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シェイクスピアからの手紙
Words,words,words.
千万の心をもつ作家
ウィリアム・シェイクスピア (1564年〜1616年)
彼が生まれ、生きたエリザベス朝のロンドンには、常に疫病が蔓延っていた。
昨年5月のBSP放送で吉田鋼太郎さんをはじめとした日本を代表する舞台俳優から紹介されたことで より多くの人に知られたことと思うが、その生涯で3度(細かい頻度を数えると6度)ものペストの流行を体験している。
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富める者は逃げ出し、貧しい者は子供も大人も老人も道端で苦しみながら死んでいく。
教会には毎日祈りが捧げられた。当時ロンドンでは35歳まで生きるのがやっとだった。
シェイクスピアが見ていたのはそんな世界だ。
その影響は作品にも現れており、
『ロミオとジュリエット』のロミオの死はペストに関わりがあることは番組内でも紹介された通りだ。
(ロミオと駆け落ちするために毒を飲んで仮死状態になるジュリエットの手紙を、ロミオに届けるはずの修道士が濃厚接触者と疑われ自宅を出られなかった)
ほかにも、『リア王』のリアは長女ゴリネルを以下のように呼ぶ。
“おまえはわしの腐った血が生み出す腫れ物だ、
吹き出物だ、膿みただれた出来物だ“
『アテネのタイモン』では、友人たちに裏切られたタイモンの叫びが印象深い。
“みな疫病に罹るがいい! 息は病気を移せ。
人づきあいをすることが、こいつらの友情同様、
まさに毒となるように!”
いずれもペストの恐怖を連想させる表現であり、
特にタイモンの「人づきあい=ソーシャライジング(socializing)」が「毒になる」というセリフの意味は「人づきあいをするうえで距離をとる」ことを
求められる現代で、より深く考えさせられると 東京大学教授 河合祥一郎氏の言葉に万感の思いだ。
ペストの感染には、人間社会が作り上げた境界線などない。強力な感染力はあらゆる人びとに襲いかかり、何千、何万人もの人々──父、母、夫、妻や子どもたちを墓場へいざなう恐るべき存在であった。そこでは、一人ひとりの生活や思考、感性、性癖などの個人の独自性はすべて奪われてしまう。
“今日の死亡者は何人、感染者は何人”と数だけが 浮き彫りにされ、個々人の物語は数字に置き換えられてしまうのだった。
──その作品が現代に問うもの
第Ⅰ章 シェイクスピアはペストをどう描いたか
加えて川上重人氏を引用させていただいたのは、
まさにいま、猛威をふるうコロナウイルスによってもたらされた現代日本社会の姿と、当時の様子が
重なったからだ。
400年もの長きも変わらず、人間が抱える普遍的な問題に対するシェイクスピアの言葉をよりクリアに考えさせ、実感できないだろうか。
「シェイクスピア作品では多くの死が描かれ、男も女も皆、独特な死に方をしている。」
『オセロー』のデズデモーナはベッドで窒息死させられ、『タイタス・アンドロニカス』ではカイロンとディミートリアスがのどを切られその人肉をパイ皮で包み焼かれる。怒り老い果てて死す公爵や、 悲しみに狂い溺れ死ぬ少女…。こう挙げると古典戯曲だからこその過激な表現が際立ってしまうが、
もっとも社会的で深刻な問題であったペストによる死は、直接的には書かれていない。
感染の波が落ち着いて、ようやく劇場が開き観劇に訪れる客たちにシェイクスピアはセリフで想像力を働かせることはしても、ペストが原因の死を観せることはなかった。
政治劇、英雄劇、史劇、悲劇、喜劇、全てにおいて人間をあるがまま描き主題とすることで、役者たちのパワー溢れる芝居を引き立たせる。それは疫病と隣り合わせで生きる人びとにとって「非日常」の、生きる希望になっていたことだろう。
