字書きとしての勉強

 「字書き」とは「絵描き」に対応する言葉として二次創作をするオタクのコミュニティ内で使われる言葉である。イラストや漫画を書くのではなく、小説で二次創作をする人のことを指す。大抵は字書きの人たちは小説を専門に書き、独自のコミュニティを築いている。

 私も二次創作で小説を書いたことがあるので一応「字書き」だということになる。しかし私は自分が小説を書くことを秘密にしているため他の人たちと交流したことはなく、字書き独自のコミュニティの内情は知らないままである。
 読み手としての印象を言うならば、字書きの実力は絵描きと同じく個人差があり、ピンキリだと思う。しかし絵と決定的に違う点がある。Webの小説はフォーマットが多様で、許容される範囲が広いという点だ。例えば箇条書きで書かれるもの、セリフだけで進むもの、夢小説などのように一人称視点で感情移入できるよう書かれているものなどがある。2,000字くらいでワンシーンだけ書いたものもある(逆にプロの書いたかのように感じるものもあるが)。国語力がなく作文能力が低かったとしても、そしてそういった能力を伸ばす気がなかったとしても素晴らしい作品を書く人というのは存在する。この多様性は字書きだけに存在する良さであるように感じる。(4/22追記:漫画もわりと広い。フォントや線の太さなどを自分で選ばなければならないのが小説と比べると難点かもしれない)
 その度量の広さが好きなのもあり私は深く考えずに小説を書いていたのだが、今回ふと作品として小説を書いてみたいという気持ちが生まれたので色々調べてみたのである。
 こういう努力を吹聴して知り合いに愛想を尽かされてしまうのは嫌だし、それに聞きかじった程度の知識だから恥ずかしい。なのでnoteで私の努力を誇ることにする。


 元々文を書くのは好きだった。まず小学校低学年のときに文字数を増やす喜びを作文の授業で知り、その後短い文字数制限の中で言いたいことをまとめる快感を中学受験で知った。その時点で文章を書くことはそれなりに得意だったが、中学に入って読書感想文のコンクールで賞を取るような友人ができた。そして彼女は趣味で創作小説を執筆しているのだと話してくれた。それを聞いたとき、小説を書くという趣味が存在するということに気がついた。
 彼女がいなければ私はここまで小説を書くことや文を書くことに親しめなかっただろう。この日記としてのnoteも公開する勇気はなかったかもしれない。
 それはさておき、私は小説を書くタイプの人間に成長した。中学生のときに創作の短い小説を書き、高校を卒業する頃には二次創作で短い小説を書いた。その後も書き続けていて、年に一本も完成しないほどの遅筆(または飽き性)だが、書くのも楽しいし完成したものを見返すのはもっと楽しい。作品の完成頻度こそ低いがこれが趣味であることは間違いない。

 私がここ数年間で書いた小説は全部二次創作で、長くとも15,000字程と短いものだ。私は自分の考えを文章という形で出力する工程だけで楽しいのに、完成すれば非常に自分好みの作品をいつでも読むことができるようになる。最高だ。この2点だけで充分過ぎるほど私が小説を書く理由になっているので、ネット上で公開するのは喜びのお裾分けとしての面が強い。他人から自分が尊敬されるかということは全く気にならない。私の作品が素晴らしいことは間違いようのない事実だからだ。作品が完成した時点で私が支払った労力は回収されている。
 まあ作品に反応をもらえると「ちゃんと他の人が読んでも面白いものだったんだな」とか「私と同じ趣味の人がいるんだ!」と感じられて嬉しかったり、自分の作ったもので楽しんでもらえるのが嬉しかったりするが、それはあくまでボーナスである。後でまた出てくるが、字書きとしての私は真田つづる先生の『私のジャンルに神がいます』のように他人の評価や関心次第で心に嵐が吹き乱れるような波瀾万丈な創作生活は送らずにすんでいてありがたい(余談だが私は絵も描いている。理由は謎だが小説より評価に精神が左右される)。
 そんな感じであるので、私が小説を書くときに気をつけていたのは「私が読んでいて不快じゃない文章か」ということと「私が読んでいて面白いと感じる展開か」ということだけである。そんな雑なやり方であっても作品によっては数百人の人に評価してもらえたくらいには読める文章になっているようである。

