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クリームイエローの海と春キャベツのある家(3/4章)/小説 #創作大賞2023

◆前回のお話
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7.

「またキャベツかぁ」
 冷蔵庫を開けると、今日もごろんとひと玉、春キャベツが入っていた。ひんやりと輝く黄緑色。
 鮮やかだなあと見惚れる反面、同じ食材が続くとレパートリーに限界が来そうで、少し不安になる。視線を感じ、顔を向けると台所のそばに真子が立っていた。

「水飲みたくて。暑くて」
 いつものように表情には乏しいが、おでこが薄ら汗ばんでいる。まだ5月の終わりだというのに、
夏のように暑い日が続いていた。

「あ、これ使って。どうぞ」
 冷蔵庫を閉め、先ほど洗ったばかりの透明なガラスコップに、水を注いで差し出す。

「どうも」
 コップに口をつけてから、何気ない調子で真子が言う。

「パパ、キャベツが好きなんですよね」
 目は、冷蔵庫の扉を見つめている。

「この時期は、毎日のように夕食に出ます。パパの生まれた家は、群馬のキャベツ畑のすぐ近くにあったみたいで。おじいちゃんもおばあちゃんも早く死んじゃったから、私達はほとんど行った記憶はないんですけど。『なんかこの、まん丸いキャベツ見ると、落ち着くんだよなあ』って酔っぱらうと言ってます」

 真子がこんなに話すのは初めてだった。津麦は手を止めて、話を聞く。

「そうだったんですね。ふるさとを思い出すんでしょうか。でも、毎日食べてると飽きませんか?」
 キャベツは白菜と比べて淡白なばかりではなく、やや主張のある味だ。同じ味付けだと、飽きてしまうだろうと思った。
「別に。飽きるけど、パパが、これ見て深呼吸できるなら。いいかなって」
 中学生らしい、すましたそっけない言い方だ。けれど、父親への思いやりを感じる。根はとても優しい子なんだろう、と津麦は思った。

 シングルファーザーの朔也の気持ちなんて、全然分からない、と頭を抱えていた。あまりに立っている場所も、経験も違いすぎると思っていた。けれど、キャベツを見て深呼吸できる人の気持ちなら、分かる気がする。想像できる。
 この息苦しい部屋を初めて訪れた時、津麦が春キャベツに救われたのと同じように、朔也も外につながる窓みたいに、このキャベツが好きなのかもしれない。仕事を終えても、忙しくて息つく暇もないような日常の中で、このキャベツが彼の拠り所なのかもしれない。 
 そういうものって、たった一つでもあるのとないのでは全然違う。ないと困る。きっと窒息してしまう。すごく大事だ。それならば、と津麦は思う。

「それなら、私はそのキャベツですごく美味しくって、エネルギーが出そうなもの、頑張って作りますね!」
 あの人がもっともっと深く、呼吸ができるように。津麦の熱のこもった言葉を聞いて、真子は微かに笑った。



 何の料理にしようか。
 先ほどは反射的に、またキャベツかと思ったけれど、よくよく考えてみたら、キャベツの懐は存外に深い。洋食だと、コールスローやミネストローネ、パスタにも。和食だと和え物やお好み焼き、味噌汁、それからトンカツの脇役の千切りキャベツ。主菜にも、副菜にも、汁物にもなりえる頼もしさ。そういうところも、朔也は好きなのかもしれない。

 考えながら、台所を片づけ続ける。今日は静かだ。カチャカチャとカトラリーや器の触れ合う音が響く。家にいるのは真子だけで、樹子と慶呉は遊びに出ていた。
 片付けが終わると、今回は忘れずに、最初にごはんを炊く。3合か4合か迷って、大工さんもいるから、と4合にした。
 朔也たちが戻れば、津麦はもういい、帰れと言われてしまう。朔也が帰るまでにできるメニューにしようと決めた。

