青春を嗤うなと少女が銃を向ける
「いまこんなに苦しいこと、あとほんの何年かして大人になったら、忘れちゃうのかな?それで、いいわねぇあれぐらいこ年の子、悩みなんてなくて、なんて平気で言えるようになっちゃうのかなぁ?」
「おねえさん、十五歳のとき楽しかった?悩み事、なかった?あったでしょ」
問われたおねえさんは、遠い目をした。
「十五歳だったときの自分に、あやまって」
桜庭一樹「推定少女」より
もし死ななければ、私はやがて教室を飛び出し、大人になる。
教科書を捨て、シャープペンシルを手放し、あらゆる縛りから解放されたいつかの私は、15歳の私のことを、なんと考えるのでしょうか。
今日は思春期や青春について、すこし書きたい気持ちです。
思春期の終幕というのは考えるほどに曖昧で、過去だろうと今だろうと未来だろうと、一体いつなんだかわかったもんじゃないなという感じがします。
乗り越えていくものや、断絶しなければいけないことが多すぎて、ズドンといきなり幕を下ろせるものではありませんから、それはもう長い時間をかけてゆっくりと幕を下ろしてゆくのでしょう。
そしていつか、偶然に現れる感覚に誘発され、己の黎明にふと気がつくのではないかと、私は思います。
ある少女にとってそれは、偶然に懐かしい匂いを感じたとき、鈍色の記憶とともに現れる、摩訶不思議な感覚によって気がつくことなのかもしれません。
またある少女にとってそれは、昔使っていたアカウントを見つけ、暗闇でキーパッドを叩く煩悶のときを思い返し、それに「黒歴史」との烙印を押すことなのかもしれません。
もし私ならば、夜寝る前や徹夜した朝にこんな文章を考えることが全く無くなったと気がつく時がくれば、もしかしたらわかることかもしれません。
では、その後。大人になった私たちにとって、終結した思春期は一体どのように感じられるのでしょう?
冒頭で引用しました、桜庭一樹先生の「推定少女」。
主人公ら少年少女3人がカフェに滞在していたとき、店に居合わせたカップルの”おねえさん”が3人を見て「いいわね、あれぐらいの年って。楽しそうで。悩みごとなんてなくて」と漏らします。
それを聞いていた、大きな黒い銃を持つ謎めいた美少女”白雪”は、
「いまこんなに苦しいこと、あとほんの何年かして大人になったら、忘れちゃうのかな?それで、いいわねぇあれぐらいの年の子、悩みなんてなくて、なんて平気で言えるようになっちゃうのかなぁ?」
そしておねえさんに銃を突きつけ、こう問います。
「おねえさん、十五歳のとき楽しかった?悩み事、なかった?あったでしょ」
「十五歳のだったときの自分に、あやまって」
このシーンは、闇色の思春期を生きる少女が漠然と胸に抱いた、”いつか大人へ成長した自分が、この思春期の激しい痛みを、苦しみを忘れ去り、身勝手な思考停止に至ること”への底知れぬ恐怖や、やり場のない怒りを、”少女が大人のお姉さんへ銃を向ける”、という具体的な構図で表していると私は思います。
きっと白雪が本当に銃を向けているのは、存在しうる未来の自分、そのものなのです。
この物語に登場したおねえさんは、自分の十五歳の姿を、心を忘れ、少女たちを侮りました。
私は大人になった時、おねえさんのように、この苦しみを忘れてしまうのでしょうか。
私たち少女の生涯たるこの思春期を、一過性の病と軽んじるのでしょうか。
私にはそれがどうしても、恐ろしく思えるのです。
この苦しくて辛くておかしくなってしまいそうな、この日々が、私しか知らないこの思いが。他でもない私に忘れられ、侮られるだなんて。
想像しただけで悲しくて、同時にすごく悔しくて、心にやり場のない憤りが生まれる。
少女の自分が殺される。あるかもしれない未来が、自分が、恐ろしくなる。
だから私は、銃を向けなければいけないのです。
大人の姿をした、未だ不透明な私に向かって。臆さずに、大きな黒い銃を。
幸せで結構。不幸で結構。生きるも死ぬも、好きにすればいい。
但し、青春を嗤うな。思春期を嘲るな。
心が通じる大人なんて、この世に居ないと思っていた。その孤独を、自分自身で裏切るようなことはあってはいけないのです。
その裏切りこそが自立だというのなら、私は一生立てなくたっていい。それよりも大切なことが、ずっとこの胸にあると思うから。
忘れるな。
思春期は一生だ。少女の一生だ。かの苦しみとともに闇に葬るなら、覚えていろ。
お前は銃口を向けられている。
かつての傷だらけの姿をした、お前に。
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