演じる者や観る者、人びとに訴え続けるその偉大な言葉のレトリックに隠された大きなエネルギーこそ人類に共通する問題提起であり、救いが込められているのだと思わせる。
だから“いまこそ、シェイクスピア” なのだ。
『彩の国さいたまシェイクスピア・シリーズ』
を観ることは、わたしにとって生きる喜びの一つである。(以下シリーズをSSSとする)
その中でも、愛する俳優、藤原竜也さんが板の上で演じられた2つの作品について、
シェイクスピアに関する書籍のなかの印象深い考察を引用しながら役者の芝居によって際立つ言葉の力を紹介したい。
『ジュリアス・シーザー』 Julius Caesar
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左からシーザー(横田栄司)、ブルータス(阿部寛)、
アントニー(藤原竜也)、キャシアス(吉田鋼太郎)*敬称略
芸術監督でありシリーズの演出家・蜷川幸雄さんは
「民衆、名もなき人びとの存在こそが作品の中核を担っている」と市井の動きを重要視しておられた。
川上重人氏も『ジュリアス・シーザー』の副題に「果たして群衆は愚かなのか?」と投げかける。
あらすじはこうだ。
ローマの街に、ポンペイを滅ぼし凱旋してくるシーザー(タイトル同人物)をひとめ見ようと、市民たちが熱狂し、群がっていた。
その勝利により強大な力を得たシーザーを快く思わないのは、ローマの政治家キャシアスである。
“なあブルータス、俺たちがこんなに下っ端でいるのは自分の星のせいじゃない。俺たち自身のせいだ。
「ブルータス」と「シーザー」、この「シーザー」という名前になにがある?
なぜその名前が君の名前よりも世間に轟きわたっている? ふたつ並べて書いてみろ、……
…さてそうなると、神々全員に訊きたいね、
我らがシーザー閣下は、いったい何を食って
あんなにどでかくなったんだ?” (キャシアス)
キャシアスは友人らと共謀してシーザー暗殺を企て市民に人気の高いブルータスも仲間に引き入れようと彼を説得した。
人格高潔で支持を集めるブルータスには、シーザーを殺す理由はなかった。しかし、ブルータスは自分を納得させるための理由を作り上げ、いずれ暗礁に座す計画に乗ってしまう。
“死んでもらうしかない。俺には彼を蹴り倒す個人的な理由は何ひとつない、すべては万民のためだ。
彼は王位に就きたがっている。
そうなったらどれほど人が変わるか、
それが問題だ。” (ブルータス)
そして、シーザー凱旋の日に溢れかえる民衆のなかから占い師が“用心なさい”と告げた、「3月15日」にキャシアス、ブルータスたちの手でシーザーは刺殺されてしまう。
このとき自分を刺した男たちの中に、ブルータスを見たシーザーの言葉こそ、かの有名な「お前もか、ブルータス」である。
このショッキングな事件を見ていた民衆に対して、ブルータスは自分たちの行為の正当性を演説する。
“シーザーは私を愛してくれた。
ゆえに私は彼のために泣く。
シーザーは幸運だった。ゆえに私は歓喜する。
シーザーは勇敢だった。ゆえに私は敬意を表す。
シーザーは野心を抱いた。ゆえに私は彼を殺した。”
(ブルータス)
このブルータスの言葉に市民たちは感動、共鳴し、ブルータス自身もシーザーを殺したのはシーザーを想ってのことだと、自分の演説に酔い、過信した。
そこで次に、シーザーの若き腹心、後継者であり、殺されるのを目の当たりにした時に「今ここでシーザーの血に濡れたその手で私も殺してくれ」とまで嘆願したアントニーを演壇に引き上げてしまう。
“私が来たのはシーザーを葬るためだ。
褒め称えるためではない。
悪事は犯した人間の死後も生き残り、
善行は往往にして骨とともに埋葬される。…
高潔なブルータスは
シーザーが野心を抱いたと言う。
もしそうなら嘆かわしい罪だ。そして嘆かわしくもシーザーはその報いを受けた。…
……シーザーは多くの捕虜をローマに連れ帰り、
その身代金は国庫に納め、公金とした。
そのシーザーが野心を抱いているように見えたか?
