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ボランティアジャーニーの終着駅で

人生の節目であろうと思われる日の朝、わたしは必ずGalileo Galileiの『四ツ葉さがしの旅人』を聴く。 

7月22日、フィールドキャストとしてオリンピックの活動初日に臨んだその朝もそうだった。ずっとずっと夢見ていた、TOKYO2020のボランティア。当初思い浮かべていた形とは少し違ったけれど、夢が叶う日である、ということに違いはなかった。

潮風公園で過ごした、かけがえのない11日間。それから、武蔵野の森総合スポーツプラザで過ごした、尊い5日間。一生ものの経験だらけだったこの日々のことを何ひとつ忘れたくなくて、毎日丁寧に日記をつけていた。

「見届ける」ことも自分に与えられた役割のひとつだと思っていたから、その一部をnoteにも記しておきたい。わたしが、3年間のボランティアジャーニーを通して出会ったモノたち。

※写真はこの期間に撮ったもののうち、「撮影禁止エリアの外」で撮ったものです。ちなみにこのnoteはこれの続きなので、気が向いたらこっちも読んでって。

出会ったモノ① 深い青と白のコントラスト

ボランティアユニフォームの目が覚めるような青色に、ロゴの濃紺に。TOKYO2020は【青】を目にすることの多い大会だった。そんななか、わたしの心にいちばん深く刻まれた青色は、ビーチバレースタジアムの【青】だ。

ビーチバレー会場は、国立競技場やほかの会場とは違い、オリンピックのためだけに作られた大きな仮設会場だった。つまり、TOKYO2020の終了とともにその役割を終える。嘘か真か、「すでに砂の買い手が決まっている」なんて話も小耳に挟んだ。

この仮設スタジアムが、とっても美しくて。お客さんを迎えることのできなかったシートは、空よりも深い青色。シートを囲むベンチのあるエリア(名称がわからない)は、それよりやや明るい青。そして、選手たちが競技を行うのは、真っ白な砂の上。青空によく映える、絵画のようなスタジアムだった。写真NGだったのがもったいないけど、こんな感じ。

観客を迎え、色とりどりの横断幕や国旗が掲げられたら、きっとまた違った光景になったことだろう。けれど、関係者しか入らない青い会場も、それはそれで美しくて。あの深い【青】を、わたしはずっと忘れられないと思う。

出会ったモノ② ビーチバレー

日本では、ビーチバレーの試合をきちんと観たことがある人は少数だろう。申し訳ないけどわたしも、自分がビーチバレー会場に割り振られるまで、ビーチバレーには「海辺で陽キャが遊ぶもの」程度の印象しか抱いていなかった。ごめんなさい。

日本では、ビーチバレーはマイナー競技だ。オリンピックの試合も、地上波での生中継は(日本戦を含めて)おそらく行われなかった。けれど、観てみるとこれがめちゃくちゃおもしろい!

バレーボールのコートとそれほど変わらぬ広さのコートなのに、競技を行うのはたったの2人。フェイントをしたり、ボールに回転をかけたりするのは禁止。制約だらけのなかで選手たちが走りまわり、砂に足をとられながらもボールを拾い、ラリーを続ける。強烈なショットが決まると、DJが会場を盛り上げる。ボランティア活動中はほとんど観戦できていないけれど、漏れ聞こえる選手の雄叫びだけで、熱戦の様子を容易に想像できた。

暑さやユニフォームなど、競技以外での話題が目立った種目でもあった。純粋にビーチバレーのおもしろさに出会えたのは、この会場で活動したからこそのこと。観客席の盛り上がりを体感できなかったのは心残りなので、コロナ禍がおさまったら試合を観に行ってみたい。

※車いすバスケも当然ものすごく熱かったんだけど、実はこの競技は以前から興味を持っていたので、「出会ったモノ」ではないかなと。バスケの話、気が向いたらまたどこかで書きたいな。

出会ったモノ③ 海外プレスの人たち

潮風公園でわたしに割り振られた役割は「アクセスコントロール」。選手やプレスのカードをチェックし、入るべき人のみを然るべきルートへと通し、誤った導線に入らないようブロックする仕事だ。その役割上、選手やプレスの人たちと言葉を交わす機会も多かった。ご時世柄、必要最低限ではあるが、選手たちとやり取りできたのは貴重な経験だった。

