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人と仕事をするには - common ground & trust を国際関係にもジェンダー間にも

こんにちは。今日は、ジェンダーの話を書きたいと思います。今まで、正面切って何か言うことを、どことなくためらってきた分野です。何故ためらうのか、についても言葉になりにくくて、ややスルーしてきた感のある分野です。

今回、あるきっかけから、‘何故’の形が文章にできるくらいに見えてきたように思えたので書きたいと思います。

その前にちょっと。

写真は数日前、散歩していた時に見つけた水仙の群生です。いつも通る道からすぐそばのところに生えているのに、今まで気がつきませんでした。日本の水仙は大好きです。

それで、すぐにnoteにコメント付きで載せたかったのですが、このところ2カ月ほど時間も使う気も遣う世事に忙殺され、頭から何の文章も出てこなかったのです。

そんな時、友人から連絡があり、2時間ほども電話で話すことになりました。その人は大学で色々な企画をしたり、講義をしたりして、次世代を育てるために頑張っている人ですが、今度はジェンダーの問題に取り組みたいということでした。

今でもやはり女性は会議などでおとなしくなりがちで、能力を発揮できていないから、もっとロールプレイングなども取り入れたトレーニングを企画したいと言います。それで、「あなたも働いてきたんだから、何か良いアイデアがあるのではと思った」のが連絡をくれた理由でした。

私は、彼女の活動を応援したい気持ちはすごくあります。若い世代の可能性が広がると本当に嬉しいです。何かお役に立てることがあれば、生きがいさえも感じるでしょう。それに、女性差別が当然の時代に仕事を始めたのだから、理不尽な!と思ったエピソードには事欠きません。

それでも私には、これまでジェンダー問題の議論には加わってきておらず、何か参考になることが言えるのだろうかというためらいもありました。ジェンダー問題について何も言わなかった理由が、明確な形であった訳ではありません。世間での色々な議論やそれに対するリアクションを見て、う~ん、それもそうなんだけど~、いや、でも~、とか、なんとも歯切れの悪い、断片的な感想ばかり頭を巡るという状態でした。

で、その友人には、いや~私の体験なんて前時代的で、今の若い人の参考になるようなことなんてないと思うわよ~、と言いました。そういいながら、2時間もしゃべり続けたのです。

その挙句、やっぱりお役に立てそうなアイデアはないわ~と、電話を切りました。大汗でした。ところが、この電話の後、自分がなぜこうも歯切れが悪くなるのか、が少し分かってきたように思えてきました。

日本で生まれて育った日本人である私は、差別という言葉はどこか彼方の用語と思っていました。何か違う扱いを受けても、違和感はあるものの、そういうものかと思っていました。

子供のころ叔父の家に遊びに行って、大人が話をしているときに、それ何だろう?とふと思って聞いたら、叔父が「女は黙っとれ!」と言ったのにびっくりはしました。家では、子供は黙っていなさい、とは言われても、女は、という言い方をされたことはなかったので。

子供はまだ大人の話は理解できないから口を挟む場合じゃない、と言うのはまだしも理解はできるけど、女という分け方だと、じゃあ、大人になっても黙っていなきゃならないってこと? そういう風に不思議に思いましたが、へぇ~、と心の中でつぶやくだけで終わりました。

年頃になると、本当に色々言われました。いわゆる女性はこうあるべきという、世間で誰もが聞く言葉です。違和感がありながらも、違和感を覚えているのが私一人のようだったので、自分が変なんだと思っていました。

いわゆる総合職の仕事をするようになって、日本の銀行で働いていた時、部長のお供で重要顧客先の部長を訪問したことがあります。お客様の質問を部長が私に振られたので説明を始めた途端、そのお客様が突然「女性が仕事なんかして子供を産まないのはけしからん」と仰いました。

初対面でしたから、単に働く女性を一括りにしたイメージを私に当てはめただけと思います。10人以上の人の居並ぶ正式な仕事の会合でのその言葉は、相当理不尽だと思いました。

女に仕事はできない、と言われたり、何か地位が付いたりしてくると、面識もない内からきつい女に違いないと想像されたり、女は得だ、女だから出世できたに違いない、と言われることもありました。でも、それは皆イメージの話でした。