貧しい者が泣けばシーザーも涙した。
野心はもっと冷酷なもので出来ているはずだ。
だがブルータスは彼が野心を抱いたと言う、
そしてブルータスは公明正大な人物だ。”
(アントニー)
このように、アントニーは演壇に立つことを許したブルータスを『公明正大な人物だ』とわざとらしいまでに称賛することで、目の前でブルータス万歳!と湧く民衆の心を落ち着かせながら、
殺されたシーザーは「野心を抱いていなかった」と彼らの心に訴える。
“諸君もみな見ただろう、ルペルクスの祭りの日、
私は三たび王冠をシーザーに捧げ、
シーザーは三たびそれを拒否した。これが野心か?
だがブルータスは彼が野心を抱いたと言う、
そして紛れもなくブルータスは公明正大な人物だ。
私はブルータスの言うことを否定するつもりはない、ただ知っていることを言うためにここにいるだけだ。” (アントニー)
ここで民衆たちは自分の記憶と照らし合わせても、「アントニーの言うことに一理ある」
「ひどい目にあったのはシーザーの方だ」
「後釜はもっと悪い奴かも知れん」と、
目を赤く腫らし涙ながらに弔辞を述べるアントニーの熱情に傾いていく。
さらにアントニーは、シーザーの遺体についた傷を見せながら民衆の心がシーザーへの遺恨に染まったところで、シーザーの遺言状を持ち出し
「シーザーがどんなに諸君を愛していたか、諸君は知らない方がいい」と、さらに涙を誘う。
そして「読んでくれ」と懇願する民衆たちに、偽りなき言葉として、先の戦いで勝ち取った財産と民衆への分与について読み上げ、ブルータスの反逆への暴徒と化したうねりを作り上げたのだ。
シーザーの片腕として常にそばにいたアントニーの優秀な機転の速さは、観る人によっては「狡猾」で「暴君」たるやり方だと映るかも知れない。
彼はのちに三頭政治の執政官としてローマを牽引し確かな権力を手にすることになる。
しかし殺戮に倒れ伏したシーザーの亡骸に縋りつき「シーザー、私はあなたを愛した」と、強大で偉大なる主君の死に報いることを誓うアントニーの言葉は真実であったからこそ、論理ではなく民衆の情に訴えたこの悲劇における巧妙だとわたしは思う。
(韻文、散文の使い分けについてここでは割愛する)
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ト書に書かれていない場面だが、想像するしかない
感情の余白を見事に表現してくださり感銘を受けた。
イタリア全土に復讐の火を放ったアントニーの余波は、シーザーの甥にあたるオクテヴィアスの到着を機に ブルータス、キャシアスたちの軍を政治的敗北と窮地に立たせ、自死に追い込んだ。
シーザー暗殺を唆されたとき、ブルータスは「俺をどう言う危険に引き摺り込むつもりだ、自分の胸の内を覗き込ませ、ありもしないものを探り出せと 言うのか」と警戒したが、
首謀者キャシアスは言葉巧みに「君を映す鏡がなければ君には君自身が見えない」と鏡を向ける。
そこには一つの答えがあると川上氏は述べている。
キャシアスがブルータスに与えた鏡は「虚像」であり、シーザー殺害を正当化しようとした欺瞞に過ぎなかった。勝利を収めたシーザーが暴君になる根拠などどこにもないからだ。そしてアントニーもまた「ブルータスは公明正大な人物だ」と、何度も繰り返すことによってブルータスが本当に公明で正大であるのか、判断という鏡を仕向けている。
『ジュリアス・シーザー』が上演された政治的背景には、エリザベス女王の治世が抱える不安と恐怖が高まっていたことがある。
経済的、文化的に著しい発展を遂げながらも、生涯未婚であった女王の老衰や、武勇に長けた寵臣との対立により、内戦が起こるのではないかと人びとは恐怖を覚えていた。
ローマ時代の英雄たちによる舞台演劇にしたことで当時のエリザベス女王を刺激しないよう、配慮されていたという読みもリアリティがある。
政治的不安、混乱、暗中模索。
シェイクスピアが描くキャラクターたち、名もなき民衆たちまでもが、言葉という鏡を向けられたことで自身の恐怖、真実を見、行動する。
その上演を観た人びともまた、不安な時代に対する真価を見つめていたのではないだろうか。
「鏡とは真実を映すものである。」