ちなみに、プレスのうち何人かはわりと曲者で(笑)。悪気はないんだろうけれど選手導線を通ろうとしたり、スタッフ導線を通りたがったりしたので、ブロックするための英語力は12日間でそれなりに成長したと思う。

ある朝、自分の持ち場(パイプ椅子が置いてある)に向かったら、わたしが座ろうと思っていた椅子に先客がいて、スマホゲームに熱中していたことがあって。「すみません、ここ、もうすぐAthlete Onlyになるんだけど……」と声を掛けたら「I know, it's OK.」となにもOKじゃない言葉が返ってきた(笑)。めげずに「その椅子はわたしの持ち場で、わたしが座りたいんだ」と伝えたら、彼は笑顔ですぐに立ち去ってくれて。"I"を主語に置くことの大切さを痛感した。

というか、言葉って、こういう状況で使いまくらないと上達しないよね。そういう意味でも、かなり貴重な12日間だった。

出会ったモノ④ こどもたちの笑顔

こちらは、パラで活動した武蔵野の森総合スポーツプラザ(MFS)の話題。MFSでの主な活動は、学校連携プログラムで競技を観に来るこどもたちのお出迎えだった。

シャボン玉や手作りのボードを手に、大勢のこどもたちが会場にやってくる様子を見守った。「すごい! 開会式みたいだ」「”ようこそ”って書いてあるよ」と嬉しそうなこどもたちの様子が、今も頭から離れずにいる。こどもたち、ひらがなを読み上げるときに「よ→う↑こ↓そ→」というイントネーションで声に出した後「ようこそだ!」と気づいてくれるのがめちゃめちゃかわいかったなー。

オリンピック・パラリンピックとも、本来わたしはEVS(イベントサービス)の役割に割り振られていた。お客さんにとっての「一生に一度」の経験をサポートできるのを心から楽しみにしていたけれど、無観客でそれは叶わなくて。そんななか、こどもたちを迎えられたことが本当に嬉しかった。

学校連携については賛否両論、どちらの意見にも理があったと思う。実際、さまざまな事情で観戦を諦めたこどもたちもいただろう。それでもわたしは、会場に来てくれたこどもたちの「一生に一度」をわずかでも彩れたことを誇りに思う。

出会ったモノ⑤ 朝顔

会場を彩っていたのは、都内の小学生たちが貸し出してくれたたくさんの朝顔。本来であれば観客の導線を華やかに飾る予定だった朝顔たちは、潮風公園では選手が通るルートに置かれていた。

どうやら、Googleレンズでこどもたちのメッセージを読み取り、自国の言葉に変換していた選手もいた様子。こどもの手書き文字まで読み取れちゃうGoogleレンズ、恐るべし。

わたしたちボランティアにとっても、可憐に咲く朝顔を見るのはかなりの癒やしだった。誇張なしに、毎朝元気をもらっていた。朝顔を枯らしてしまった会場があった…という報道も見たけれど、わたしが携わった2カ所の会場はどちらも朝夕、きちんと水やりをしていたし、濃淡の紫に彩られた鉢を愛おしそうに眺める人の姿も絶えなかった。

パラリンピックで活動したMFSでは、朝顔をこどもたちに返すにあたり「サンクスレター」を添えていた。そのカードづくりの一部も、EVSとして担当させてもらって。大事な朝顔を貸してくれたこどもたちに、その朝顔が会場をあざやかに彩ってくれたことや、会場じゅうのみんながたっくさん元気をもらっていたことをちゃんと伝えられていたらいいなと思う。

ちなみに、これは我が家の朝顔。かわいいので見ていって。

出会ったモノ⑥ 仲間

突然、とても陳腐な表現である。でも、「出会ったモノ」としてnoteを記録している以上、書かないわけにはいかないなと思って。

わたしは元来、ものすごーく人見知りだ。初対面の人と話すのはけっこう勇気がいる。ついでに、人の顔と名前を覚えるのは得意だと思っていたけど、その自負はコロナ禍のマスク生活でみごとに粉砕された。髪型と目元だけじゃ、ぜんっぜん人の顔を覚えられない……!

