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ぬまのそこ

「世阿弥に『時分の花』という言葉がある」
「彼がまさにそうだ」

22年前、雑誌の表紙を飾った時インタビューの冒頭で書かれた言葉だ。
この文章に続く、『唐版 滝の白糸』少年アリダは「藤原竜也のために書かれた当て書きのよう」に、深い共感を覚える。
わたしを生んでくれた母が藤原竜也という花を教えてくれた。テレビドラマはもちろん能や舞台演劇が好きだった母は、身毒丸デビューの公演からずっと竜也さんを観ていた。
そんな母のおかげで物心つく前から『身毒丸』『大正四谷怪談』『滝の白糸』『弱法師』での、美しく破壊的で、排他的にも思えるほど瑞々しいお芝居に釘付けになっていた。当時小学校未就学児が『バトル・ロワイアル』封切りを映画館で観られたのは、母が行きつけにしていた小さな単館の館長のおかげだ。

初めて観た瞬間、目が離せなかったのを鮮明に覚えている。ずっとその感覚で彼を観続けているから忘れられないのだと思う。本当に同じ人間なのかと疑ってしまうほど美しく、透明で、ほとばしる色気、まなざし。女の子たちが王子様との恋を夢見るのと同じように、幼いわたしは藤原竜也という存在をどこか夢見心地に“お芝居の中の人”だと認識して憧れていた。

「本当はテレビだけで観る人じゃないんだよ」 

テレビにかじりついて身毒丸デビュー時のインタビューを観ていたわたしに、何気なく母からもたらされた晴天の霹靂。
今となってはごく当たり前の、周知の事実だ。
だけどずっと画面の向こう、むしろ物語の中の存在だと思っていた大好きなその人はテレビだけじゃないだなんて言われて、夢見る少女が理解できるはずがなかった。どうゆうこと?
上半身を捩って問い詰めると「今度ママ、観に行くもん」しれっと暴露される。な、なに…?
それまで見せられてきた会報や雑誌、映像も、もちろん実在する人のものだと理解できる歳になってはいたものの、民家より別荘の方が多く建つ自然あふれるど田舎で、芸能人という存在もよくわからないまま“藤原竜也”と“蜷川幸雄”に憧れた幼い脳みそは、実際に観に行けるなんて想像もできなかったのだ。

「わたしも連れてって!」当然のおねだりだがもちろん却下。これが許されるまでおよそ5年かかった。暗闇と大きな音、大きな声に過敏に怯えるわたしを母は大切な観劇の場に連れていこうとはしなかった。(映画館はギリギリ行けた) 当然ながら幼子の集中力も信用されていなかった。
だから『身毒丸ファイナル』も『エレファントマン』も『ハムレット』も『ロミオとジュリエット』もお留守番。『新選組!』での沖田総司に心を撃ち抜かれながら「いつかきっと」を信じて、舞台に生きる竜也さんに会える日を待っていた。それまでのドラマも映画もずっと観ていたのに「実際に会える」ことを知ってからは一層「大好き」の自覚が増していた。その頃は本当に恋していたと思う。

「まだ竜也くん好き?」 

『ムーンライト・ジェリーフィッシュ』を観た帰りに母から聞かれて即答した。寺沢セイジに号泣してる娘に何を聞くんだろうと思ったら『天保十二年のシェイクスピア』に連れて行ってもらえることが決まり、井上ひさし先生の本を読んでずっと楽しみにしていた。やっと会える、ついに、やっと。その頃から大好きな『ハムレット』の録画を繰り返し観ながら長い上演時間のイメトレもした。「集中力が続くのか」よりも「そんなに竜也くんばっかり観てたらお話に集中できないんだから」と戯曲への理解を叱られたのが悔しくてシェイクスピアも読むようになった。
10月。ついにその日はきた。だけどわたしがいたのは渋谷へ向かう乗り物じゃなくて家のベッドの中だった。インフルエンザである。号泣。もはやトラウマになった。『ライフインザシアター』は劇場がもっと小さいから、と母に諦めを促された。おとなのじじょう。悲しかった。

そこから救われた生竜也さん、夜神月さま。

池袋での『デスノート』大ヒット御礼舞台挨拶。
『天保〜』の一件以来「会いたい!」と駄々をこねまくるわたしに母が内緒でチケットを用意してくれたのである。初めて生で拝む竜也さんは、お芝居の中で観る表情よりずっと柔らかくて、テレビで観た元気な声で笑う少年でもなく優しい声でそっと話すひとだった。彼がはにかむたびみんな夢中になってくのを肌で体感しながら、繰り返し観ているお芝居の姿はリアルだけど本人じゃない。
このひとの中に、身毒丸や伊右衛門、アリダ、俊徳が、ジョンがハムレットが、ロミオが生きてたんだと、恋にうわついていた気持ちは一瞬で地に足がついた。ずっとずっと高いところにいる、見上げ拝み続けていくべき存在なんだと解った。
『デスノート』で夜神月の繊細な表情と突き刺さる言葉のすべてに夢中で「月くんと結婚したい」などと本気で思っていたので、リアルな虚構への恋慕はそのままに、竜也さんという絶対神への信仰が始まった。

雪辱を果たしに

乗り込んだBunkamuraシアターコクーン。ここから劇場の魔力、蜷川さんの演出、竜也さんの言葉の力に頭からつま先まで、全身取り憑かれることになる。
『オレステス』はエウリピデスの書いたギリシャ悲劇だ。それまで観ていた、哀しみや絶望にぶつかりながらも物語という別世界へと誘ってくれたテレビ越しに味わうお芝居とはまったく違う。感じたのは「痛み」だった。雨に濡れた床を何度も何度もその素足が滑り、摩擦で皮膚が傷ついて血が滲み、喉を絞るように聞いたことのない声で叫びながら慟哭する。客席なんて見ていない。彼が見ているのは自分を見放し絶望に突き落とした神アポロンや、メネラオスだ。下顎を震わせるたびにポタポタと雨か汗か涙か洟水か、それらが彼の悔しさとなって溢れていくのが見えた。前楽と千穐楽を続けて観て舞台は「生きている」から「生モノなんだ」と実感した。席を立つ前に、震えが止まらない手で母の手を握ったら、母の手も震えていた。演劇ってすごい。
竜也さんってすごい。

「何故」と「自分を疑うこと」

16歳の『水上の竜』というインタビューで、彼は「極端な役柄に惹かれる」と言っていた。「実際に自分がやったら捕まってしまうけど、ドラマの中ならできるから」と。実際常人なら気が違ってしまうほどの狂気を何度も強い説得力をもって演じこなしてきた。
竜也さんをきっかけに好きなものが構築されてきた。服飾に憧れたのは蜷川さんが竜也さんに見立てる舞台衣装がいつも素敵だったからだし文学や言葉を学びたいと思ったのは、もちろん竜也さんの放つ生きた言葉がもつエネルギーに惹かれたのと、いろいろな表情を観て知らない世界のことを調べたりするうちに「好き」だけではない、もっと知りたい「欲」が生まれたからだ。
行動力がついてからはさらに竜也さんを好きでいることが楽しくなった。
大輪の花を咲かせ続けるその笑顔を見られるなら何だってできる。暗闇も怒鳴り声も怖くなくなった。竜也さんを想うことで強く在れる。
褒められると破顔一笑、変わらないその透明さを見上げながら『真の花』を極める背中をこれからも。

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