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【論考】自分の中に「相手を受け入れる余白」を持つことの可能性‒‒合唱指揮者の経験から

この文章は、リーダーシップに関する授業で書いたレポートの没案である。現代のリーダーシップには、トップダウン的なリーダーシップではなく、集団の一人一人がボトムアップ的にリーダーシップを発揮するといった「シェアド・リーダーシップ」というあり方がある。このレポートはそこから着想を得て、合唱における合唱指揮者のあり方を考察したものである。

その時に参考にしたのが、東工大の「未来の人類研究センター」が行っている「利他プロジェクト」における「利他」概念である。まず「未来の人類研究センター」とは、東工大にある人文社会科学系のセンターであり、各教員がさまざまな知を持ち寄りながら人類の未来について考えているところだ。その中のプロジェクトの一つが「利他プロジェクト」である。利他は、よく「他人の利益になることを行う」という意味で用いられるが、ここではそれと異なる意味で使われている。ここでの「利他」的な態度とは、相手に何かを「与える」態度ではなく、自分の中に相手を「受け入れる」ための”余白”を持つ態度である。この”余白”がひとつメタファーとして鍵になるわけだが、そうした態度は一体どういった態度なのだろうか。本レポートでは、そのあたりも詳しく紹介している。そして、そのような「利他」の精神が、「合唱」という営みとどう重なるのか、それが主な焦点となっている。

一つ断っておくと、合唱をかなり理想的に、かつデフォルメして扱っているのでその点はご了承いただけたらと思う。また、自分は以下のことをあまり実践できていないこともご留意いただきたい。では。

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はじめに

私のこれまでのリーダーシップ経験として、ひとつ「合唱指揮者」の経験が挙げられる。私は高校の頃から合唱をやっており、東工大の入学と同時に大学合唱団に入団した。その合唱団は100名を超える合唱団であり、大所帯と呼べる合唱団である。基本的に団の運営は3回生が行っており、毎年そこから学生指揮者が選出される。私は、紆余曲折はあったものの、最終的に自分の代の学生指揮者となった。

今回はその経験を元にして、「合唱の演奏時における指揮者のあり方」について考察する。そして、これを通してリーダーシップ一般について考えたい。ただ常に個別具体的な状況でしかない社会の中で、ある事例から全体を一般化するのは難しい。ゆえに「合唱」という特殊な状況の分析は、よりいっそう役に立たないかもしれない。しかし、むしろ「合唱」という、さまざまな身体や経験を持つ人たちが何かを共有し、一つの演奏を作り上げることには、人々のコミュニケーション一般、または何かしらのプロジェクトの遂行におけるリーダーシップのエッセンスが詰まっているように思える。今回は合唱における指揮者のあり方を深掘ることで、リーダーのあり方の本質を少しでも垣間見させることが目的である。

合唱指揮者とは

合唱指揮者とは、英語の”Conductor”を考えればわかるが、「歌い手を導くもの」である。例えば「歌い始め」、複数歌い手がいるときは、何かしらの合図がなくては歌い始めがバラバラになってしまう。指揮者とは、歌い手の共通項として、歌い始め、または歌い終わりの合図を担当する。また曲には途中にテンポ変化などがあり、こちらも指揮者のタクトによって、歌い手と同じテンポ変化を共有するのである。まとめれば、主に「音楽の入りと終わり」、それと「テンポキープ・テンポ変化」が指揮者の仕事である。

しかし、指揮者はそれ以上のことをしているように思える。例えば、強弱やアーティキュレーションである。つまりどのように歌うのかなども、実は指示しているのである。楽譜にクレッシェンドと書かれていても、どのくらい、どのような変化率で行うのかは書かれていない。また、すべての箇所に歌い方(スタッカート、レガートなど)が指定されているわけではない。そのようなことも共通項である指揮者のタクトによって共有されていく。また、こういった歌い方のディティールにこそ、音楽性の有無が現れると言えるのではないだろうか。そう言えるのなら、指揮者というのは、全体の音楽性の方針も握っているとも言えるだろう。


「あなた、振りすぎ!」

自分は、そのような指揮者の役割を、100名を超える合唱団で行っていた。そして100名もいると、何もしなければ、基本的に音楽は散らばってしまうため、私はなるべく団を統率しようと、団員を引っ張るような指揮をしていた。そんな時、指導してくださっている先生からこんなことを言われた。

「あなた、振りすぎ!あなたが頑張って流れをつくらなくても、音楽がすでに流れをつくってるんだから、あなたはその流れにみんなを乗せてあげるだけでいいのよ。」

私は団を統率することに無我夢中で周りが見えていなかったのだろうか、この言葉を聞いて、少し視野が開けたように感じた。「あなたが頑張って流れを作らなくていいのよ」という言葉は、「指揮者である自分がどうにか統率を取らなくては!」と思っていた自分にとって、肩の荷を下ろしてくれるような言葉だったのだ。しかし、同時にこのようにも思った。「指揮者って、流れをつくらなくて本当にいいの?」、「そもそも先生の言う“流れ”って何?」と。


