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【論考】タバコ論――退廃ゆえの可能性

序に代えて 

社会から徐々に端へ端へと、その存在が退かれつつある「タバコ」。飲食店は基本的に禁煙となり、街を歩いていても、真新しい路上喫煙禁止のマークが目に留まる。まだ私は生きて20年ほどであるが、この20年でも喫煙に対しての当たりの強さは徐々に強くなっていると感じる。法律もそうだが、思うに民衆の意識にも「嫌煙」というのが広まっているのではないだろうか。
 
というより、親の世代的には、ようやく「嫌煙」と言えるようになった、と言うべきなのかもしれない。知っていると思うが50年ほど前とかは、成人男性の80%が吸っており、むしろ吸う方がマジョリティであったのだ。男性優位な社会でこの割合が吸っていたら、「嫌煙」な言説など表に出にくかったであろう。しかし、21世紀に入りようやく副流煙の問題が表に出て、「分煙」というのが社会のモラルへとなっていったのだった。そして、その「分煙」の規範が強くなっているのが今の日本の状況と言える。

そんな時代になんで「タバコ論」なのか、と疑問に思われたかもしれない。「タバコ」をわざわざ論じるということは、タバコ文化の復権を試みようとでも考えているのか、などと思われても致しかたないと思う。しかし、そのようなことは毛頭考えていない。一応私の立場を明示しておくと、基本的に今の状況は妥当だと思っていて、現状を変えようとは一切思っていない。そして私自身、別に毎日喫煙する人ではなく、友人が吸っていたら一本貰うような、パラサイト喫煙者である。では、なぜ「タバコ論」なのか。なぜ、ヘビースモーカーでもない人間がタバコを論じようと思ったのか。 

簡単に言えば、タバコや、喫煙コミュニケーション、社会の中の「喫煙所」、を考えることに面白みを見出せたからである。また、パラサイト喫煙者としてタバコを吸っているなかで、半部外者だからこそ見えていることを言葉にしてみたかったのである。今回はそんな体験を元に2つのエッセイ(試論)としてまとめてみた。文化人類学が、現地に行って「一体そこで何が起きているのか」を調査することと言うのなら、これは喫煙者、喫煙者コミュニティの文化人類学なのかもしれない。(しかし、実際は表象文化論のような論考である。)

最後に2つのエッセイを軽く紹介しておこう。

1つ目のエッセイのタイトル(仮)は「タバコが作り出す、異質性を留保するコミュニケーション」である。「タバコ」と言うと、おっさんのコミュニケーション、つまり「ホモソーシャル・コミュニケーション」のイメージが染みついてしまっていると思う。「ホモ=同じ」、つまり同質性でつるむようなコミュニケーションである。それは常に排他的なコミュニケーションになりがちである。しかし、「タバコ」には、それとは別のコミュニケーションの可能性もあるのでは?と思い、それを思索した論考である。この論考では、映画『ドライブ・マイ・カー』の喫煙シーンも検討する予定である。

2つ目のエッセイのタイトル(仮)は「クリーン・ユートピアの不可能性としての「喫煙所」」である。これは先ほどとは異なり、「社会の中の「タバコ」」を考察している。タバコに対してあたりの強い社会の中で、致し方なく作られている「喫煙所」であるが、「喫煙所」さえも煙たがられていることだろう。そんな「喫煙所」が都市空間に存在していることは一体何を意味しているのか。それをコンセプチュアルな次元において考えてみた論考である。この論考は、ミシェル・フーコーの「生政治」という概念を用いる予定である。

この2つの論考は、近日公開予定である。

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