黎明の蜜蜂 (第3話)
結菜の口からMMTという言葉が突然出てきたので、真一がちょっと驚いたような顔をして結菜の方を見た。
「お、櫻野結菜も知ってるんだ」
結菜は驚かれることに残念な気もする。つい先ごろまで一支店の若手として日常業務に追われる身だったから、実際MMTの話は偶然聞いたのだが、やはり銀行員としてそういうことには情報通でありたい。
「MMTって、Modern Monetary Theory, 確か日本語訳では現代貨幣理論って言うんでしょ? 何年か前に発表された時はちょっと話題になって、今も賛否両論があるとか」
「私は知りません。告白します。現代の新しい貨幣の理論、という話ですか?」
環奈は、正直は恥ずべきことではないことを示すため背筋を伸ばす。
「うん、MMTの話って、実際的には新しいことなのかどうか分からないとは思うんだけどね」
間島はやや慎重な面持ちで、次の言葉を探した。
「まあ、僕に言わせればなんだけど。でもMMT学者ってのは、今まで人が見過ごしていたところをポンと指摘した感はあるのかな」
「つまり、自分でお金を刷れるなら借金をいくら重ねたって、返済に必要な分だけお金を刷っちゃえばいいんだもんね、確かに!それなら破産の心配はいらねってこと」
「築山くん、そんなのってなんか変だわよ。なんか魔法の杖を持ってるみたいなのって」
環奈は真顔だ。
「何が変なんだよ。だって、その通りじゃん。お金刷れるなら払えるでしょ? 日銀は刷れるのよ」
「でもさ、お金ってそんなものなの?何か直感的に変と感じるわ」
「そんなに頭を固くしないで、もっと理論を素直に受け入れた方がいいんじゃないの?」
環奈と健斗の応酬が続いているところへ、結菜は自分の疑問をぶつける。
「私もね、自国通貨を発行できる政府は、財政赤字に対しては新たに通貨を発行して借金払いができるから債務不履行ってことにならないというのは、理屈としては通っていると思うわ。でも、どんどん財政赤字を膨らませて、どんどんお金を刷って、というかちゃんとした言葉で言うと通貨を発行して、そんなことずっと何も問題なくできるとは信じられないな」
「MMTを張ってる学者は、この理論に‘インフレが起きない限りは’という注釈をつけてはいるけどね」
真一が付け加えて言う。
「インフレが起こりそうになったら、それを抑えるようコントロールすればいいって言うんだけど、まず、そこがね」
真一の発言に、間島はまだ腕を組んだまま続ける。
「だいたい、今までの歴史を見てもインフレが人為的にうまくコントロールできたことなんて、ほんと、なかったという印象だね。財政赤字を思いっきり膨らませておいて、すわインフレだとなったら政策転換してコントロールする、そんな上手い芸当できやしない気がするね」
「で、結局なんですか?そのMMTって実際、国の経済に役に立つ話なんですか?」
環奈はフラストレーションが溜まってきたようだ。
「役立つだろうというスタンスの政治家は結構いるみたいだけどね」
間島はやや憂鬱そうな声になっている。
「そりゃあ、財政赤字はいくら膨らませてもいいのなら、どんどん大盤振る舞いの政策を打てるわけだからね。票につながると思って議員の先生たちはMMT大歓迎になるかも知れないけど」
ちょっと皮肉った相槌を打つのは真一だ。
間島は眉間を固まらせたまま、真一の言葉に反応する。
「結局、国民は政治・政策の良し悪しを判断するのに、自分たちを取り巻く経済状況を一番重視するからね」
「経済を手っ取り早く上向かせるためには、緩和的金融政策と積極的財政政策だという訳で」
「緩和的金融政策と積極的財政政策」
環奈は眉根を少し寄せて、間島の言葉を理解しようとして反芻する。
「つまり、世の中にお金をもっと送り込んで使いやすくし、加えて、公共投資とかして皆が儲かるようにするのね? MMTって、その辺の政策の理論的後押しをしてくれるのね」
「政治家はそこら辺に敏感にならざるを得ない。経済成長率、GDPには敏感にならざるを得ない」
真一はつぶやきを繰り返す。
分かって来たわという顔になって、環奈が結菜の方を向いた。