合唱における「一方通行モデル」と「相互関係モデル」

それを考えるにあたり、そもそも「合唱」という営みとは何かを考えてみたい。その際、ひとまず構成要素は「歌い手(複数)」「楽譜」「指揮者」としてみよう。合唱とは、「楽器は身体」というのがひとつユニークな特徴でもある。よって構成要素はこのように簡潔にあらわせるのだ。

かなりデフォルメしているが、私が最初思い描いていたのは、図1のようなものである。言葉にしてみると、指揮者が楽譜からある音楽性を読み取り、指揮を通じてそれを歌い手に共有する、というものである。これは関係が一方通行であり、歌い手は指揮者に従っているような存在となる。この構図は、自分が当時陥っていた「指揮者である自分が統率しなくては」というイメージと通じる部分がある。「歌い手のみんなが付いてきてくれるようなビジョンを自分が提示しなくては!」と考える背後には、このような図式が自分の頭の中にあったのではないか、と振り返る。

しかし、よくよく考えれば図1は偏ったあり方のように思えてくる。例えば、指揮なしアンサンブルという形態が合唱には存在する。この形態では「入り」も互いを見合って行い、互いをよく聞きながら音楽が作り上げられていく。指揮者がいなくても、そのように豊かな音楽を紡ぐことは可能なのである。もっと言えば楽譜がなくても、アドリブで行うことだって可能である。楽譜という共通項がなくても、歌い手は互いの声を通じて音楽を作り出すことが可能なのである。

このように考えると、すでに歌い手同士に関係線があり、つぎに楽譜を共通項とするような関係の線があることがわかるだろう。その線を優先すると「指揮者」は、いてもいなくても変わらないような「オプション」として位置付けられることだろう。この状況を表現したのが図2である。これを「相互関係モデル」とでも名付けておこう。


「フィードバック回路」としての指揮者

先ほど「相互関係モデル」において、指揮者は「オプション」であると表現したが、「オプション」といっても何かしらの役割を担っているように思える。その役割とは「フィードバック回路」としての役割である。振り返ってほしいのだが、図1では、指揮者は歌い手に対して一方的な関係であった。つまり自分の理想とする音楽性を、独断的に提示するだけの存在であったのだ。それは、歌い手が誰であろうと、目指すべき理想は、指揮者と楽譜から決まることを意味する。そこには、「この歌い手たちなら、こうした方がもっと曲の良さが引き立つな」という思考回路は生まれない。しかし図2は、先ほども話した通り「歌い手同士の関係」がはじめにある。このとき指揮者の存在は2次的な存在となるだろう。つまり、まずは歌い手らによって生成している音楽の流れがあり、それに応じて指揮者が次の流れを提示していく。このように考えれば「指揮者の理想を、歌い手を通じて再現する」というのではなく、「歌い手が作り出している音楽の“流れ”を聞いて、それにフィードバックするもの」として指揮者を位置付けることができるだろう。つまり図2では、一方的な理想の伝達ではなく「フィードバック回路」として、指揮者を位置付けられるだろう。

しかし、図2のような図式は本当に成り立ちえるのだろうか。そこには何かしら条件があるように思える。次に、この条件について詳しく検討したい。


「相互関係モデル」=「指揮なしアンサンブル」が成り立つための条件

そこで、「相互関係モデル」に至るにあたって例に出した「指揮なしアンサンブル」という音楽形態について考えてみよう。

復習であるが「指揮なしアンサンブル」とは、文字通り複数の歌い手が、指揮者という歌い手とは独立した存在を持たずに、自分達だけで音楽を成り立たせている音楽形態のことである。つまり「歌い手同士の関係」のみで成り立っている演奏形態である。

このとき音楽の入りは、周りと顔を合わせたり、隣にいる歌い手の息の吸う様子を見たりして行われる。音楽の方向性も、事前に共有したことを再現することもあるが、基本的にその場で鳴っている音によって、状況は変わってくる。例えば、ホールの残響がいつもと異なれば、それに適した音の長さで歌うことになるだろう。また、ソロの声がどのくらいのヴォリュームで歌われるかは本番その時にしか分からない。このソロのヴォリュームによっては、曲の全体の構成、そこにおける各部分の比重にも関わってくる。つまりソロのヴォリュームや歌い方によって、その後、ソロを際立たせるような構成にするのか、それともソロを場面の繋ぎとしてとするのかなどが決まってくるのだ。そもそも演奏とは、楽譜があるものの、突き詰めれば常に「即興的」なのである。しかも「指揮なしアンサンブル」は指揮者がいないため、演奏を俯瞰的に見ている存在がいない。よって「指揮なしアンサンブル」では、一人一人が隣の人の息遣い、今鳴っている音、これまで紡いできた音楽を考慮に入れて、次の音を紡ぐような態度が求められる。この態度が歌い手らに共有されていなければ「指揮なしアンサンブル」はなりたたないだろう。

