ひとりで泣いてる私、うまく泣けない私、しんどい私、みんなここにおいで。


「僕のテンションのバイオリズムは約3ヶ月周期で変化する」

ポルノグラフィティの晴一さんは昔『自宅にて』のP.85でこう書いていたけど。それって今も変わらないのかな。

私はどうだろう。季節の変わり目ごとなら同じ3ヶ月周期、ホルモンバランスに振り回されるなら1ヶ月周期とか。

まあともかく、上手に眠れない夜が定期的にやってくる。そんなときは嘘みたいに「憂うつを吹き飛ばしてくれ」る、ポルノグラフィティの『ラビュー・ラビュー』を聴いてみる。

それでもなかなか眠れないとき、心がしんどいときは、晴一さんの言葉に触れてみたり。


『自宅にて2020』を読んで

眠れないならいっそのこと開き直って、愛について考えてみるのもいいかもしれない。

おまけの文章がとっても好き。
最近ご無沙汰だったのはそういう時期だったからなんですね、と受け取りながらも、気持ちと言葉には必ずタイムラグが生まれるから。今もそうなのかはわからないなと思った。

新曲を聴くとき新作を読むとき、自分で書いたものにすらそう。辛いとか嬉しいとか、全部一瞬。
文字で捕まえたような気になってるけど、言葉にした瞬間、過去になる。

ジェットコースターのような毎日。こんな賑やかな世界にしてくれたんだから、もしいるとしたらやっぱり親切な人なのかな。とりあえず私もそういうことにしておこう。

(そういえば『親切な人』の続きをのんびり待っていますが待っていても大丈夫ですか。もし忘れてほしいよってことになっていたら、そっと教えてもらえたら嬉しいです。あ、でも、勝手に待たれることが負担でないなら今のままで大丈夫です)


『まじな雑文』を読んで

この中の言葉、全部好き。
noteっていう広くて狭い世界だからこそ知ることができる、晴一さんの内に近い言葉。
好きな食べ物、嫌いな食べ物を知るのと比べて(そういうのも知りたいけど)何倍も嬉しい。

私は水の中にいる自分を想像するのが好き。水族館が好き。海や川の写真や動画が好き。体や心や頭。どれかひとつでも疲れてくると、すぐ妄想にふける。けど、今までその主人公は私以外の何者でもなかったから。もし次に眠れない夜が来たらそれになったつもりで、泳いで沈んでじっとしてみよう。そうしよう。

息子は遠い近いに関わらず、色んなものを見つけて周りを驚かす。夫に似て目がめちゃくちゃ良い。恐竜大好きだから、もしこの中から選んでと言ったら、それになりたいと願うかもしれないな。
じゃあ私は。晴一さんと同じ理由でウサギは見つけられないし、昆虫も嫌だ。些細な共通点を見つけて嬉しくなるなんて。これは、恋でしょうか。


『もし虹が』を読んで

息子の困りごとのひとつに癇癪がある。
きっかけは疲れや眠気、社会生活の中で生まれるストレス。地雷のようにそこら中に埋まってる。脳の病気ではなく特徴だから、治せるものでも無くなるものでもない。程度の違いこそあれ、一生付き合っていくもの。周りも本人もコントロールが難しい。

そんな息子、最近毎日のように癇癪がひどい。

新学期特有の、季節の変わり目、成長過程、いろいろ原因はあるし、どれか一つでもなく、すべてが混ざり合って、マーブル模様なんだろう。日によって切り口の模様が違うから厄介。

最近どうしたんですか、と聞かれても私はその模様を、おそらく、としか答えられない。
正確にお知らせするなら、自分の目で見てもらったほうがいい。
当然見せてくれないこともある。その切り分けるナイフは息子しか扱えない専用のもの。自分の子どもだからって、勝手に切ったりしない。自分から見せてくれるまで、お皿を持って待つ。

自分の思いを伝える方法が、泣くことしかなかった乳児のころに比べれば、今は言葉でかなり伝えられるようになった。癇癪も長くて1時間弱に収まるようになった。確実に成長してる。

