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黎明の蜜蜂(その4)

 駅まで皆で歩いて別れ、電車に乗って乗り換え一回、30分ちょっとで最寄り駅について結菜が自宅に着いたのは午後11時過ぎだった。玄関のドアを開けて目を見張る。玄関の土間には革靴やスニーカーが散乱し、短い廊下の突き当りのドアが開けっぱなしで物の散乱したリビングが目に入った。ひろむ、だ!靴を脱ぐのももどかしくリビングに走り込む。

 椅子が倒れ、食器が床に落ちて壊れており、奥に置かれたソファのクッションもあちこちに飛んでおり、壁には食器ごと食べ物を投げつけたのか茶色い大きなシミとしぶきが広がっている。

 「どうしたの!ひろむ!おとうさん!おかあさん!」
 返事はない。家の中は残骸と共に静まり返っている。結菜はスマホを取り出し、母を呼び出す。10回鳴らしても応答はない。

 今度は父を呼び出す。何度か目で父の声が聞こえた。
 「おとうさん!どうしたの!」
 「結菜か。ひろむが暴れて飛び出して行きよった。母さんが後を追いかけ、父さんはとにかく戸締りだけはしてその後を追ったが、追いつけなくて、二人ともどこにいるか分からん。バス停とか駅とか、いつも行くコンビニとか、心当たりは回ったが。結菜は家に入ったのか?」

 「そう。家の中を見て、そういうことだと思って。おかあさんはスマホ持ってるの?」
 「分からん。母さんはひろむが飛び出した後を追って家を出たから、スマホを持つ余裕はなかったろう」
 「分かった。私も心当たりを探してみるから。とりあえずお父さんとは連絡できるから」
 「そうだな。とにかく何か分かったらお互い連絡しよう」

 結菜は、服はそのままにスニーカーを履いて玄関の鍵をかける。大夢(ひろむ)はどこへ行ったのだろう。駅でもバス停でもコンビニでもないとなれば、大夢の立ち寄りそうなところはどこだろう。

 何の考えも思い浮かばなかったが居てもたってもいられなくなり、とにかく歩き出した。なんだか盲めっぽう歩いているな、と思いながらも足を休めることができない。大夢の顔が頭を離れない。

 大夢は結菜が6歳の時に生まれた弟だ。母が結菜の手を自分のお腹に置いて、この中に赤ちゃんがいるのよ、結菜の弟よと言った日から、弟のイメージを幼稚園や近所の友達の弟と重ねたりしながらわくわくした気持ちで毎日を過ごした。

 結菜には四歳年の離れた兄もいたが、幼いころの四歳の差は大きく、結菜にとって兄はもう大人で遊びやゲームの仲間にもしてもらえなかった。反対に六歳下の赤ちゃんのイメージはかわいらしく愛くるしく、結菜の心に温かな火を灯すのだった。

 しかし次第に母は血圧が高くなり、ついには妊娠高血圧症と診断されて入院した。妊娠高血圧症は昔は妊娠中毒症と呼ばれて、母体だけでなく赤ちゃんにも悪影響を及ぼす怖い病気と聞いて、結菜はひどく心配になった。

 学校の帰りに病院に母を見舞いに行って、言い争う父母の声を聞いた。
 「先生に子供の発達が悪いって言われたんだ。そんな子産んでどうする。無理にお産をして君の体にもしものことがあったらどうする。生まれて来た子も上の子たちも誰も幸せにならないじゃないか」
 だんだん強くなる父の声に、母は涙といら立ちの混じった声で応酬する。
 「そんな子ってなんですか?あなたの子でもあるのに。この子は生きているのよ。私のお腹の中で。あなたはこの子を殺そうと言うの?」

 その後は、感情的になるな、冷静に考えてみろという父の声と、ひどい、あなたがこんな人とは思わなかった、という母の声が重なり高くなり、結菜はそこにいられなくなって走って病院を出た。

 結局中絶可能期間を過ぎ、母体を守るため10カ月を待たずに帝王切開で生まれた子は発育不全の未熟児だった。検診で早い時期から知的障害を持っていることも分かって、母は毎日泣いた。

 そんな母に父は突き放したような言い方をする。
 「泣いて何になる。あれほど言ったのに産むと言い張ったのは君だ。それだけの覚悟もなかったのか」
 そう言われて母は黙り込む。理屈はその通りだが、心が納得しない。
 父の帰りが遅くなる日が増えた。

 母は、何とかしたいと必死で病院、カウンセリング、と大夢を連れて巡り歩いた。その中には保険や公的支援の受けられない自由診療もかなりあったが、母はどこかで誰かから良いと聞いたものは全て試さずにはいられない。父は時々そういう‘治療’に疑念の声を上げたが、耳を貸さない母にそれ以上強く言うことはなかった。

兄は既に小学校高学年から中学生へと成長していったが、小学生の結菜は学校から帰って母がいないと寂しくてしかたがない。
 母にせがんで病院通いについて行ったこともあるが、母はそれよりも学校から帰った結菜には自分の留守の間の買い物や他の家事を期待した。結菜もだんだんと家事は自分の分担というのが身に沁み込む。


 赤ちゃんの時から夜泣きが多くて母を疲弊させた大夢は、幼児になると大変な癇癪持ちになる。
 「この子は音や光や、外界の刺激物に敏感なんだってお医者様に言われた。私たちがなんでもない小さな刺激でも、この子には大変な苦痛だって。だから大きな声を上げたり、暴れたりするって」
 病院から帰った母は疲れ切った表情で言う。

結菜は居間でうつむいてカーペットをただ撫でている大夢が、本当は毎日大変な苦痛に見舞われているのだと知って突然胸が痛くなった。
 「どうすれば良いの?」
 「あまり刺激を与えないようにって」
 「刺激を与えないようにって、どうすれば良いの?」
 「そんなこと、母さんにも分からないわ。だって何が刺激になるのかも分からない。どうしたら分かるかも分からない」

 母は突然涙を流す。肩を震わせている。その時だった。大夢が突然自分の頭を大変な勢いで机にぶつけた。額が角に当たって血が流れた。結菜はとっさに大夢を抱え込む。大夢は驚くほどの強さで抵抗した。母と結菜は泣きながら大夢を抑える。抑えて泣く。大夢は奇声を上げ、そして泣く。

 成長し腕も足も強くなってくると、大夢が暴れだしたら最後誰も手を付けられなくなった。大夢がけがをしないように、家族がけがをしないようにはらはらしながら見守るのが精いっぱいだ。

 その叫び声や物の壊れる音は家の中にとどまらず、ついには近所の家から苦情が入り、そのたびに両親が平謝りをする。危険だと言って警察に連絡が行き、また両親が呼び出される。暴れた大夢を抑えようとして父が手を骨折したのをきっかけに、精神病院に一時入院が決まった。

 大夢13歳。結菜は19歳で大学生。兄は既に就職して東京にアパートを借りて住んでいた。いや、兄は大学に入った時から家を離れている。一流国立大の経済学部生ともなれば家庭教師のアルバイトはいくらでもある。奨学金も貰っているし、十分自活ができたのだ。

 大夢が8歳のころから家を離れている兄は、大夢のこの現状をどこまで知っているのだろう。結菜には兄が現実から目をそらしているように感じられる。しかし両親には、そんなことは言えなかった。兄は両親の希望なのだ。それを知っている兄も塾にもいかず必死に頑張って受験も成功させてきた。
19歳の結菜は兄がこの家の要となって家族崩壊を防いでいるのだと思った。それに比べたら私は何だろう?

                       (つづく)

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