『彩の国シェイクスピア講座 番外編ヘンリー八世勉強会』の際、河合祥一郎氏のたとえがわかりやすかったので引用させていただく。
鏡に「一番美しい者はだれか」と問う妃に、
鏡は目の前にいる妃ではなく、白雪姫を映した。
鏡が映すものは目の前にあるものではなく、その姿を通して見える物事の本質である。
真実を求める言葉、セリフをもつ中でもっとも代表的な人物といえば
父の死に関する嘘という毒を暴くため道化を演じることで 周囲に、観客に、そして自分自身にも鏡を向けたデンマーク王子、ハムレットである。
『ハムレット』 Hamlet
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ハムレット(藤原竜也), オフィーリア(満島ひかり),
ガートルード(鳳蘭), クローディアス(平幹二朗),
フォーティンブラス(内田健司), ポローニアス(たかお鷹),
ホレイシオ(横田栄司), レアティーズ(満島真之介)*敬称略
『ハムレット』ほど人生を狂わされた演劇はない。19年前 日本演劇史上最年少21歳の藤原竜也さんの
ハムレットから溢れる、言葉、言葉、言葉、それを浴びてから取り憑かれたように求め、2度目となった2015年公演後も繰り返し向けられる誰何を見つめ、その表現と苦悩を敬愛してきた。
同じように思う役者が、識者が、観客が、世界中にどれだけいるか分からないほど語り尽くせない魅力をもつのが
『演劇のスフィンクス』、『文学のモナ・リザ』、
世界文学の極北『ハムレット』である。
『ハムレット』のもつリアリティ
それは「ご都合主義ではなく近代劇に近い」として
シェイクスピア俳優であり現SSS演出家 吉田鋼太郎さんがリアリズムを言及されていた。
そこには時代を問わず、人間に共通する
アイデンティティへの問いかけが込められている。
“誰だ!”
“なに、貴様こそ。動くな、名を名乗れ!”
『ハムレット』での第一声である。
ふたりの将校が見張りを代わるシーンからの冒頭で先にいたフランシスコーよりも先に、あとから来たバナードーが「誰だ?」と言う。 この役割の転換こそ、世界全体に、不条理が起こることを示唆していると翻訳家 松岡和子先生は注釈する。
2015年 SSS番外編レジェンド『ハムレット』として上演される際、蜷川幸雄さんも稽古初日の微笑みを交わしてすぐ 厳しい顔つきでこの場面を指摘した。
冒頭、「誰だ」というひと言は、
我々のアイデンティティを間違いなく問うている。「お前は何者だ」と。
その問いにどう答えるのか。……
…世界情勢の中に我々もぶち込まれているのであって、単一の人間として生きているわけではない。
その認識を持って『ハムレット』のような作品を
やることは、人類の遺産に対する尊敬だと思う。
「お前は誰だ」と問われている
『ハムレット』の推定執筆年は1600年、日本では、関ヶ原の戦いがあった年である。それはイギリス・ルネサンスの最盛期で、中世と近代はざまの時代でもある。
中世における自我は、自分ひとりで存在することはできず、常に神とともに受動的に在ると考えられていた。(「神の照覧あるが故に我あり」)
それに対してルネ・デカルト「我思う故に我あり」となると、神よりも理性を信じる時代となり、自分ひとりで考えることによって自立的、能動的に世界に存在できるようになる。
戯曲中のハムレット殿下を取り巻く世界では、中世や宗教の価値観を引きずりながらも、近代的自我へ羽ばたこうとした 哲学的テーマを孕んでいるのだ。
あらすじは紹介するまでもないかもしれないが、
この完成された人類の遺産、傑作をなぞっていく。
父である先代ハムレット王の死を知らされ、ドイツのウィッテンバーグ大学に遊学していたハムレット殿下は、その葬儀のためデンマークへと帰国した。
そこで殿下を待っていた絶望は、美と貞淑の鏡で
あったはずの母・ガートルードと、父の弟、叔父・クローディアスとの結婚だ。
“ああ、この固い、あまりに固いからだが、
溶けて崩れ、露と流れてくれぬものか。
せめて永遠の神の掟が、自殺を禁じたもうことがなければ。
ああ、神よ! 神よ! この世のありとあらゆるものが、この俺にはなんと疎ましく、腐った、
つまらぬ、くだらないものに見えることか!