「だけど、さっき櫻野さんはMMTには賛否両論あるって言ったでしょ? それは何故なの? 誰が賛成で誰が反対してるの?」
「え、と、いろいろな意見があるというのは聞いたけど、何故そうなのかとか誰が賛成でとか詳しいことまでは、正直私はよく分からないわ。確か以前テレビのニュースか何かで、賛成派の政治家が勉強会か何かを立ち上げたとかと言っているのを聞いたことはあるけど」
「高島さんは、MMTについてはどう思っているんですか?」
答えられない結菜の間を受けて間島が質問を涼子に振った。
「じゃあ、私が正解を教えるってことではなく、仕入れた情報から考えたことをシェアするわね」
といって、皆のグラスに目をやる。
「ところで皆のグラスが空になっているけど、お替りは良いの?」
それを合図に皆がてんでにお酒と追加の料理を注文し、テーブルが落ち着いたところで涼子は話を続けた。
「まず、自国通貨を発行できる政府は、いくら財政赤字を拡大しても債務不履行になることはないっていう主張を聞いたとき、私も直感的に何か変な気持ちになったの。それであれこれ情報に当たって自分なりに整理してみたの」
皆の目が涼子に集中している。
「結局、自国通貨を発行できる政府は財政赤字がいくら増大しても、埋め合わせるためにいくらでも通貨を発行できるから破綻しないという理屈はあるが、それはそれに見合うだけの高い経済成長が将来成し遂げられるという条件つきで成立可能な理屈なんだわね」
「それってつまり、例えば日本の政府が経済政策の為にどんどん国債を発行して財政赤字がどんどん膨らんでも、もしその経済政策がうまくいってそれだけ日本の経済成長が高くなれば問題ないってことですか? 反対に経済のテコ入れが効果なくって経済成長に結びつかなかったらどうなるんですか?」
最後の方、環奈は悲鳴っぽい声になる。
「後者の場合には、端的に言えばインフレかな、ハイパーインフレ。日本の第二次世界大戦後もそういうことあったでしょ」
「俺もおばあちゃんから、お金が紙切れ同然になって、お金では物が買えなくなったって聞いたことあるよ、確か。そういえば戦争で国債がものすごく発行されたんだったな。でも、だからMMTにはインフレにならない限りっていう前提があるんでしょ? インフレになりそうになったらすぐ政策転換すればいいって」
築山健斗の意見に真一が突っ込みを入れる。
「そこは、さっき間島さんが言ってた通り、現実にはむつかしいんじゃないの」
涼子はテーブルの上にあった紙ナプキンを広げてボールペンを取り出し、表のようなものを書き始めた。
「これ、岩村充という学者さんが著書『金融政策に未来はあるか』の中で、政府と中央銀行それぞれのバランスシートを統合して解説されていたんだけど」
「へぇ、そういうことできるんですか?」
「そう、中央銀行は政府の子会社みたいなものだから、できるよね」
真一も実は今言われて初めて、企業の親会社と子会社のバランスシートは統合して示す場合があるから政府と中央銀行の場合も同じと思い当たったのだが、ちょっと物知り顔になる。その間に涼子は政府のバランスシートと中央銀行のバランスシートの主な項目を書き出した。
「政府と中央銀行、それぞれのバランスシートの左側(資産の部)と右側(負債・資本の部)の項目を書いのがこれ」
環奈と健斗は入行後の研修に使ったテキストを思い出そうと、視線を上方で左右に動かす。
「『中央銀行自己資本』は中央銀行のバランスシートでは(負債・資本の部)に載せられるけど、政府のバランスシートでは(資産の部)に記載される。だから統合バランスシートでは、会計のルールに従いこの2つの項目は相殺できるでしょ?」
涼子は紙ナプキンに書かれた政府と中央銀行それぞれのバランスシートの(資産の部)(負債・資本の部)から「中央銀行自己資本」という項目を黄色のマーカーで横棒を引いて消す。
それを見た健斗が、すごいもの見つけたぞ、と言わんばかりに声を上げる。
「『中央銀行保有国債』も政府と中央銀行の両方のバランスシートにあるから相殺できるよね」
「そう、それらを相殺すると、出来上がった統合政府のバランスシートはこんな感じ」
