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「ちゃんと働けた僕」に出会い直した2021年と、“ちゃんと”が含む自己否定に抗うこれから。

「ちゃんと働いて偉かったな、俺」

そんな自分へのねぎらいの裏に潜むもの――

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年の瀬も近くなり、「2021年はどんな1年だった?」と聞かれることが多くなってきた今日このごろ。

今年は、同棲・結婚したり、フリーランスになったりと、色々なことがあった。けれど、最初に頭に浮かぶのは、

2021年はちゃんと働けた1年間でしたね

ということ。

2019年の11月に精神的に体調を崩し、2020年の12月に復職した僕。つまり、2019年と2020年には働いていない期間が存在している。

一方で2021年は、働くペースを落としながらではあるが、1年間ちゃんと働くことができた。

ぶっ倒れてた頃を思い出すと、よくここまで回復したもんだと自分を褒めてあげたくなる。ちゃんと働けて偉いぞ、と。

そして気付くのだ。その思考回路が過去、そして未来の僕を追い詰めていることに。

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一般的にではあるが、とある“A”という状態を褒め称えるとき、“Not A”という状態は良くないものだと、捉えるようになりやすい。

「宿題をやってきたこと」を繰り返し褒められると、「宿題をやらないこと」は避けるべきなんだと認識するように。

「お年寄りに席を譲ったこと」で褒められ続けると、「お年寄りに席を譲らないこと」は良くないんだと認識するように。

もちろん、“A”も“Not A”も称賛されるという状態はあり得る。けれど、二項対立の事柄に、善悪を振り分けて理解することも多いのではないだろうか。

(自明の理としてではなく、僕の思考のクセだと捉えてもらう方が良いかもしれない。白黒思考。グレーを大事にしたい。)

それを踏まえたうえで、冒頭の2021年の振り返り。

2021年はちゃんと働けた1年間でしたね

ここで、“ちゃんと”を使ってしまうことが僕の問題なのだ。

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ちゃんと。副詞として、「よく整っているさま」や「結果が十分であるさま」を示す語。基本的には、物事を良しとするときに使う表現。

その表現で「1年間働けた自分」を表してしまう。

それは「働けなかった頃の自分」を“ちゃんとしていなかった”と捉えていることの、裏返しなんじゃないだろうか。

「ちゃんと働けた」と語った瞬間に、「ちゃんと働けなかった自分」を否定する構造が生まれる。怖いことに、その構造には無自覚だった。

振り返ってみれば、体調を崩してから、もしかしたらその前から、こんな自分を認めて欲しいと常に心が叫んでいた気がする。なにも生産的なことはしていない。立派と呼ばれることもしていない。それでも、僕は存在して良いんだと思いたかった。この世で生きていて良いんだと、その安心感が欲しかった。いまのままで良いんだよ、あなたのままで良いんだよと、誰かに言って欲しかった。

誰かに言って欲しかった。つまりは、僕の頭の中を渦巻くことばは否定ばかりだったということ。

働いていないお前はダメなんだ。
なにもしていないじゃないか。
そうやって寝てるだけで、よく生きていられるな。

自分で自分を傷付ける。頭のなかで行われるのだから、誰も止めようがない。

価値をもたらしていない僕は、社会に存在してはいけないんだ――

そんな精神的な自傷行為は、永遠に続くようにも思えた。

幸い、回復していまがある。働くこともできている。自罰的な声は聞こえにくくなった。

けれど、「ちゃんと働けた」ということばは、いまだに過去の自分を否定していることを意味している。そして、回復した自分に胡座をかき、過去を否定していては、なにも変わらないんじゃないかと思うのだ。根本はひとつも変わっていない。

誰しも、体調を崩す可能性はある。いま元気だからといって、あなたも僕もずっと元気だとは保証できない。

なのに、気を抜くと、いまを「ちゃんと働いている」として称揚してしまう。

それは、未来の自分の否定にも繋がっている。再度体調を崩してしまう可能性がある、未来の自分。

精神的な自傷行為は、いまでも続いているのだ。

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ほんとうの意味で自分を救うには、この自傷行為をやめるしか道はない。

「ちゃんと働けた」の裏にある暴力性。それに気付いたことは、大きな一歩だ。

なにかの行動に価値を見出すのではなく、自己の存在そのものを認める。対外的な価値を追い求めるのではなく、自己内部にあるものを追い求める。

いまはいまで認める必要はあるけれど、過去を否定することで成り立つ承認は意味をなさない。あくまでも、点として称揚すべきだ。

そして、過去の自分をも認めてあげられる枠組みを、見出さないといけない。

それはとても難しいことだろう。社会にあふれている価値観は、なにかができるようになることばかりを「善」とする。なにかをできない状態を「悪」とし、克服すべきものだと捉える。

そんな価値観に、僕は抗いたい。

働けなかった過去の自分のために、未来の自分のために。

存在そのものを認められる人へ。これからは、そんな旅路を歩もう。


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このnoteは「書く」とともに生きるひとたちのためのコミュニティ『sentence』 のアドベントカレンダー「2021年の出会い」の3日目の記事。これから、最ッッッ高な書き手たちが綴っていきます。お楽しみに!



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