それなのに、私の心には毎日土砂降りの雨が降る。
しんどいしんどい。と言いながら、その合間合間に虹だって見てる。

自分で着替えられたり
こそこそリスト見て忘れ物チェックしてたり
朝機嫌よく出発したり
おはようって近所の人にもあいさつ出来たり
園であった楽しかったことを話してくれたり
横になった私に毛布をかけてくれたり

読み終えて思った。

私が見ているものは本当に虹なのかな。
違うかもしれないな。
私の一生の中で今が朱夏なら、いつかこの蝉時雨を懐かしく、恋しく思う日が来る。
どんよりしていた心の空に、光が射していた。



遅れて聴いたラジオ

晴一さんの言葉といえば。

9月28日の夜、自身のラジオにて。
ショッキングなニュースに触れ、そこから一般論として語られた言葉たち。

「人の幸、不幸は他人が決めることではない」
「人に委ねたり、世の中の価値観に照らし合わせようとすると、そこにやっぱこう、心のしんどさが出てくるんよ」
「心がしんどいと思ったらしんどいんよ」
「『最近こんなことがあって悲しい苦しい』は、俺には理解できないところもあるんじゃろう。世の中のひとりひとりの話を聴いたらね」
「自分の基準の中で楽しいと思えば良いし、悲しいことは悲しいと、」

悲しいことについて「思えばいい」って言い切らなかった晴一さん。突き放したりしない優しさ。
慎重に言葉を選ぶところも、内容も、私が助けてほしい時にいちばん欲しかったもの。

知的障がいのないASDを持つ息子は、外の世界ではそれなりにうまくやれる。困りごとが見えにくい。だから私は、適切な支援で息子の周りが満たされるように、様々な立場、職種の人と話をする機会を積極的に持つことにしている。

専門家の中でも、初めて会った人に「みんな同じだから大丈夫ですよ」とか「わかるけど気にしすぎないで」とか言われることが、ままある。仕事として、慰めたり励ましたりしてくれてるんだろう。
でもそれを聞いた私の心は、ガシャンと大きな音を立ててシャッターを降ろす。

「みんなと同じ状況でも、感じ方が違えば味わう地獄は人それぞれで救われないし、気にしすぎないようにしたいと自分でも思うのに、それは土台無理な話で、効果的な対処法も見つけられないままの私にあなたは『わかる』と言うけれど、本当に私のことを『わかって』くれていますか」と、問いただしたくなる。しないけど。

(念のため、そんな人ばかりではないことも知ってる。「わからないことをわかって」くれる人に出会えることもあるし、的確に助言してくれる人もいる。このまま人員削減が進めば、一人一人にかける時間も余裕も今以上になくなる。そういう人の辛さが透けて見えるとき私も辛い。だから、その先にある苦肉の策の「わかる」は静かに受け取る。)

誰に相談するかはとても重要。
専門家だから安心、というわけでもない。

一定レベルの知識や資格があっても、人によって経験や感受性に差があるから、自ずと対応にも差が出てくる。

しんどい時にためらいなく話したいと思えるほど、心から信頼できる専門家に出会える確率は、この広い世界で大好きになれる人に出会うことに等しいと思う。


このラジオでよかったことが、もうひとつ。
昭仁さんが体調不良で欠席したイベントの振替公演についての話。
リコーダーの発表日に欠席した小学生が後日、緊張の中ひとりで吹くみたいなものだ、と例えていて、すごく楽しそうだった。こんな風に公共の電波に冗談を乗せられるのも、近しい間柄であればこそ。
だけどそれだけじゃなくて、締めくくりに、

「いや〜ほんま応援してあげて。ほんま頼むわ、みんな。たぶん、絶対緊張すると思うわ」

と言った晴一さん。ここがとてもやさしかった。なんだかいつもと違って、あんまり見る機会のない、素に近い晴一さんのような気がしてドキドキしてしまった。
これはやっぱり、恋だ。

正味30分の話りの中に、欲しかった言葉も空気もやさしさも、全部があった。おまけにトランキライザー代わりにしてる『ラビュー・ラビュー』まで流れて、私のためのラジオかと思うくらいうれしかった(生放送だったのに起きていられなかった自分が恨めしい)。

