小ささの大きさ日誌〜生後3ヶ月目〜
お子が生後4ヶ月を迎えました。ひと月過ぎるたびに、「もう一ヶ月経つんやねぇ」と妻と振り返るのが、恒例の楽しみになっています。あっというまの4ヶ月。忙しない日々なので、手がかりなしに思い出そうとしても掴みきれないのですが、写真や記録を見返すと、お子のたくさんの成長に気付きます。
けれど、なにかができるようになったという感動は一瞬で、いつのまにか当たり前の日常になってしまう。慣れは怖いものです。抱っこに慣れた、寝かしつけに慣れた…など、滑らかな日々をもたらしてくれる一方で、目の前にあり続ける“奇跡”としか呼べないことを見落とすようにもなります。
はじめてお子を抱いたとき、はじめてオムツを変えたとき、はじめて笑ってくれたとき、なによりも、はじめてお子と会ったとき。浮かんだ心たちを、思い出として過去に置き去らないように。今月も、お子と過ごした記録を書き記そうと思います。
笑い方が変わった
先月から笑うようにはなったのですが、明らかに笑い方が変わりました。声を上げて楽しそうに笑ったり、なんだか少し照れたように笑ったり、僕や妻の姿を確認して嬉しそうに笑ったり。
いままでは感情表現としての「笑う」はしつつ、そのなかでのバリエーションはなかったような気がします。それがいまは、同じ「笑う」のなかにいくつもの種類がある。五感の発達が進んでいるのでしょうか。お子にとっての世界が、いろんな表情を見せてくれるようになったのかもしれません。
泣き方も変わった
「笑う」が変われば、「泣く」も変わります。笑うと比べると、早い段階からいくつものパターンがあったのですが、その違いがよりくっきりしてきた気がします。
特に、激しく泣くことが出てきました。それは眠気や空腹などの不快さではなく、明らかに「怖くて泣いている」といった泣き方。怖い夢だったのか、夜中怯えたような表情をして泣く姿を見ると、自分のことのように胸が締めつけられます。
五感の発達は、見たくないものも見えてしまうということ。嬉しさや楽しさと同時に、悲しみや寂しさも感じはじめるということ。
でも抱いたらいけない感情なんて、ひとつもない。お子を守りたいと強く思いますが、ネガティブと呼ばれているものをすべて遠ざけることに意味はないはずです。お子には笑ったり泣いたり怒ったりして、たくさんの感情を味わって欲しいなと思います。
おしゃべりするようになった
笑い方と同じよう、声を出す行為にもたくさんの種類が生まれました。「うぇーい」としか聞こえないような声を出してみたり、ご機嫌に「あうあう」を繰り返し続けたり。
僕と妻の顔を見ながら、いろんな声を使いわける。それは、本当におしゃべりしているようでもあります。「なんでふたりだけで話してるの!」と言われている気分。たくさん、3人でお話しようね。
絵本を楽しめるようになった
毎朝、数冊の絵本を一緒に読んでいるのですが、明らかに反応が変わりました。いままでは、「なにか少しでも感じてくれてたらいいな」と読んでいただけで、もちろんお子も無表情。じっと絵を見つめている…気がすることはあっても、とりあえずでやっていた感覚が強くありました。
それがいつのまにか、絵本を読んでいる最中に笑ったり、ページを自分でつかんでめくろうとしたり、逆にお好みじゃない絵本にはそっぽ向いたり。いろんな反応を示してくれるようになりました。ころころ変わるお子の表情は、見ているだけで楽しいもの。よりかかって、指を口に持っていきながらページをめくる姿は、なんだか競馬新聞をチェックするおじさんみたいなのですが。
その姿に妻と笑い合いながら、絵本を楽しむお子を、毎朝僕たちが楽しんでいます。
ものをつかめるようになった
新生児の手に指を置くと、ぎゅっと握ってくれることは有名です。あの仕草に何度も心をあたためてもらいましたが、あくまでも反射的な反応にすぎません。だからこそ、自分の意志でものをつかめるようになったお子を見ると、質感の違うあたたかさが心に灯ります。
お気に入りのおもちゃをつかんでは、口に入れてはむはむしたり。自分の服の袖口をつかんでは離さずに、お着替えできなくなったり。毛布をつかんで、抱っこしたときに毛布がついてきたり。僕らが振っていたガラガラをつかんで、自分で振り回したり。