それに対して面と向かって反論しなかったのは、ここで意見しても良い結果に結びつかないと思ったところが大きいです。

ジェンダー問題に関しての話を、男性同士で目配せしながらしているのを垣間見ることがありました。自分は納得していないが、他からの押し付けを受け入れたように振舞わないと不利益を被るので、という雰囲気です。そうなっては、物事をより良くという目指す方向に向かわないのではと思いました。

目指すところって何かといえば、私は仕事の場で男性と女性が2つのカテゴリーに自動的に仕分けられて、お互いの心理的隔離状態にあるのはもったいない気がしていました。何かジェンダー問題に意識を持っていたというより、周りの人の働く姿を見て、ただそういう風に感じたのです。

男性と女性は違うと私は思います。生物学的な差です。しかし、男女の違いのほかに、個人としての違いもあります。だから性差×個体差でそれぞれの適性に合った仕事をし、お互いに個体どうしとして影響を与え合いながら仕事をするともっと良いのではないかと思ってきたのです。

私に連絡してきた友人は国際機関で長く働いた経験があり、今回たまたま彼女も私も、新時代の国際関係についてのディスカッションをオンライン視聴していました。ディスカッションでは、日本の国際関係の作り方は、今までは2国間に注力してきたが、これからはマルチな国際関係を築く必要がある、という話がでていました。

彼女は、会議の場での女性の態度について話していましたが、国際関係の築き方についても話していました。マルチな国際関係を築く鍵はcommon groundとtrustだと言います。お互いの共通点を見つけ、信頼を築く、と訳せるでしょうか。

それは会議の中身の話で、女性の活発な発言というテーマとは別の次元ですが、その2つの単語が私の頭に残り、2時間の電話の後、ジェンダーの話に頭の中で結びついたのです。そうなんだ、今までジェンダーの問題について何か聞くと、よく、う~ん、それもそうなんだけど~、いや、でも~、となってしまっていたのは、これだと思いました。

ジェンダー問題について人が話すとき、たいていの場合、その話は男と女の二項対立の構造になっていると感じるのです。二項対立しているところには common ground と trust  がありません。それで導かれた解決は、形の上では解決であっても、本当に良い結果につながる解決なのだろうか、という問いが私の頭を巡っていたのです。

仕事はチームで行うことが多いです。その場合、目に見えない気持ちのつながりが実は結果に大きな差を生むということを、私も実感してきました。表面では解決しても、裏で目くばせしあっている、というのはまずい構造だと感じていたのです。

差別的な言動に接するとつらいです、腹も立ちます。でも、差別している側は、それが差別だと気づいていない場合がほとんどではないかと思います。だから、正面切って差別について言われると、何か、あらぬ文句を言われたという印象を受けてしまうのだと思いました。言う方も、腹を立てていれば糾弾口調になっているかもしれません。

内向してしまっては、本当の意味でより良い人間関係作りには逆効果を持つのではないか。そう感じてきたのです。

こんな理不尽なことがあったと、先につらつら書き連ねましたが、それは何か具体例を出すと方が状況がイメージできやすいと思ったから書いただけです。私は仕事をしてきて、本当にいろいろな方に助けていただき、教えていただくことも、見習うことも大変沢山ありました。男性からも女性からも、です。

仕事をしていると、様々なことがあります。そういう時、自分の役割を一所懸命全うしようとしていると、そこには男女のカテゴリー分けでなく、何が今このチームにとって大事か、何が良い結果をもたらすか、に人の意識は集中します。

そういう中では、良い意見、アイデアと思えば、それが女性から発せられたものであっても素直に評価するという場面を、私は最も古いタイプの職場で何度も経験しました。そこにcommon ground と trust があったからだと思います。

うまく書けるかどうか分からないのですが、書いてみます。

若い時は、思い出すと、仕事を学ぶことにただただ夢中でした。仕事の世界での出発が遅かったこともあって、早く一人前にならなければ、という気持ちでいっぱいでした。就いた仕事の分野に大変興味をひかれたからなのですが、生き残るためには早く一人前にという切迫した気持ちも持っていたと思います。