では、この態度とは一体何なのだろうか。


「利他」、それは相手を受け入れる余白

私は「指揮なしアンサンブル」を成り立たせるために必要な、先の態度とは「利他」の態度であると考える。ここでの「利他」とは、東京工業大学の「未来の人類研究センター」の伊藤亜紗、中島岳志、國分功一郎、磯崎憲一郎、若松英輔らが行っている「利他プロジェクト」が使う特有の概念である。「利他」は一般に「利己」と対立して語られる。「自己に利益になることをする」という「利己」に対して、「利他」は「他者の利益になることをする」と考えられている。この「利己/利他」の概念には、自と他を明確に分け、主体である自分が「自分」もしくは「自分以外の他者」の利益になることを意識的に行えることを前提にしている。しかし、相手のためにやったことが本当に相手のためになっているのだろうか。また「自/他」は厳密に分けられるのだろうか。このような疑問を皮切りに、伊藤らは「利他」という概念を捉え直す。 

今回は、美学者の伊藤の論考を参考にしたい。伊藤は「利他」にありがちな「ありがた迷惑」な例から、「利他」という概念を捉え返す。 “相手のためを想って”と行為したことが、結果、独り善がりなものになってしまった経験はないだろうか。こうした利他と思わき行為が独り善がりになってしまう例は、行為者の中で「相手に結果、どういう状態になっていて欲しいか」がすでに決まっていることが原因であると伊藤は分析する。つまり、相手のためと思いきや、自分の都合のいいように他者をコントロールしてしまっているところが原因であると言うのである。このように「利他」を「与える」といった主体の能動的な図式で捉えると、「独り善がり」な事例が含まれてしまう。そこで「利他」の態度を「与える」というスタンスから、相手を「受け入れる」という受動のスタンスで捉えることを、伊藤は提案する。

「〜利他とは「うつわ」のようなものではないか、ということです。相手のために何かをしている時であっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白であるでしょう。」(伊藤, 2021, p.58)

「こうなったら相手は喜ぶだろうから」という自分の中の思念に固執しない、ということだろうか。それは相手の状況関係なく、自分が勝手に作り出した計画、像であるわけだから、原理上、現実の相手とずれてしまう。そこで常に相手がどのように振る舞っているのかに敏感になり、それに応じる。応じる際に自分が思っていたビジョンが崩れても、それに固執しない。相手によって自分のビジョンも変わる。そのような自分が変化する余地、相手を受け入れるための余白を持つこと、そのような態度が、伊藤らのいう「利他」であろう。 


利他的である「生成コミュニケーション」

この「利他」概念を、「指揮なしアンサンブル」の文脈に落とし込んでみる。まず、ここでの「利他」の「他」とは、「他の歌い手」のことになろう。つまり、自分とは異なる「他」と共に歌うのが合唱というわけだ。合唱は別に相手を助けたり、利益になることを行ったりするわけではないが、「他」と共に何かを営むものといえよう。

ただいきなり「利他」と合唱を繋げるのは強引に思えるため、もう一つ補助線を引いてみたい。それが、伊藤が著書『手の倫理』で提唱した「生成コミュニケーション」という概念である。これは、言うなれば、コミュニケーションの中に「利他」的な考えを取り入れたものである。伊藤は『手の倫理』の第4章「コミュニケーション」において、コミュニケーション一般を2つの極で分類する。1つの極を「伝達コミュニケーション」、もう一方を「生成コミュニケーション」とおく。「伝達コミュニケーション」とは、発信者があらかじめ用意してきたメッセージを一方的に伝えるものであり、「生成コミュニケーション」は、双方向的なコミュニケーションで、「その場でつくられていく」というライブ感があるものである。それぞれは予定調和的と即興的と分けてもいいだろう。この即興的なコミュニケーションにおいて、先ほどの「利他」の態度が必要なのである。なぜなら、相手を「受け入れる」、相手による偶然性を受け入れ、自分が変化しえるような余白を持っていなければ、一方通行の「伝達コミュニケーション」になってしまい、「生成コミュニケーション」にならないからである。その場で生き生きとしたコミュニケーションをつくるには、自分の意図やこだわりに固執せず、まわりに身をひらく、そうした態度が必要なのである。そして、これはまさに「指揮なしアンサンブル」に求められる態度ではないだろうか。

