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【論考】「知の家庭菜園」のすゝめ③

敬語が使いやすいので、このまま敬語でいきましょう。

私たちは当たり前なのですが、「社会」というものの中で生きています。それもそのはず、我々は一人では生きていけないため、他者と共同で生きる必要があるのでした。食事にせよ、教育にせよ、経済にせよ、複数の人間が関わることでそれらは成り立っています。ただ複数の人たちが共同で何かをするときには、何かしらの規則、ルールが必要になります。そのルールは、近代社会では合理的精神を元にして決めることが一応の理念ですが、伝統由来の文化や、そこで生まれた慣習などが関与することも多くあります。そうなると、もはやそれらはブラックボックスです。複数の関係が絡まり合い、結局、何がこの社会を動かしているのかが分かりません。でも、それが分からなくても、なぜか我々の社会は動いています。この奇妙さの中で、私たちは生きているのです。

その奇妙さゆえ、自分が社会に対して、つまり全体のルールに対して違和感を持っていても、その違和感の原因が何なのか、分からないときがあります。そのため対処のしようがなく、悶々とする日々が続くこともあるのではないでしょうか。例えば、自分が女性であることを理由に行動や進路を制限されたり、異性に対して感情がわかないのに、それがある前提で会話をしてくることに対して違和感をもったりしても、それに対して、どう対処すればいいか、分からない時があると思います。

そこで、一つ有効だと思うのが「社会と自分の関係を批評すること」です。ここでの「社会と自分の関係」とは、前段落で述べてきた通り、全体のルールと自分の関係のことです。ですが、それを「批評する」とは、どういうことでしょうか。批評の一般的なイメージとして「ある対象に対し、理由をつけて良い/悪いを判断する」というのがあると思います。しかし、その良し悪しの判断の前に重要なことがあります。それは対象とじっくり向き合って、対象が持っている可能性、または自分がそれに対して感じていることを明瞭に言語化することです。もう少し抽象化すれば、未だよくわからない何かをうまく言葉にするとでも言えばいいのでしょうか。例えば、社会批評であれば、その目的は、問題の本質がよくわからない社会課題に対して、どのような社会構造がそれに関与しているのかを明瞭にすることです。私のいう「社会と自分の関係を批評すること」とは、社会問題とまではいきませんが、自分が生きていく上で避けては通れない違和感をしっかりと言語化し、社会と自分の関係を捉え直すことを指しています。

その批評をするのに役立つのが、本なのです。自分の頭だけで考えるのには、限界があります。また本というのは、ある著者があるテーマについて思考を煮詰めて結晶化したものです。自分が抱いている違和感に近いテーマの本を読んでいくと、完全にその違和感が解消されることはないかもしれませんが、どことなくモヤが晴れたような気がするのではないでしょうか。それは、その著者が血と汗混じりながらも頑張って言語化してくれているからだと、私は考えます。また本をいくつか読んでいく中で、まるで自分のために書かれたと感じる本に出会うことがあると思います。それは、その著者も自分と近い違和感を持っていたからかもしれません。しかし、それは逆に言ってみれば、その本を通じて著者と自分の思考の差異が分かり、自分独自の違和感が明瞭になることでもあります。本を読むことは人生の正解を探すことではありません。本を通して、自分が考えたいことは何かを問うことだと、私は考えます。

他にも本は、自分の違和感に即していなくても、自分一人では気づかなかった「社会と自分の関係」にスポットライトを当ててくれたりします。例えば「系譜学」的な視点で書かれた本は面白いです。系譜学とは、社会で当たり前であるとされている事柄に対して、それには実は歴史があり、ある出来事によって生み出されていたことを暴くものです。つまり、それが非歴史的で不変なものではないことを明らかにするのです。洒落た言葉で言えば、系譜学とは、社会で支配的な言説を脱中心化していく営みなのです。このような視点で書かれた本として、ニーチェの『道徳の系譜学』や、フーコーの『言葉と物』『性の歴史』などが挙げられます。また、対象とする言説は科学的な言説も含まれます。「科学」という言葉を隠れ蓑に、社会に潜む偏見を含せていた例が、歴史的にいくつもあります。例えば、近年の著作であれば、アンジェラ・サイニー『科学の女性差別とたたかう 脳科学から人類の進化史』(作品社)や、ロイ・リチャード・グリンカー『誰も正常ではない スティグマは作られ、作り変えられる』(みすず書房)などが、それらを扱っています。私は、この「日頃、自明視していたものの非-自明性を解き明かされる」経験は、どこか「自分では感じていなかった凝りをほぐされる」経験に近いように感じます。社会がつくりだしてしまった歪みによって、それに付き合わざるをえない私たちの思考も徐々に偏り始め、それが「思考の凝り」となり、私たちの思考の柔軟性を暗に疎外していた。それにようやく気付かされた、そんな感じがするのです。