自分の中ではその一本道を歩いていたのですが、もちろん世間に出れば世間の様々な事情にも影響を受けますから、道もあれこれと複雑になります。そうしてやっていく中で、結局仕事に関して自分の心に残ったのは自分のしていることへの興味であり、与えられた役目を大事に思う気持ちだったと思います。

そういう時に、自分が女だとかは、まず自分自身が意識しなくなる部分がありました。相手に合わせた言い方、なるべく受け入れて頂けそうないい方には気をつけましたが、仕事上言うべきことを言えずに終わるということはありませんでした。

そして、意見を受け入れて頂けない場合もありましたが、それはその時の組織の事情であり、聞いてもらえないのは私が女だからと感じたことはありません。

Common ground は仕事上の課題であり、営利企業であれば収益向上です。みんな集まって働いているのは、そこで収益を上げ自分や家族を養い、ビジネスの発展とともに個人の成長を実現したいという共通の目的があるからです。

個人個人の働く姿勢や人となりや貢献の度合いは、一緒に働く人が一番よく分かります。それがtrustを生みます。

Common ground や trust は、働く場では男女の仕分けとは別のところにあります。Common ground と trust に皆が気持ちを集中していると、余分な感情は沸き起こりにくいのでしょうか。

私の場合は特にそんな風に’仕組んだ’のではなく、ただ仕事に一所懸命だったのですが。与えられた職務を全うできた部分については、結果的にそれがジェンダー問題を乗り越えるための有効な戦略だったように思っています。

世の中いろいろで、これだけであらゆる種類のジェンダー問題が解決するわけでは全くないと私も思います。もちろん、毅然として対立しなければならない場面に遭遇することもあると思います。

ただ、これからの時代は、ますます性差よりも個体差、の時代だということは言えると思います。個人個人が個性を発揮してお互いのcommon ground とtrustを築くことができればジェンダー問題も、より生産的な方法で乗り越えられるのでは、と思います。

個性といえば、夫婦の関係にも個性があってよいと思います。何十年か前のコマーシャルで「君作る人、僕食べる人」というのがありましたが、今のコマーシャルはいそいそと料理をしながら奥さんの帰りを待つ、という設定が多いですよね。

世間の風潮を表していて面白いと思います。でも、それじゃないといけない、みたいになっては、ステレオタイプの女性像が押し付けられていた昔とベクトルの向きが変わっただけ、ということになると思います。

日本でジェンダーの問題が語られるとき、アメリカではこうだ、という風に言われるのを聞くこともよくあります。アメリカの女性は全員働いている、というイメージです。でも、私が住んでいた町には、専業主婦も結構存在しました。特に、忙しくて出張も多い高額所得の男性と専業主婦のカップルで、子供は5人、場合によってはその上養子が2人、というようなケースも一つの典型としてありました。

本人の価値観で良いのだと思います。夫婦なのだから、お互いの価値観が一致するなら、あるいはそこにすり合わせ可能なら、家事をするもしないも、どこで働くも、お互いに決めたらよいと思います。子供がいれば、もちろん親の深い愛情が伝わるよう育てる。それだけだと思います。

少しの経験だけを基に分かったようなことも言えないし、書いてみて、やっぱり私にはうまく表現できないなぁ、特にこの分野は、と感じています。

それでも、自分の経験をできるだけ客観的に見て自分の考えを持ち、それを人の前に差し出せば、何かの参考になるかもしれないと思うことにします。

そして、批判でも何でもフィードバックを頂ければ、そこからまた新しく考えたり、考えを整理できたりする。そういう風にすることで、ささやかでも何か付加価値が生まれるかもしれないと思えています。

水仙は北半球に広く分布し、英国王立園芸協会にはなんと1万を超す品種が登録されているそうですが、日本に野生に群生しているのはニホンズイセンと名付けられています。私の特に惹かれる花です。

小さな花が可憐な表情で香しく、でも意外にしっかりとした豊かな葉を伴って、冬の寒さの中で凛と立ち、春が近いことを告げているように感じます。豊かな存在感を発揮して繁栄を続けています。そういう日本水仙を私は誇らしく愛おしく思います。



お読みくださり、ありがとうございました。




#国際女性デーによせて


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