赦せん、ああ、赦せない。この世は、荒れ果てて
雑草ばかりが生い茂った庭。けがらわしいものだけがはびこって悪臭を放つ。
こんなことになろうとは!
亡くなってわずかふたつきで──いや…”
これだけで、ハムレット殿下にとって父と母の存在がどれだけ大きな──プライドにかかわるもので
あったのか、その絶望が伺える。
“立派な王だった。今の王は獣のような奴だが、
太陽の神のような人だった。あんなに母上を愛し、
天から訪れる風が母上の顔に強く当たるのさえ
許さぬほどだったのに。なんということだ、
忘れることはできぬのか。母上にしても、ああ、
父上の愛をむさぼるように受けて、
しがみついていたではないか。それが…
…考えたくない。──弱き者、汝の名は女──”
賢明な『ハムレット』ファンの方に、恥ずかしくもこれを読んでいただけていたら、おそらく、殿下のもつ特性に関するフレーズを抜いていることに気がつかれるだろう。心理的時間のことである。議論に枚挙の暇がないここに関して、今回は割愛することをお許しいただきたい。
父の死の直後に、弟である叔父と母の結婚、それは近親相姦の「不義の床」にすぎず、ハムレット殿下はひどく心を取り乱す。それは婚約するほどの愛を誓ったオフィーリアに対してまで憎悪を向ける女性不信に陥らせた。
この直後に、冒頭で見張りをしていた将校と殿下の心友であるホレイシオから、その晩に起こった──
死んだはずの父王ハムレットの亡霊が姿を現した──ことを知らされる。
その「信じられん」現象をハムレット殿下は自分の目で確かめようと、ホレイシオと将校二人に
見た場所を案内するよう申し出る。
“父上の亡霊が──甲冑姿で! ただごとではない。
何かよからぬことがあるぞ。夜が待ち遠しい。
それまでは、心よ、落ち着け。
悪事は必ず露見する。
たとえ地の底深く埋め隠されても。”
そして父の亡霊からその死について
──弟クローディアスが眠っている父の耳に毒を注ぎ殺したという──真相を聞かされた殿下は、共に亡霊を目にした学者でもあるホレイシオに
「この天と地のあいだには、学問などの思いもよらぬことがあるのだ」と諭し、気が狂った芝居を打ち父を殺し母を穢した仇──叔父貴の正体を明かす事を誓う。
“この世の箍が外れてしまった。なんと言う因果だ、
俺が生まれてきたのは、それを正すためだったのか”
導入で語りすぎてしまったが、ここで
鏡は真実を映すものという論に戻りたい。
このあとクローディアスとガートルードは帰国してからずっと落ち込んだままの息子を心配して、かねてよりの友人であった通称ロズギルの二人に様子を探るように命ずる。
しかしロズギル二人の慰問に対しても、ハムレット殿下は佯狂の芝居を打つ(二人は気づきながらも真意を読めない)。
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「最近、俺は、なぜだかわからぬが、何もかもおもしろくないのだ」と天空を見上げ、美しい星々を
目にしても「毒気の集まりにしか見えぬ」と溢し、
「人間はなんとすばらしい自然の傑作だろう。その理性の気高さ、能力の限りなさ。…」と絶賛しながら「しかし、俺にとっては、何の意味もない塵の塊に
しか思えない」と嘆く。人間に自然という鏡を向ける宇宙規模の思考の展開に太刀打ちできるか……。
そこでロズギル二人は、もともとハムレット殿下がお好きだった芝居をご覧に入れようと、旅役者一行がやって来ることを伝える。
喜んで役者たちを迎える殿下は、役者たちに昔観た芝居の一節を演ってほしいとセリフを暗誦しながらリクエストする。
この芝居を観て明日また父王ハムレット殺害に似た筋書きに、自分がセリフを書き足した芝居を王と妃の前で演じてほしいとお願いするのだった。
“もしあの役者に、俺と同じ熱情の動機があり、
きっかけがあったら、奴は一体何をする?