・回鍋肉
・カボチャサラダ
・小松菜と卵の中華スープ

 品数は少ないが、時間内に完成させることを優先した。
 回鍋肉。春キャベツは水分が多い上に、炒め物は時間が経つと、どうしても水分が出てしまいやすい。後から食べるのには、なかなか向かない。けれど、育ち盛りの子供たちと力仕事の大工さんには、野菜と肉が一度にとれるこの料理は、栄養も食べ応えもあるし、夕食に並べたい一品だ。
 水分が出過ぎないように、丁寧に仕上げていこう。キャベツは三角に切って、油を入れた湯にさっと通し、水気を切る。葉の一枚一枚が一層鮮やかに発色する。長ネギとピーマンも切る。野菜と肉は分けて炒める。野菜を短時間で炒め、豚肉は反対にじっくり焼き目がつくように炒める。調味料は合わせておく。作ってすぐに食べるような時と比べて、水分は少なめに、片栗粉は少し多めに。豚肉に調味料を絡めて、野菜を戻して軽く混ぜるだけくらいに、炒め合わせる。みずみずしさが残る回鍋肉ができ上がる。

 朔也が、凛と昌を連れて帰ってくる。
 凛は、つたない言葉で今日保育園でトマトの苗を植えた話をしてくれた。見ると、ズボンのあちこちに乾いた泥がついていた。そして、オムツがふっくらと膨れ上がっている。早く交換した方が良さそうだ。
 昌は、今日も父親の後ろに隠れてひっついていた。けれど、チラチラと上目遣いに、津麦の方を伺っている。よし、と目が合った一瞬、変な顔をして見せたら、昌は、真ん丸に口を開けたまましばらく固まってしまった。

 そんな様子には気づかずに、朔也が言う。
「カジダイさん、今日もありがとうございました」
 いつのまにか、朔也の中で、カジダイさんが定着している。普通は、苗字か、ヘルパーさんって呼ばれるのに。独自のあだ名つけるのが好きな人なのか、なんて考えてしまう。朔也の顔を見ると、顔色がくすみ、無精髭も生えている。髪は艶がなくあちこちにくるくると広がっている。週の半ばの水曜日。すでに疲れが溜まっているんだろう。

「今日も、台所を片づけて、お夕食を作ってあります」
 作った料理の温め方と、今日はちゃんとご飯を炊いたことを話した後、津麦は朔也にこう切り出した。

「それで、今日は折行ってお願いがあります」
「お願い?」
「今日は…その、私に、いつも通りの織野家の夕方を見せて頂けませんか?」
「はぁ」

 相変わらず、朔也は目の下に暗い影を落としている。じっとみていると暗い思考に、吸い込まれそうになる。この影はいつからあるんだろう。奥さんの病気が分かってからか、それとも奥さんを亡くしてからか。悲しみを飲み込んで、その目の下に溜め込んで、自分自身じゃ気づかないふりをして、朔也は毎日仕事に家事に動き回っているのかもしれない。目を逸らしたくなる衝動を抑えて、自分の目に力を込める。

「織野家の、一番忙しい夕方の様子を見学させて頂きたいんです」
 安富さんと話した時、自分に今できることはこれしかないと思った。

「見学ぅ?なんでまた」
「前回、織野様に言われて気づいたんです。恥ずかしながら、私、圧倒的に実生活での家事の経験が少ない。ですから、織野様に何をすれば、日々の家事が少しでも楽になるのか、正直申し上げると…分からないんです。想像もできない」
「それじゃあ…」

「でも、分からないからって、何もしないで、見て見ぬふりをしてその場に突っ立ったままでいるのは嫌なんです。私、せめて、想像できる人になりたい。自分とは違う道を歩んできた人のことでも、想像できる人になりたいんです」
 津麦は必死に頭を下げた。