  ではなぜ字書きとしての勉強をしようと思ったのか。
 それは長編を書きたいと思ったからである。それで元々小説を完成させるのは難しいと感じているというのにさらに難易度が高いのを実感し、これは自分の感性に甘えず先人の知恵を頼るほうが楽なやつだと思ったのだ。
 文章はそれなりに書ける。語彙もそれなりに知っている。書きたいネタもある。だけど何度も何度も推敲しながら不自然なところを徹底的に直し、ときには段落を丸ごと消し、起承転結をつけるというのが非常に難しい。短いものですらそうだ。私のメモ帳にはその工程に打ち勝てず沈んで行った小説が山となっている(その二の舞になりかねないのでnoteはほぼ推敲せずに載せている)。
 その他にも、書きたいなと思っている山を越えると途端にどうしていいか分からなくなったりすることがあったり、書いているうちに思いついた天才的なアイデアを組み込もうとして全体の流れが崩壊したりする。自然に繋がるようにしようと頑張ってみるもその2つの部分の内包するテーマがバラバラだったりして泣く泣く諦めたり、数時間かけて文章を捻じ曲げて繋げた挙句書きたかったなにかが失われてしまっているのを感じたりすることもある。とんでもない思考労働である。文章を書いている時間より悩んでいる時間の方が圧倒的に長い。
 個人的にはそのうんうん唸りながら捻り出す感じも嫌いではないし、完成することがなかった小説未満のメモ書きを後から見て「私のアイデアって最高すぎる」とか「あ、ここで挫折したんだな」とかって思うのも楽しいのでそこまで悪くはない。だがもし産みの苦しみを減らすことができるならハッピーである。さらに自分の好きなキャラを描いた面白くて長い作品が増えるのなら素晴らしいし、私の小説が増やしやすくなるなら良い。

 そういうわけでまず学んだのは三幕構成である。あとブレイクスナイダー・ビート・シートというもの(Webにプロットの作り方やその解説を載せてくれる人のなんと優しく賢く有難いことだろう)。カクヨムのものが最も良かった。多分検索すれば出るのでぜひ読んでみてほしい。
 三幕構成という言葉は先程も名前をあげた真田つづる先生の『いまからまんがを作ります。』という同人誌から学んだ。その同人誌は漫画用なせいもあるのか、プロットに関する部分は説明が簡易的で内容を把握するのが難しい。「言ってることはわかるんだけど、じゃあ私が今書きたいこれだとどれがどれにあてはまるんだ?」みたいなことが起きる。なので三幕構成については別途勉強し、その同人誌は一例として参考にするのがいいように思う。作品を作る過程を公開してくれる人は少ないので面白い。書きたいネタを付箋に書き、それを並べ替えてプロットを組むというライフハックを知れたのはかなり良かった。
 それらを踏まえて作品のプロットを作った結果、これまでメモ帳に思いついた順に適当に書いていき繋がりそうだと思ったらコピペして順番を入れ替えたりしていた作業が楽になった。
 私が文を書いているときよく遭遇する問題は、AとBとCという出来事を書こうとしているがAとBも繋がるしAとCも繋がるしどっちでも面白いから迷うというものだ。これは試してみないと分からないのに細かな文を治さないとイメージが掴めなくて疲れる。そういうのがほんの少しだけ楽になる。
 これらの方法を使っても結局プロットの流れを検討する間はうんうん唸ることになるし、書きたいネタが流れを乱すから入れられそうになくて泣く泣く捨てることもあるのは変わらない。だが「起承転結がちゃんとある長い文章を書けそうだ」という安心感はプロットの書き方を学ぶ前にはなかった感覚であり、この勉強の成果である。小説の清書はこれからだが幾分楽になったんじゃないだろうか。
 今回はちゃんと小説の書き方を学ぼうと決意するまでに5日くらい足掻いており、その間にネタを練ってメモしていたので小説に書きたい出来事を書き出すのがスムーズだった。ゼロからプロットをつくる方法が良いかはまだわからないが、とにかくこの長編小説を頑張って書いてみようと思う。楽しみである。


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