舞台を涙の洪水で沈め、恐ろしい台詞で観客の耳を劈き、罪ある者を狂わせ、罪なき者を慄かせ、
何も知らぬ者を戸惑わせるだろう。みな目と耳を
麻痺させ呆然とするに違いない。
それなのに、
この俺はどうだ、意気地なしの怠け者、
白昼夢に耽って、すべきこともせず、
何も言えないでいる。……
…頭を働かせろ。 ──そういえば、
聞いたことがある。罪ある者が、芝居を見て、
場面の真実に胸打たれ、心を深くゆさぶられ、
直ちに悪事を白状したという。……
…もっと確かな証拠が欲しい。それには芝居だ。
芝居を打って、王の本心をつかまえてみせる。”
そして役者たちに芝居の筋立てを命じる時にも、
殿下の真実を見る──鏡を向ける言葉がある。
"演技を言葉に合わせ、言葉を演技に合わせるのだ
特に厳守してもらいたいのは、
自然の節度を超えないこと。
何事もやりすぎは、芝居の目的に反する。
芝居の目的とは、昔も今も、いわば自然に向かって鏡を掲げること”
ハムレット殿下のいう「自然に対して鏡を掲げる」芝居とは、虚構のはずの芝居が、実際には目に見えないもの──隠された真実を映し出すということ。
『芝居』という鏡は、クローディアスの兄王殺しの真実を映し出し、「あの男は気に食わん」とついに父の亡霊から聞いた言葉通りの化けの皮を剥がし、目的のためなら手段をいとわない、卑劣な人間性を暴いたのである。
“ああ、ホレイシオ、
亡霊の言葉に大枚払ってもいいぞ。見たか。”
“はっきりと。”
“毒殺の話をしたとたんだ。”
“確と見ておりました。”
“ようし、さあ、音楽だ。……”
さらに松岡和子先生は、真実を映し出しながら自分の心を隠す殿下の演技の奥には、もっと強く根本的な必然性があると仰る。
その必然性とは──
ハムレットには観客がいるということである。
ハムレットは見られている。そして、見られていると言うことをハムレットは知っている。
『ハムレット』
![](https://assets.st-note.com/img/1661872187952-MtAts1z6DN.jpg?width=1200)
自分の生まれた国を「牢獄」と卑下するセリフも、決して「至るところに、独房だの、豚箱だの、 地下牢だの」があるからではなく、叔父王、王妃、恋人、召使い達や御学友、城中のだれしもに見られていることを、わかっているためだ。
そして、見られているといういわば鏡を向けられた状態だからこそ、ハムレット殿下のもっとも有名な「to be, or not to be, that is the question」という
自分自身に鏡を向けた独白が生まれているのではないか。
“生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。
どちらが気高い心にふさわしいのか。非道な運命の
矢弾をじっと耐え忍ぶか、それとも
怒涛の苦難に斬りかかり、戦って相果てるか。
死ぬことは──眠ること、それだけだ。
眠りによって、心の痛みも、
肉体が抱える数限りない苦しみも終わりを告げる。
それこそ願ってもない最上の結末だ。
死ぬ、眠る。眠る、おそらくは夢を見る──
そう、そこでひっかかる。
一体、死という眠りの中でどんな夢を見るのか?
ようやく人生のしがらみを振り切ったというのに?