そう言いながら涼子は先ほどのバランスシートの「中央銀行保有国債」の項目を、政府と中央銀行両方から黄色マーカーで消す。そして、下向き矢印を書いて、その下に「統合政府のバランスシート」として整理したバランスシートを書いた。涼子の手書きがある紙ナプキンを皆がのぞき込む。
「本では、後で分かり易いように項目ごとにアルファベットをつけてあるわね。(資産の部)に『統合政府債務財源(S)』これは政府のバランスシートに出ていた『政府債務償還財源』のことね。それに『対市中与信(L)』と『金準備等(Z)』の3項目」
皆がついてきているか顔をみて確かめてから、続けた。
「(負債・資本の部)には『ベースマネー(M)』と『市中保有国債(B)』の2項目ね」
そう言いながらもう一度皆の顔を見て、「統合政府のバランスシート」の下に更に矢印を引く。その下に物価水準を説明する四角枠を書いた。
「物価水準というのは名目純債務額と実質償還財源額との比率だからM+B―Lを分母において、分子はS+Z」
「なぜ名目純債務額と実質償還財源との比率が物価水準なんですか?」
「それはFTPLで導き出されるのだけと、式を見て直感的な理解もできると思う」
涼子以外の5人にとってFTPLという言葉は初耳だ。しかしとりあえず直感的な理解ができるならという気持ちで次の言葉を待つ。
「この分数式の分母のBとLは金額が小さい項目だから、式をシンプルにするために消すと、物価水準PはS分の(M+B)でしょ? つまり‘政府の債務と世の中のお金の量’と‘統合政府債務償還財源’の比率だと考えられる」
「あ、つまり実際に政府が持っている‘債務償還財源’に対する‘政府の債務と世の中のお金の量’の比率ってことね!」
「そうか、政府の持っている債務償還財源ということは、つまり税収から政府支出を引いたものだね」
結菜と真一が口々に言うと、築山健斗も続く。
「そこら辺は、一般の家庭でいうと借金を返すために給料から生活費を引いた残りのお金を当てるという感覚と同じだね。でも、一般人は借金返済のために先祖伝来の家宝を売るとかもできるじゃん。政府だって同じでしょ?」
「確かに。政府債務償還財源には、売却可能な国有財産なども含めて考えられるわね」
「じゃあ、やっぱり政府の隠し財産があれば計算に含めるべきでしょ」
「でも、一般家庭と同じく、家宝を売れば一時的に収入となるけれど、たとえ政府に隠し財産があったとしてもどれ程の額になるかしらね。それに、そういう売却益も長い目で見ればやはりそれは一時しのぎではあるわね」
「まあ、そうかも知れないけど」
「ふうん、そうなんだ。確かに、この式を眺めていると“債務償還財源”に対する“政府の債務と世の中のお金の量”が多すぎるとそれは価格水準を上に押す力となるんだってことが分かる気がするわ」
環奈がため息交じりに言うと、涼子があと一つと言って付け足す。
「この式で“債務償還財源”は結局、将来にわたって入ってくると期待できる税収なので、そこがキーだといえるかしら」
「つまり、その期待値によってP、つまり価格水準が決まってくる面もあるんですね」
結菜はもやもやが晴れたように感じて、目を輝かせて言った。
「と言うことはつまり、価格水準と言うか物価水準が低いのは今のところ人々は日本政府が将来、債務を償還できるだけの税収を確保できると“期待”しているからなんだね」
「そうね、物価水準が低い訳は、外国からの安い製品が入るとか、さっき言ってたようなこともあるのだけど、日本の場合この部分も忘れてはいけないと思うわ」
間島の発言に涼子は答える。
「でも、MMTを推している人もいるんでしょう?」
築山健斗の発言に間島が乗る。
「僕の聞いた話だと、いわゆる大御所の学者がヒステリックになってMMTを否定するのは、自分たちが見過ごしてきたところをMMTに突かれたからだということらしい」
「そうね」
涼子は一息つく。
「もしかすると、貨幣の内生説と外生説というのが絡んでいるのかもしれない。ここのところは賛否両論を展開している学者さん達に、それが意見の相違点ですかと確かめたいくらい。でも、さっき言った政府債務償還財源と債務残高の関係については、白川元日銀総裁も在任中に、『中央銀行といえども国債を随意に購入できるわけではない』と言った時の文脈にも含まれていたと思うわ」