いろんなものをつかんでは楽しそうにしているお子を見ていると、「つかむ」という行為は世界を広げる行為なんだなと感じます。なにかをつかむとは、なにかを自分の存在の延長線上にもってくること。その拡張自体が、もしかしたら楽しいのかもしれません。
お子の成長とともに、僕らの感じることも変化していきます。このひと月は、憤りを感じることの多い期間でした。
ひとつの立派な記録として、そんな心持ちも記しておきます。
これは、妻とふたりで子育てしているとお話したとき、少なくない場面で言われきた言葉です。長らく違和感があったのですが、明確な憤りに変わったことを実感しました。
ひとつは、些細なことですが「手伝う」という表現。僕は妻と一緒に子育てをしている自覚がありますが、「男は、どこまでいっても“手伝う”しかしない存在」と決めつけられた言葉を投げかけられると、心がちくっとします。
もちろん、いろんな場に夫婦でいるからといって、日常的にふたりで子育てをしているとは限りません。一瞬を切り取って判断した言葉は、亀裂を大きくする可能性もあります。その場合も考えると、ご自身の経験や社会一般の常識のようなものに即した言葉が安全なのかもしれません。
けれど、そのコミュニケーションは、個別の人に向き合う面倒くささを放棄したものだとも思います。相対されていない…そんな寂しさを感じて、心がちくっとする。
この寂しさと重なるように、「大丈夫だね」という言葉にも心が波立ちました。たしかに、僕たちはふたりで子育てをしています。ひとりでは無理だっただろうし、妻と一緒だからこそ、無事にお子の生後4ヶ月を迎えられました。
でもそれは、「なにかを犠牲にして」「それでもなんとか」無事に迎えた4ヶ月。
例えば、僕がお子と向き合えているのは、フリーランスという立場で、意識的に仕事を抑えているからです。フリーランスで仕事を抑えるという選択は、そのまま収入の低下を意味します。お子といる時間を選んだのは自分の意志ですが、やはりお金の面での心配は尽きません。今後も考えると、不安で押しつぶされそうな夜も多い。
また、ふたりで子育てに向き合えば、それだけで“大丈夫”なものになるのでしょうか。たしかに、いわゆるワンオペと比べると大変さは軽減します。でも、それはそのまま簡易な営みを意味するわけではありません。
僕も妻もいろんな意味で弱っこいので、ふたりで子育てに向き合っていても、さまざまな不安で心が悲鳴をあげ、涙を流す日も少なくありません。それでもなんとか、お子は元気に育ってくれています。
たしかな幸せを抱きつつ、綱渡りをしているような心持ちの日々。4ヶ月間の笑顔は、ほんの少しのズレで悲しみに転落する可能性を身近に感じている、というのが正直なところ。
そんな状態のときに、環境だけを見て「大丈夫だね」と言われると、張り詰めた糸が切れそうになります。そう言われてないのは知っていますが、「ふたりで子育てできているのにしんどいのは、あなたたちが弱いんじゃない?」という批判に変換してしまう。
僕たちが言葉を尽くせていないのも一因ですし、ついつい平気な振りをしてしまうのも、ふたりの悪い癖です。どこかで、弱いということを隠そうとしている、恥だと思っているのでしょう。僕たちだって、自分たち自身を批判してしまっている。
大好きな小説、村山由佳『すべての雲は銀の…』にこんな一節があります。
子育てに限らず、なによりも真摯に向き合うべきは、その人です。「旦那さんが手伝ってくれるなら大丈夫だね」も、「それくらいはみんな我慢してるからさ」も、「しんどいかと思うけど、それは仕方がないよね」も。僕にはすべて、口をつぐませる暴力的な言葉に聞こえます。
そんな言葉たちと出会うたび、憤りを感じます。そんな言葉を発してしまいそうになる自分にも、憤りを感じます。この憤りを、どのように健全な形で昇華させていくのか。その道はまだあまり見えていません。
それでも、その人の心にあるなにかが、封殺されてしまう事態には抗い続けないといけない。お子と妻と笑いあうために、不器用にもがいていこうと思います。
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