だから、ためらう──そして、苦しい人生を
おめおめと生き延びてしまうのだ。さもなければ…”
![](https://assets.st-note.com/img/1661868992414-udai4V2Aq9.jpg?width=1200)
ここの解釈には、あえて、当時の藤原竜也さんの
インタビューを引用したい。
“想像もつかない死後の苦しみに身を任せるより、
現実の苦しみに耐えるほうがいい。
だから僕らは日々を生きている” という、
今の自分、ひいてはまわりの人びとにも重ねられるような想いが描かれている。
俳優を志した者の多くが憧れる『ハムレット』
その主役を、人生で二度経験できるほど鮮烈で稀有な劇的素質を備える彼が「高い壁」として踠き、 理解し細胞に染みるまで苦しみ舞台で生き抜いた。
だからこそ言葉から真実を映し出すことができる。
ファンの贔屓目だと思われるだろうが『藤原竜也』が『シェイクスピア俳優』と評される真価だと、 心からの敬愛を込めて引用させていただいた。
現代社会を生きるわたしたちにも共通する悩みが、400年以上も前、異なる文化圏から描かれている。
それこそがシェイクスピアの魅力であり、
『ハムレット』が示す、真実を映し出す鏡である。
生身の人間の眼ばかりではなく、メディアやSNSといった 見る、見られる装置が日常のいたるところにある世界で、人間は首尾一貫した人格などなく、与えられた状況に応じた役割を演じて生きている。
ペストの流行下にあった人びとは、自分はいつ死に陥るか、恐怖と不安は尽きず、重苦しい状況に追い込まれていたに違いない。
今日の命が明日へと続く保証はどこにもない、生と死が背中合わせの日々を、人生とは何かという鏡を見つめながら、希望を見出すために劇場に足を運んだのではないだろうか。
「もしもシェイクスピアがいなかったら……」
井上ひさし先生は『天保十二年のシェイクスピア』でそう歌っている。演劇界において、この大作家の名前に匹敵する共通言語はありません。(悲劇喜劇)
死が急に訪れる日常を見つめながら劇場が閉鎖されても淡々と芝居を書き続けたシェイクスピアの思いこそ、コロナ禍における舞台芸術界、演劇界が不用不急だと言われる現代演劇に必要なのだと、
河合祥一郎氏も明言してくださっている。
シェイクスピアにとって「人生は芝居」である。「必死に生きる」ことは「必死に芝居を打つ」ことに繋がり、芝居は不用不急ではないのだと言える。
『舞台 ハリー・ポッターと呪いの子』
休演が続いた二週間、
自分でも待っていたその公演のことも、
最愛の主演 藤原竜也さんのことも、キャスト全員のことも、カンパニーすべての方の心配も、そして、
当日会場で目にした、悔しがるお客さんの顔、言葉すべてが、毎日、常に頭から忘れられなかった。
悔しさを的確に表現する言葉が見つからないまま、
それでも、幕が開いてステージを観るたびに、その空白を埋めてあまりあるほどの感動が襲ってくる。
魔法みたいだ。でも現実である。
生涯をペストの時代で生きたシェイクスピアは諦めなかった。人びとを励まし、いつかくる終わりまで芝居を打ち続け、演劇の火を灯し続けた。
きたる 9/7(水) 放送
『プロフェッショナル 仕事の流儀』予告での
藤原竜也さんの言葉に後押しされ、ここまで想いをまとめることができて心から感謝しています。
あなたのお芝居に生かされてきました。
これまでも、これからも、いつまでも、
愛しています。
何度でも『ハムレット』の台本を見返して、
あの洗練された芝居の壁を超え、咲き誇ったのだと
自信をもって、高く高く飛び続けていただきたい。そしてどうか大好きな舞台に立ち続けてください。
どこまででも行けるもんね、絶対に。
演劇って。
![](https://assets.st-note.com/img/1661872096390-zUtyoTffu4.jpg?width=1200)
たのしみだなぁ。
『ハムレット』はまだまだ書き足りないですが…
また、プロフェッショナルで感情が昂り
嵐となり洪水と溢れたら
改めて感想をまとめるかもしれません。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
以下、参考文献
・川上重人 ペスト時代を生きたシェイクスピア
──その作品が現代に問うもの 本の泉社
・松岡和子 すべての季節のシェイクスピア 筑摩書房
・河合祥一郎 謎解き『ハムレット』名作のあかし 筑摩書房
・松岡和子訳 ジュリアス・シーザー
シェイクスピア全集25 筑摩書房
・松岡和子訳 ハムレット シェイクスピア全集1 筑摩書房
・河合祥一郎訳 新訳 ハムレット 角川文庫
・悲劇喜劇 第74巻 第3号 2021年 5月号 早川書房
・シアターガイド 2015年1月2日発行276号 モーニングデスク
![](https://assets.st-note.com/img/1661911859754-inaaQTlnoT.png?width=1200)
作中の引用について『ジュリアス・シーザー』は
松岡和子先生訳を、『ハムレット』は河合祥一郎氏の訳を底本としているが、
SSS上演時のセリフに寄せた部分もあることを述べ
あとは、沈黙……。