦)
 ガザ紛争(2008.12〜2009.1イスラエル軍とパラスチ自治区ガザ地区を統治するハマースとの間で起きた紛争)
 ガザ侵攻(2014イスラエル軍がパレスチナ自治政府ガザ地区に侵攻した紛争。8月26日無期限停戦で一応終息)
 パレスチナ・イスラエル戦争(2013.10.7〜イスラエルとガザ地区を支配するハマースとの間で勃発)と絶えず戦争、紛争は繰り返されてきている。

 先日テレビ番組で、フランスの思想家ジャック・アタリ(1943−)のインタビューを紹介していた。アタリのみが語っているのではなく、パレスチナが国家としてイスラエルと共存してゆくことしか、イスラエルにもパレスチナにも存続の道はないのだろう。パレスチナの国連加盟を認める決議は2024年4月現在、米国の拒否権行使で実現しなかったが、いずれそれを認めるほかなくなることが想像される。2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻も終わりが見えず世界戦争の予兆をあちらこちらに感じる。

 アインシュタインが教え子に当たるシラードに依頼されて書簡に署名し、その後、核爆弾開発計画はオッペンハイマーをリーダーとして進められることになった。平和運動にも熱心だったアインシュタインからすると、自ら署名した書簡が皮肉なことに合衆国での原子爆弾開発の国家計画に繋がり、その指導的立場にあった息子ほどの歳の差のある理論物理学者が戦後所属する機関の責任者となって、死を迎えるまでその下で学究生活を送ることになったのかもしれない。

 2021年1月22日核兵器禁止条約は50カ国が批准して発行されたが、唯一の戦争被爆国日本政府は批准を見合わせている。その政府の首相は広島出身であることを憚ることがない。側から見れば、日本政府は同盟国の米国の顔色を窺っているように見えることだろう。つらつら記してきたが、「ユダヤ人」と「日本人」との概念はかなり異なるものにも思えるし、イスラエルと日本の戦後はかなり異なっているようにも見えるが、メビウスの輪のように表裏一体にも思える。

 パレスチナを対等な国家として見做そうとはしないイスラエルの姿は、憲法で「主権者」から「象徴」へと変容した天皇を、再び国家元首とする憲法改正を目指す自民党と重なって見えないでもない。ハリウッド製のSF映画に登場するヨーダなるキャラクターは、彼の弟子たちに「未来は流動する」と語る場面があったように思うが、日本政府が自公政権から政権交代することは避け難く起きるような気がしている。仮に、そのような未来が現実となったとしても、それがパレスチナの、聖書でカナンと呼ばれた地に暮らす人々にとって幸せな未来と繋がるのかは定かではないが…。

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