「時間が経っても聴けるクオリティーの作品を作りたいなと思いました」
『自宅にて』のp.210より

「リリースから20年近く経っても聴いてます。今も、日に日に大切さが増していきます」

このときの晴一さんに伝えられたらいいな、と思ったけどやめた。未来は知りたくないし知らないほうが楽しいから大丈夫って言われてしまいそうだもの。

昭仁さんの振替公演

放送翌日のお昼に聴いた晴一さんのラジオと、夕方2つ続けて飛び込んできた晴一さんのツイート。それだけでも心がかなり軽くなっていたのに。
そこへ、昭仁さんの振替公演。

歌声はいつも通り、力強くて優しくて、ひょいっと掬い上げてくれた。
(ライブの感想はまた後日まとめたい)

その中でも特に、歌の前の語りを含めた『前夜』が素晴らしかった。

「この不安は続くかもしれないんですけれど、自分たちに大切なものを確認する、確かめ合う、そんな時間なんじゃないかと」
「苦しいとき、なかなかそんなこと思えないかもしれないですけど、あんまり陰鬱としないで、思い詰めないで前向きに、この時間の中で、小さな幸せでもいいですから、見つけて進んでほしいな、と思います」

この日聴いた「神様願い叶えてくれよ」は凄かった。なんかもう世界中の願いごとが全部叶いそうな気がするくらい、凄かった。

昭仁さんの歌には力があるから。「思い詰めないで」とか「前向きに」っていう昭仁さんの言葉たちは、素直に受け取ることができる。

去年も『VS』のCP聴きながら同じことを思ってた。

ラジオから聴こえてきた「今だって一線を超えてないだけ。自分の中にないわけじゃなくて」って、晴一さんの言葉がストンと心の真ん中に入ってきたのは。

私に向けて話してくれたわけでもなければ、自分も同じ、なんていちばん苦手なはずなのに、寄り添ってくれているような気持ちになったのは。

「理解できないこともある」と、わからないことは絶対にわかったふりしない人の言葉だからだ。


光の届かない場所でも宝箱を開ければ明るい

しんどい時に寄り添ってくれる人を探し始めるんじゃ遅い。そもそも動く元気がないから無理。頼りにしてる人の心や体の状態が悪いときだってある。話せる人が複数いれば解決、という単純なものでもない。
じゃあ、どうしよう。

しんどいとき、最終的に救ってくれるのは自分しかいないと思う。それは孤独なことでもなんでもなくて。

今まで歩んできた道のりの中で出会って嬉しくなった、誰かの言葉やしてもらったこと、心が震えた音楽、映画、本たち。琥珀になったそれらを、心の宝箱の中に入れて、誰にも触らせないで大切に愛でる。

自分に頼るって、そんなずっしり重たい宝箱の中からひとつひとつ宝石を手に取って、真っ暗な海底でじっと眺める、みたいな、たぶんそういうことだと思う。


晴一さんはこうも言ってた。

「誰にだって気分や状況の浮き沈みがあって、それを誰かに聞いてほしいと思う」
『自宅にて』P.213より

私は誰かに伝えたいことなんてない。振り返るとき検索しやすくて使い勝手がいいから、noteもTwitterも使ってる。全部忘れん坊な私のために書いてる。それなのに日記だけに留めておけない理由が他にあるとしたら。

わかってくれる人がもしいるなら、その人にだけは聞いてほしい、と願ってしまうからなんだろう。


「自分の頭の中にしかないものはないのものと一緒」
『自宅にて』P.176より

晴一さんのnoteに触発されて、『自宅にて』を久しぶりに開いた。読み終えて強く思った。

2020年9月29日(から数日間)の、辛くても嬉しくても泣いたことも、心が震えたことも、全部憶えておきたい。「あるもの」にしておきたい。

だからここは、今日の私から未来のしんどい私へ、noteに隠した宝箱。

ポルノグラフィティが好きでよかった。
晴一さんがnoteを始めてくれてよかった。
書く場所にnoteを選んでよかった。


最後に、読んでいただいたあなたへ。
感謝をお伝えして終わりますね。

私の宝物を「あるもの」にしてくれて、ありがとうございます。

あなたにも宝物がたくさん見つかりますように。





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