本論の主題である「知の家庭菜園」に話を戻してみましょう。「知の家庭菜園」とは、情報が濁流のように溢れかえっている現代社会で、自分の暮らしの”傍らに”「本のビオトープ」をつくることでありました。この自分の思考の場である「知の家庭菜園」をもとにして、ここまで考えてきた「社会と自分の関係を批評すること」について考えてみようと思います。

その前に、この「知の家庭菜園」シリーズを書くに至った動機を話そうと思います。まず私は、常にあることに悩まされてきました。それは、「社会に対する違和感」と「本」と「暮らし」の関係です。私にとって、社会の中で生きることには常に違和感がつきものでした。そして、その違和感は、それに呼応する本を呼び寄せました。私はそれらの本を読み、違和感と向かい合っていたのですが、いつしかその営みが、その営み自体を成り立たせいている暮らしを侵食していたのです。つまり、社会でどうにか生きようとしていたら、社会的な生活が出来なくなっていたのです。このジレンマとでも言える”悩み=違和感”が、私には常にありました。そこで私は「読書に関する本」を読み漁っていたのでした。そして、その読み漁りを、私の暮らしを維持する中で行ってきたのです。わかると思うのですが、これは反復構造になっています。つまり、あるジレンマを解決する手段が、解決したいジレンマと同じジレンマを孕んでいたのです。この反復構造からどうにか抜け出したいがために、私はこのnoteを書いたのでした。

とりあえず暫定的にですが、それに対し私は以下のように答えたいと思います。

「社会と自分の関係を批評すること」は、終わりがありません。無限に行うことができます。そして、どんどん関連書籍は増え、積読が溢れかえります。これは「自壊」を意味します。時間も体力もお金も溶けます。それで暮らしてくためのお金を稼げればいいのですが、それができるのは専門家だけです。

では、アマチュアの我々はどう生きればいいのか。そのヒントが「知の家庭菜園」なのです。0か1じゃない。”傍らで”営むのです。社会の中で生きていれば、さまざまな理不尽に出会うでしょう。批評できても現実を変えることができないかもしれません。でも、私たちの暮らしの傍らに本棚があれば、つまり自分と近い違和感を抱き、それに格闘してきた著者たちが傍らにいれば、そんな現実にもどこか耐えられるような気がします。現実は今の現実だけではない、つねに別のあり方がありえるんだ、という声が聞こえる。ゆっくりと育て上げた自分だけの「知の家庭菜園」は、暮らしの傍らで私にそう語りかけるのです。

この結論はいささか悲観的、かつ保守的かもしれません。というのも、これは「社会と自分の関係」を"自分の中だけで"捉え直し、ただ自分の心の持ちようや、いささかの行動を変えるだけであって、大きく社会を変えようというわけではないからです。そこには、社会は私1人で変えることはできない、変えようと思って、そもそもの自分自身の生活が立ち行かなくなってしまったらおしまいである、ならば、今の私の暮らしを持続させることがひとまずの条件なのではないか、という私の考えがあります。しかし、別に社会を変えることを諦めているわけではありません。社会に従順にならず、社会とうまく距離をとる、そして別の社会のあり方を思考しながら、今の社会の中で暮らす。それはむしろ社会の中で「変革の芽」を絶やさない抵抗運動なのです。危惧しているのは安直に変えようと思って、その社会運動と共倒れすることなのです。現実的な実践として、そして「変革の芽」を絶やさないようにすることに、私は重きを置いているのです。「こんな社会に殺されてたまるか、生きてやる」、そんな執念が私にはあるのです。

全体の振り返り

これまで「知の家庭菜園」のすゝめを3つに分けて書いてきました。①は、現代社会における情報やコンテンツの濁流の中で、自分の輪郭となる「思考の場」を保つための技法として「積読」、つまり自分の本棚を持つことを説きました。②では、それは常に暮らしの中で行われていることに意識を向け、暮らしの”傍らで”本と付き合う心構えを考えました。私はそれを「知の家庭菜園」と呼んだのでしたね。③では、この「知の家庭菜園」を営むことによって、そこで得られた知恵と共に「社会と自分の関係を捉え直していく」技法を考えました。振り返ると、この「知の家庭菜園」を営むことは、忙しない現代社会の中で、自分を”ケアする”技法なのかもしれません。濁流に飲み込まれず、また社会全体に埋没することなく、自分の輪郭を動的につくり続ける、そんな技法に思えます。

3回分、お付き合いいただき、ありがとうございました。

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