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下駄を履かせる発想をやめてほしいの

今日、部長に、まぁまぁ生意気なことを言ってしまいました。

とても穏やかで腰が低いタイプの部長が、DE&Iについて部会でお話してくれて、DE&Iに興味があって部会の話題に出す時点で、めちゃくちゃいい人なのですが、どうしても私は引っかかってしまって…。

今日のnoteは、それについて書きます。

部長の例に出したDE&I

すごく丁寧な部長なので、エクアリティ(平等)とエクイティ(公平)について言葉の説明なんかもしてくれて、終始穏やかな口ぶりだったのですが、エクイティの説明の時に、「(全員に同じ下駄を履かせるのではなく)、同じ景色をみれないマイノリティには、同じ景色が見られるように高い下駄を履かせてあげる、その下駄が高すぎたりしないかという議論もあるんですが、まぁそれはそれとして」といったような説明をしたんですよ。

直感的に、私は、「それではエクイティの説明は不十分だ」と思いまして、
部会終了後、部長からの資料配布のメールの文面に「感想などがあればメールください」と書かれてあったので、マジでメールしちゃったんです。笑

私の考えるエクイティ

まずをもって、
マジョリティがマイノリティに対して「下駄を履かせてあげる」という表現が上からでおかしい
と思うんです。

マイノリティはマイノリティになりたくてマイノリティになったのではなく、結果的に、数で少数派であるということだけで、マジョリティに割を食ってることが多いんです、と。
別にマイノリティはマジョリティになりたかったり、マジョリティのマネがしたいわけではないんです、と。

ただ、数で少ないという理由で割を食ってる不利な部分に気が付いてもらって、協力してもらえませんか?という意味では、
下駄を与えて履かせていただくよりも、
マジョリティが無意識のうちに履いていたその目には見えない下駄に気が付いて、たまには、脱いでみてください、と言いたいのです。

あるいは、
下駄がないとみえない世界に立ちはだかる障壁ともいえる壁を壊したり、透明な壁にしたり、壁を柵に変えたりしてもらった方が、
下駄を履かせていただくよりよっぽど嬉しい
のです。

いや、壁があったとしても、下駄がもらえなかったとしても、対話によってどんな障壁があって、どんな風に困っていて、どんな気持ちで日々、過ごさざるを得ないのか、まずは、ちゃんと聴いてもらって、それをどうにかしなきゃいけないな、と本気で思ってもらえたら、その時点で90点取れてて、あとは時間の問題でおのずと100点満点のアイデアは出てくるもんだと思うんです。

贈与と繋がる考え方

贈与というのは、何もない所から始まるのではなく、
受け取りすぎてしまった負債感を払拭すべく感謝して与える
という定義だとすると、
エクイティも同じような構造で、
マジョリティが数で勝るという社会的構造の賜物を受け取りすぎてしまったという負債感に気が付いて、
その負債感を払拭すべくマイノリティに感謝して与える側に回る

くらいの感覚がちょうどいいのではないかと思っています。

マジョリティ側が、マイノリティは可哀そうだからと同情して下駄を履かせてあげよう、と思うのではなく、
マジョリティが無自覚的に受け取り享受してきたうま味に気が付いて、
どうすればその分配がうまくいくのか考えれば、
下駄を履かせるような一時しのぎの対策ではサスティナブルではない
と思います。

構造的な問題なのだから、
構造を変えようとしなければ、

代替品を与えて満たす、
そんなまやかしの構造を作っても、

代替品が枯渇した時に、
また同じ問題にぶちあたってしまいます。

部長の反応

まぁnoteに書いたほどの長文のメールはさすがにしてませんが、
エッセンスとして、そういった趣旨の感想メールを送り付けてしまいました。

すると、
短いメールではありますが、
「本質的です」と恐縮ながらお返事もいただき、
なんだか謝って反省させた形になってしまい、
また、感想メールを送ったこと自体にも感謝の意を告げてくれて、
部長がいい人すぎて、
逆に自分は、生意気すぎて嫌になるくらいなのですが、
今回のことは、
伝わってよかったし、
言ってよかった、と思いました。

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