「本当は、見学とかこんなこと普段はしちゃいけないんですけど、織野様はお電話での事前打ち合わせも毎回ほとんど時間を頂いていませんし、そのカウンセリングの代わりが今回の見学ということにさせて頂きたいのです。私のことは、静かな子どもがもう一人増えたと思って頂けませんか?絶対に邪魔も、手出しもしませんので。お願いします」

「ガキが5人もいて、もう一人増えるのかよ」
「5人も6人も一緒じゃないでしょうか」
「一緒じゃねぇ…!」
 あ、やってしまった。また大人気なく売り言葉に買い言葉を言ってしまった、と思った瞬間。朔也を遮って言葉を挟んだのは、真子だった。

「いいじゃん、パパ。見学くらいならさ。させてあげなよ」
 涼しい顔をしながら、助け船を出してくれたようだ。強気な朔也も、年頃の長女の言葉には弱いらしい。

「真子ぉ。いつの間に、カジダイさんとそんなに仲良くなったんだよ。んーーー、そんならもういい。カジダイさんがいるんじゃなくて、お前の友達がいるんだって思っておくからな?ちゃんとお前が、相手してやるんだぞ!」
「…分かったよ」
 真子はしぶしぶと言った感じで答えた。
「ありがとうございます!!!真子ちゃんもありがとう」

 朔也は家中を、常に小走りしていた。
 まずは、子ども達が保育園で使ったタオルや着替えやよだれかけを、洗濯籠へ持っていく。
 昌はもう一人で出来るけれど、凛には手助けがいる。朔也がリュックから出して、凛が籠まで持っていく。それから、連絡帳のチェック。昌は、今日保育園の昼寝でおねしょをしてしまったと書かれていた。朔也はおねしょしたことには触れず、なんでもないことみたいに昌に指示を出す。
「まさぁー!おしっこついてる着替えは分けて横のバケツに置いておいてくれよー!」

 そして、ベランダの外に干しておいた洗濯ものを一気に取り込む。6人分だから、1日だけですごい量だ。服に、タオルに、シーツもある。洗濯ものは畳む暇はないから、とにかく家の中に取り込んでおくだけ。こうして、海の上にまた一つ洗濯ものの波が立つ。その上を、子ども達は歩き回り、遊び回る。

 朔也は、帰ってきた樹子と慶吾の音読の宿題を聞きながら、食卓を片付け、晩ごはんを作る。
 今日は津麦が作っておいたものを温めてよそうだけだが、いつもは何かしら自分で作っているようだ。炊飯釜を開け、フライパンの回鍋肉を見て、朔也はにやりと口元を緩めた。邪魔だと言われたけれど、晩ごはんを作る手間が省けるだけでも、楽になるのではないか。そう感じられて、津麦は少しだけ嬉しくなった。
 一方で、一連の夕方の家事を眺めてみると、以前の失敗の大きさを実感する。おかずをあたためてよそって、さぁ後は食べるだけだと思いながら、炊飯釜を開けたらごはんがなかった時の落胆ぶりはきっと壮絶だ。しかもあの日は、豚汁だった。
 「米無しで豚汁なんて食えるわけないだろ!!くそっ!!!」といら立っている朔也の姿が目に浮かぶ。その後、腹ペコの子ども達をどうやってなだめたのだろう。申し訳なさが募る。

 朔也は自分の夕食は、かき込むように3分で食べ終えた。子供たちが食べている間に、風呂を洗って沸かす。沸くまでの間に、出来る限り食器を洗って、出来なかった分は、流しに置いておいて。子供たちが、食卓で食べこぼしたものはそのまま。拭く暇なんてない。
 洗濯物の海から、小さな子たちのパジャマやタオルを探し出して、凛と昌を風呂に入れる。風呂から上がったらパジャマを着せて、髪を乾かし、歯を磨いてやりながら、樹子と慶吾に順番に風呂に入れと声をかける。

