「私が撮る写真がすき、写真を撮る私がすき」を考えてみた
自己肯定感が低い、自分を嫌いな鹿が、唯一100%自分を好きでいられること。
それは、写真です。
私は自分が撮る写真も、撮っている自分自身のことも、好きだ。
日常生活で悩み、笑い、生きる自分のことはいつも悲観的に考えるのに、写真を撮る自分は好きでいられる、この差は何か考えてみました。
シャッターを切る基準は「気持ちいいか」
さて、人それぞれが風景を切り取る時、どんな基準でシャッターを押すのだろうか。
たぶん、目の前の景色が、自分にとって「気持ちいい」からだと私は思う。
「気持ちいい」には、「忘れたくない」「きれい」など様々な意味が含まれると考えている。ただこれらの気持ちをまとめるならば「感情が高ぶった時」であり、どんな高ぶりかといえば「感覚的に本能的に気持ちいい」瞬間なのではないか。
思い出してほしい、旅行に行って、友人と遊んで、撮る写真はなんでその景色なのか。笑う友人や家族、食べたご飯、空、etc…。
人によって切り取る場所は必ず異なる。
しかし共通することは、それら撮る写真、残す写真が、いつまでも自分が見たい景色だと思う。感覚的に染み込んだ自分の心地いいポイントなのかもしれない。
私は誰かの影を探して写真を撮る
私の「気持ちいい」ポイントは、人の息遣いを感じた時だと思う。
風景を撮るときも、人を撮るときも、私が気に入る写真にはストーリーがあって、かつ人の呼吸があるように感じる。
例えば、お昼ごはんに行っている社長の部屋。
出かけるためにしっかり閉められた窓の鍵とか。
そんな社長が見ているであろう駅の景色、利用する客。
私は別に駅長に会っていない。だけど感じられるストーリーがある。
こういう息遣いに、私は心底惹かれている。
こうやって私はいつも誰かの影を探していて、生きている声を聞きたくて、だからそんな写真を撮っている気がする。
100%の感性だから好きなんだ
ここまで書いてみて、写真は、2つの要素で出来ていると思った。
1つは技術、もう1つは感性。
まず私は趣味程度に撮っているので、技術的に足りないことばかりだ。よく父から駄目だしされる。でも技術は、これから伸ばしていけるから、腕がダメダメでもめげないし傷つかないように感じる。
それよりも私がしんどいのは、自分の感性や感覚を疑わなくてはいけないことだと思う。理由なき感性や本能、感覚を誰かに迷惑がられたり怪訝な顔をされることが辛い。
私は普段、物事や行動の理由を深く考えず、感覚で生き続けている。そして人の目を勝手に気にしてしまう。正しさを常に求めているし、何も言われずにスイスイ泳いで生きていけることを理想にしてしまっている。
その結果、壁にぶつかるたび、自分の感覚を信じられなくて、そして自分を嫌いになり自信を無くしてしまうのかも。
一方、写真は自分の世界だけでいい。プロではないし、これで生活はしていないから、誰になんと言われようと私が私の世界を好きでいれたらそれでいい。まさに「自分に溺れている」状況。
感覚を、100%信じて、その中で好きだなって写真をずっと愛していればいい。そして現に私は自分の写真が大好きだ。
こんな循環が、「自分が好き」現象を生み出しているのだろう。
自分も好き、写真も好き。だから、技術が劣っているってわかっていても人に見てもらいたいって思うし、その人の写真を撮りたい。残したいって気持ちになるのかな。
ぇぇぇ、なんか自分、めっちゃ幸せじゃん笑。
noteを書いて:自分が好きな自分になれるだろうか
昔から人格診断を受けるたびに入っていた職業がある。
「芸術家、保育士、看護師」
全部、自分には無理だと思って過ごしてきた。
特に芸術家。3つのうちで1番惹かれつつも、選ぶべきでないと思ってきた。絵も写真も、すごく上手いわけじゃない。でも、今も絵は好きだし、デザインのことももっと知りたい。自分が生み出すアイデアは好きなものが多い。そして芸術が空気を伝って人に影響を与えることって素敵だと思う。
可能性は、あるのだろうか。世界に職業は溢れていてる。職種によっては名もない「芸術家」になれるのだろうか。
もっと自分に自信を持ちたいし、自分を好きでありたい。じゃなきゃ、生きるの、正直しんどい笑。
この自分を好きでいる感覚って、とても大切なのかもって思いながら、すごく幸せな気分でいます。なんだろう、本当に不思議だ。でも今、私はPCの前で、すごく優しく、笑っている。
このまま笑う私でいたいな。自分を好きでいられる自分でありたいな。
photo by 鹿
撮影地:東京ディズニーシー
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