これまで「指揮なしアンサンブル」が成り立つための条件を考えてきた。はじめに「指揮なしアンサンブル」の具体的な演奏状況を考察する中で、それが成り立つには、一人一人に「隣の人の息遣い、鳴っている音、これまで紡いできた音楽を考慮に入れて、次の音を紡ぐような態度」が必要であるとした。そして、そのような態度を、自分が相手に対して「与える(伝える)」というよりも相手から「受け取る(聞き取る)」という意味での「利他」の態度と関連づけた。相手を受け入れる「余白」がないということは、相手が誰であれ、ホールがどこであれ、自分の歌い方、表現を変えないということである。そのような方々が集まった団体は、アンサンブル団体ではなく独唱集団であるといっていいだろう。そのような独唱集団ではなく「指揮なしアンサンブル」となるには、その場で音楽をつくりだす態度、相手による偶然性を受け取れる「余白」を持ち合わせている態度が条件になると私は考える。


「トップダウン」な指揮、その臨時的必要性

これにより「相互関係モデル(図2)」になるための条件がわかり、私の目論見であれば、それを満たせれば「指揮者」は「歌い手が作り出した音楽の流れに対して、フィードバックする」存在となる。また指揮者が「フィードバック回路」になるにも、やはり「入力」と「出力」の両方を持たなくてはならないため、相手からの情報を入力する、受け入れる「余白」を持つ必要がある。では、歌い手、指揮者全員が「利他」の精神、余白を持てば、何かみんなが生き生きとしたユートピア的な演奏となるのだろうか。

そこで図1、図2に再び目を向けたい。

再度図を見ると、図1は指揮者から歌い手まで一方通行に矢印が向いており、図2は相互に矢印が向いている。しかしよくよく見てみると、図2の矢印は、図1の矢印を内包していることが分かる。図1の関係は、図2においては、様々な関係のうちの、ある一つの関係なのである。つまり、図1のような「一方的な伝達」も図2の中に含まれているのである。最後、この入れ子構造に注目してみたい。

例えば、接続しあっている関係ゆえに、演奏中のある綻びによって全体のテンポが速くなってそれによって暴走してしまったり、歌い手だけだと音楽性のビジョンがいまいち定まらず、音楽の方向性が迷子になってしまったりすることがある。その時はあえて、指揮者は歌い手との接続を抑え、流れを強引にでも戻そうとしたり、ある一つのビジョンを提供し、流れをつくったりした方がいいように思える。こうした「トップダウン」的な指揮は、むしろ臨機応変的に使ったほうがいいと考える。


まとめ

最後に、これまでの話をまとめよう。このレポートでは、自分の合唱指揮の経験に根ざして「合唱の演奏時における指揮者のあり方」を考察した。私の中で印象が強い、指導の先生からの言葉「あなたが頑張って流れつくらなくても、音楽がすでに流れをつくってるんだから、あなたはその流れにみんなを乗せてあげるだけでいいのよ」をヒントに、「合唱」という営みを「相互関係モデル」として図式化し、その図式が成り立つための条件を考えていった。そこで見えてきたことは、人間の普段の生活でも欠かせない「利他」の精神である。ここでの「利他」とは、従来の、相手に何かを「与える」態度ではなく、自分の中に相手を「受け入れる」ための余白を持つ態度である。しかし、今回はそうした利他のあり方を前提にしつつも、何か場が暴走していたり、場がよどんでいるときは、それを制御したり、または新たな流れと生むようなきっかけをつくりだすことも必要であるとした。このように「トップダウン」的な指示を潔癖的に排除するのではなく、より適切に二次的、または備え付けとして位置付けることで、一次的な「利他的な場」を維持させる可能性を残した。

以上、合唱像、指揮者像は特殊な例ではあるが、この考察には、どこかしら組織論やリーダーシップ論につながる部分があると考える。この議論が、それらに何か有益な視座を与えることができたら本望である。


補遺

これを踏まえ、最近行なっている練習として、他パートに対する感度をあげたり、楽譜に対する感度をあげる練習を多く取り入れている。合唱は指定されたパートの音をそれ通り歌っているだけでは音楽にならない。「音楽を他と共に生成していく」、この感覚を養わなくてはならないのである。また楽譜に書かれていることを歌う際に「自分の表現をする」となると、ここでも紹介した通り「独唱集団」になってしまうのである。「楽譜を通して自分を表現する」のではなく、「楽譜によってある表現が引き出される」という態度である方が利他的だと言える。そこで、楽譜の特徴を実感してもらうことを練習の中に多く取り入れようと最近は努めている。そうした練習の厚みが、歌い手同士の関係や、歌い手と楽譜の関係を豊かにしてくれるように感じる。


参考文献:
・伊藤亜紗「「うつわ」的利他––ケアの現場から」『「利他」とは何か』(2021), 集英社新書
・伊藤亜紗『手の倫理』(2020), 講談社選書メチエ


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