そんなわけで、活動直前まで「ボラ仲間と打ち解けられるか」は特大の懸案事項だった。”こっちが顔を覚えられないなら、こっちの顔を覚えてもらう作戦”と題して、人生初の派手髪にしてみたり。と言っても全体を染める勇気はなかったのでイヤリングカラーだけど。

結果的に、このイヤリングカラーはめちゃくちゃ良い仕事をしてくれた。早々に「髪が緑の子」と覚えてもらえた気がしている。けど、髪が緑じゃなかったとしても、わたしはすぐに皆さんと仲良くなれていたんじゃないかって気もしていて。

バレーボールが好きな大学生。優しげな薬剤師のお姉さん。関西から来た中学の先生。長く海外で働いていた営業マン。毎朝2時間以上かけて通っていたお兄さん……文字通り老若男女、仕事もバックグラウンドも国籍もさまざまな人たち。下は20歳から、上はいくつだか分からないけど、たぶんわたしの祖父母と同じくらいの方まで。普通に生きてたらきっと出会えていなくて、みんな「TOKYO2020に携わりたい」という一心で集まった人たちだ。その共通言語があったからか、打ち解けるのはあっという間だった。

少し話が飛ぶが、わたしは写真が苦手だ。撮るのも撮られるのも、できれば遠慮したい。写真にうつる自分の表情が好きになれないので、友人との自撮りは断りがち。それに構図がヘタなのか、自分で良いと思える写真を撮れることが少ないので、素敵な風景はカメラよりも自分の目に焼き付けておく主義だ。

それが、この期間は記憶にある限り、写真に入ることを一度たりとも断っていない。それに、自分自身も数え切れないくらい写真を撮った。別に、誰かに見せたいわけではない(会場内の写真はわりとアップ禁止である)。ただ、どんなに素晴らしい経験をしたって、記憶は徐々に薄れていってしまうものだ。そのことが今から怖くて、写真というちゃんとしたメディアに焼き付けておきたかった。

集合写真もたくさん撮ってもらった。先週200枚近く現像してみたら、どの写真でも目が細くなるくらい笑ってて。あー、本当に楽しかったんだなー、なんて懐かしくなった。そんなに笑えてたのは、一緒に活動したボランティア仲間たちのおかげだ。こんなご時世だから打ち上げは当然できていないし、食事中のおしゃべりだってろくにできていないんだけど、いつか、マスクを介さずに笑い合える日が来たらいいな。

そして今、終着駅で思うこと

通常よりも1年長かったボランティアジャーニーが終わって、少し時間が経った。終わってしまった! 楽しかった! という高揚感も一段落した今、「夢が叶ってしまった」という達成感は変わらずあるけれど、同じくらいの寂しさにも苛まれている。

「東京でのオリンピック・パラリンピック」「ボランティア」が、本当にこどものころからの夢だったから、次は何を目指していけばいいんだろう? と、ぽっかりと穴が空いてしまったような感覚すらある。

英語の勉強は続けたいけど、明確な目的がないと続けられる気がしないし。ボランティア仲間のなかにはパリ五輪のボランティアを目指している人もいるようだけど、ちょっと今からフランス語をマスターできる気はしないしなー。あ、漢検1級の勉強を再開すればいいのか。そうだピアノも再開したいんだった。それに仕事ももっとちゃんとできるようになりたい。こう書き出していくと、やりたいことは意外といっぱいあるなあと気づく。

オリンピックは人生の目盛りだ、と誰かが言っていた。
その目盛りに沿って自分の28年間、特に平昌オリンピックからの3年間を振り返ると、自分は本当に「やりたいことは全部やる」をモットーに生きてきているなあ、と思う。わたしは、そんな自分の生き方がきらいじゃない。そのことに気づけたのも、TOKYO2020を通して得たものの一つかもね。

ボランティアジャーニーはここで終わる。でも、わたしの人生はまだまだ続く。次は何をしようかな! なんて思案しながら、今日も「四ツ葉さがしの旅人」を口ずさむ。

ありがとう
青い傘はここに置いていくよ
ーー「四ツ葉さがしの旅人」Galileo Galilei

(傘じゃなくてユニフォームだけどね!)

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