 真子は、いくつかのことを独り言を言うようにぼそっと教えてくれた。
 「洗濯ものは畳む時間がないから、パパが子供たちを寝かせたあとにハンガーから外してその辺にばら撒いておく。そうしたら、子供たちでも探せるから。たまに疲れてて、外すことができない日もある」。父親のことなんて興味ないという顔をしているのによく見ているな、と津麦は思った。
 他にも「昌は今朝、家でもおねしょをした。ママが死んでから、続いてる」とか、「パパは昌と凛を寝かしつけた後に、明日の保育園の準備、小学生組のプリントの確認、台所の片付け、明日の朝の洗濯の準備なんかをして、限界が来たら寝る」そうだ。

 目まぐるしく過ぎる夕方から夜の時間。
 夏至が近づき、外ではゆっくり空がグラデーションを描くように変わるこの時間も、あわただしい織野家の家の中では、瞬きする間に過ぎていく。
 毎日、これが繰り返される。
 それが生活だ。
 毎日、毎日。

「ありがとうございました。大変勉強になりました」
 子供たちと寝室に入ろうとする朔也に、静かに告げて、メゾン松沢本町を後にした。外は暗く、涼やかな風が吹いていた。忙しなさと騒がしさでいつの間にか火照っていた身体に夜風が心地よい。線路沿いの道のでこぼこを確かめるように1人歩きながら、津麦は、先ほど織野家で繰り広げられていた景色を思い返した。

 織野朔也は、日々、子供たちにごはんを食べさせ、歯を磨き、寝かせている。きちんと。
 確かに、床は足の踏み場もない、ひどい状況だ。けれど、朔也は生活の何もかもを放棄しているわけではないのだ、とふと気づいた。あの人は、あの人なりに必死に、6人での生活を支え、営んでいる。
 それは初めて織野家を訪れた時から、津麦が「理解できない」と言い、見えていなかったことへの答えのようなものだった。

 できていないわけでも、やっていないわけでもない。
 ただ、手のひらの窪みにためていた水が、指の隙間からこぼれ落ちるように、いくつかの家事がこぼれ落ちて行ってしまうだけだ。洗濯ものを片付けることは、きっとそのこぼれた水なのだろう。本当なら、時間があれば、余裕があれば、あの人はきちんとそれをするのだろう。そう思う。ただ、時間も、余裕も、あの人には足りなさすぎるんだ。だから、気付けば水滴が海になっていた。海の中に、大事なものも、厄介なことも、いろんなものが溶けたり、浮かんだりして漂っている。

 その水を、すくえる人になりたい。
 津麦はぼんやりと思った。

 線路の上の空に、クリームイエローの少しだけ欠けた月が、ゆらりと浮かんでいた。


8.

 次の水曜日まで、津麦は具体的に自分に何ができるか、と考えた。安富さんとも電話で話してみたけれど、これ!というものは見つからなかった。安富さんは分かっていても、きっと最後の大事なところは教えてくれない。そういう人だ。

 やはり、最後の砦は織野家のあの台所だ。あそこが一番、織野家の生活の中心にあるような気がする。あそこに、立てば何か見えてくるかもしれない。見て学ぶ、は前回ひとまず完了だ。今日こそ、津麦が家事のプロとして、できることを掴めたら。

 そんな決意を胸に、202号室のベルを押す。
 押した。
 押したのに、一向にオートロックのドアは開かない。スピーカーからも誰の声もしない。もう一度押しても、変わらなかった。
 子供たち、みんな遊びに行っちゃったのかな。そんな日もあるよね。遊びたい盛りだろう。このままここで待ってみるか、それとも朔也の嫌いな電話をかけるか…

 と考えていたその時。スピーカーがONになって、ガチャンガチャン、ドンと大きな音がし、続いてキャッと短い悲鳴が聞こえた。津麦は慌てて、「どうしたの!」と呼びかけるが、返事はない。けれど、オートロックのドアだけは開いた。
 ドアが開くや否や、中に飛び込んだ。ただならぬ様子に、急いで階段を駆け上る。2階であれば走った方が速い。202号室へ駆けつけると、ドアの内側からドシーンという大きな音と一緒に、再び悲鳴が聞こえた。