「どんなこと?」
「あ、たまたま白川元総裁の言葉を引用した本を持ってるから」
涼子はトートバッグの中から『中央銀行はお金を創造できるか』金井雄一著とある本を取り出しページをめくる。
「ここよ白川元日銀総裁の発言が引用してあるところ」
「ちょっと、読んでください」
「『中央銀行の国債買い入れは一見すると、いくらでも買い入れができるようにみえます。しかし、中央銀行が国債を買えるというのは、通貨、すなわち銀行券ないし中央銀行当座預金という無利子の中央銀行の債務を個人や企業、民間金融機関が受け取ってくれるからこそ可能となるものです』」
「ふうん、世の中にお金を増やそうとして国債の買い入れをするのも、OKいいよって言って売ってくれるところがあって初めてできることなのね」
と環奈が言えば、健斗も実はそういう感想を抱いていたのに、ちょっと偉そうに言う。
「それはそうじゃん、民主主義なんだよ日本は、国債買わせろって強制はできないさ」
上手に出られた環奈が頬を膨らませると、真一が、まあまあと言って宥め、涼子は続ける。
「今は日銀の当座預金にも少し金利はつくみたいだけれど、大筋として白川元総裁の話に影響する変化ではないから、このまま読み続けるわね。『しかし、経済状態が変化しそれに応じて金利水準も上がる場合には、民間部門が持とうとする中央銀行通貨の量も減ってきます。中央銀行による国際買い入れが財政ファイナンス、いわゆるマネタイゼーションを目的としているとみられる場合にも、将来のインフレ予想から国債金利が上昇します。そして、そのようなことが起きる場合には、中央銀行の国債保有量もそれに見合って減らさなくてはならないことになります』」
涼子が読み終わると環奈が一段高い声を上げる。
「あー、私もう、ついて行けてないかも。とりあえず、MMTによると自国通貨を発行できる政府は財政赤字がいくら増大してもOKなんだけど、そうだそうだという人と、んな訳ないっていう人がいる。でも、手続き的には国債を発行し放題にできる国があるとしても、実際は、そんなに単純な話じゃない。経済がそれに伴ってバンバン発展して税金がどんどん政府の懐に入るから、だから償還財源について心配ないとみんなが思っている限りにおいて、という限界があるのね?」
皆がうんうんと頷く。
「で、その賛否両論には、えーと、貨幣の内生論とか外生論とかが関係しているんだか何だかだけど、私の脳は目下アルコールの影響下にあり、もう機能してません!」
「もう十分ポイントをつかんでるよ」
真一が笑うと、皆も破顔した。涼子も微笑んで言葉を継ぐ。
「そうよ。賛否両論の話も学問論争は別として、実務的な観点からは割にはっきりしているわね。MMT擁護派は、財政赤字の増大を怖がって縮こまっていては有効な投資もできず今後の経済発展を阻害すると言いたいのだろうし。懐疑派は国債の発行を‘今だけ特別に’などと言って容認し始めると歯止めが利かなくなり、後で国民がその副作用に苦しむリスクがあると言っているのよね」
真一も感慨深げに言う。
「第二次世界大戦のまえの話だけど、日本の厳しい不況を克服するために時の大蔵大臣、高橋是清は巨額の財政ファイナンスを行ったが、後にその副作用を危惧して縮小しようとした。しかし軍事費の調達をしたい軍部とぶつかり結局暗殺され、日本は軍備拡張、戦争へと突っ込み、戦争末期と戦後はハイパーインフレに苦しむことになった」
「へぇーそうなんだ!そういうことなんだなぁ。でも僕は将来の為に借金を恐れず思い切った投資をする派について行きたいなぁ。それでどんどん経済成長すれば、皆もうかるんでしょ?」
健斗の言葉に、ははは、という笑い声が皆から上がり、そうだね、人それぞれだからと言い合って皆の談笑が続いた。そして、おっ、もう十時を回ってる、もっと他のことも話し合いたいけど今日はまだ木曜だからね、明日に備えてお開きにしようという声と共にそれぞれが立ち上がった。
(第4話に続く)
黎明の蜜蜂(第4話)|芳松静恵 (note.com)