 ドアに耳を当ててみると、
「やめてよ!」
 真子の声だ。こんなに取り乱している彼女の声は初めて聞く。ドンッ、ゴンッ。壁に何かがぶつかるような、大きな鈍い音も聞こえてくる。
「もうっ、やめてーーーー!!」
 これは慶吾の声だ。

 子どもたちに何かあったのか。怪我をしているのではないか。もしかして、朔也が暴れているのか。まさかあの朔也が。先週目に焼き付けた、家事に育児に奔走している朔也の姿が蘇って、そんな訳ないとすぐに気持ちが否定する。と同時に、安富さんが言っていた「虐待」という言葉が、迫ってきて心拍数があがってきた。
 なんとか中の様子を確かめないと。ドアノブをひねると、鍵がかかっていなかった。人の出入りが多い家だから、時々こういうことがある。津麦は、勢いよくドアを開けた。

「お邪魔しますっ!!
 真子ちゃん?慶吾くん?いる?外にいたら、すごい音がしたんだけど、何かあった?」
 玄関から大きな声で呼びかけてみるが、返事はない。代わりに、何かがぶつかるようなドンっという音と振動と、悲鳴のような泣き声が響く。

「やめてやめて、やめてって!!」
 慶吾が、玄関すぐ横の部屋から後ずさりしながら出てきた。
「慶吾くん!」
 津麦と目が合うと、前髪の間から涙をぼろぼろ落としながら、駆けよってきた。
「助けて。お姉ちゃんをやめさせてっ」

 女部屋で暴れていたのは、朔也ではなかった。樹子だった。トレードマークのツインテールを振り乱し、汗だくになって両手足を振りまわしていた。顔を見ると、いつもは光にあてたビー玉みたい輝いている目が、今日は生気がなくくすんでいる。
 部屋は、本棚が倒れ、割れて色のついていない木材がむき出しになっている。教科書や本も散乱していた。倒れているイスをなお、樹子が持ち上げようとしている。

「待って、待って待って!樹子ちゃん!!」
 津麦は、樹子とイスを一緒に抱きかかえるように止めに入った。イスの脚が、津麦の腹と腕にぶつかる。衝撃のあと、鋭い痛みがあった。それでも、津麦は樹子を止めるのに無我夢中だった。相手がもっと大きな子なら怖かったかもしれない。けれど、樹子だ。つい先日一緒にトランプをした、まだ小学生の女の子だ。

「樹子っ!もう本当にやめてっ!!津麦さん、ケガしてる!!」
 真子の言葉で、樹子はやっと我に返ったように止まった。ケガしてると言われて見ると、確かに腕に擦れた傷ができ、そこからじわっと血が滲んできている。
 樹子は、その傷を見てわっと泣き出した。津麦は樹子の頭をよしよしと、ぎこちない手つきで撫でた。勢いがつきすぎて、自分でも止められなくなってしまっていたのだろう。やっと止まって、安心したんだろう。そんな風に思いながら、撫で続けた。これで少し、落ち着いてくれるだろうか。

「津麦さん、ごめんなさい」
「うぅん、いいの。こんなの。ほんと、かすり傷だから」
 津麦はできる限りの優しい声で言った。それから、聞いて良いものか、それは私の仕事だろうかと思案したけれど、どうしても気になってしまい質問する。

「それでその…樹子ちゃんは、こんな風によく暴れちゃうの?」
「うぅん、こんな風になったのは初めて」
「そうなんだ。…何かあった?」

 樹子はどちらかというと、小学生らしい素直ないい子という印象で、こんな風に暴れるなんて、思ってもいなかった。きっとそれなりの理由があるんだろうと津麦は思った。学校で何か嫌なことがあったとか。ちょっと早い気もするけど、好きな子がいて、その子に彼女ができたとか。そんないつもと違う何かが。
 けれど、樹子の答えは、予想外のものだった。

「今日は、家に一番最初に私が帰って来たの。
 いつも、本当は家に帰るのが嫌だった。どんなに学校で楽しいことがあっても、家に帰ってくると嫌な気持ちになってた。イライラしてた」

「なんで?」

 目を伏せながら、樹子は言う。
「わかんない。私も、なんでこんなにイライラするのか分からない。でも、帰ってきて洗濯ものの中に立ってたら、すごくイライラしてきたの」
「うん」
「こんな家じゃ、恥ずかしくて友達も呼べないんだよなって思ったりして。私は友達の家に遊びに行くのに、友達には来てもらえないんだよ。なんでって、いつも聞かれるの。家がこんな汚いからなんて言ったら引かれるし。言えないし。なんとなく友達ともギクシャクしちゃって、それでイライラしてたのもあって。何もかも、うまくいかないって思ったの」

 あぁ。この子は、家のこと、そんな風に思ってたのか。あんなに明るくて、楽しそうに、なんでもないことみたいに笑っていたから、全然気が付いてあげられなかった。

「でも、パパは凛や昌の世話もあるし、仕事もしてるし、もうこれ以上何かお願いできないってわかってる。私はお姉ちゃんだから。6年生だから。我慢しなくちゃって、分かってるんだよぉ。分かってるのにイライラが降り積もって、どうしたらいいか分かんないの!!」

 樹子の目には涙が滲み、噛み締めた唇は震えていた。
 初めて会った時、あんなにキラキラ誇らしそうに聞こえた「6年生だから」が今日はこんなに辛く聞こえる。この子は今までに何回「6年生だから」「お姉ちゃんだから」と自分を律してきたのだろう。

 再び気持ちが昂る樹子と対照的に、真子が静かに言う。
「その気持ち、分かるよ。私も一緒だよ」

 樹子は肩を大きく上下させながら、ゆっくり真子の方を見た。
「パパには申し訳ないけど、わざと帰るのを遅くするために、本屋で何時間も立ち読みしたりしてたんだ。家に帰りたくなくて。帰ってママはいなくて、こんな洗濯ものだらけの部屋に一人ぼっちで。そんな悲しいことってないの。樹子はイライラするんだね。私は悲しくなるんだけど、たぶん結局同じことだよ。だから、誰か先に帰ってきてくれてないかなーって思ってた。
 でも、そうだよね。樹子だって、慶吾だって同じだよね。ごめんね、私が一番お姉ちゃんなのに、全然二人のこと考えられてなかった」

「僕も」
 慶吾は、言いたいことは全部、真子が言ってくれたとばかりに短く言う。

 その言葉は、家族じゃないと言えないな。津麦はすぐ隣で見ていて、思う。子どもたちだけで、気持ちを伝えあって、励まし合っていて頼もしい。けれど、少しだけ寂しい。

 家の中に入り込んでる、別の誰か、ではやはりダメなのだ。「分かるよ」と言い合えるのは、当事者だけだ。今その言葉は、織野家の家族じゃないと言えない。津麦ではダメなのだ。
 津麦はやっぱりここでも、自分は無力だと一層感じた。一体全体、自分には、何ができるというのだろう。家族でなく、ベテラン家事代行でもない自分が、ただ家に入り込んでいるだけの異物に思えた。
 今日こそ何かを掴みたいと思っていたのに、せっかく見学までして少し近づいたと思ったのに。むしろ遠ざかっていくようで、途方に暮れてしまう。

「言ってよ。話してよ。姉弟なんだよ」
「じゃあまずは、ただいまってちゃんと言って?一人でいても、それが聞こえただけでほっとする。そんで、ただいまって聞こえたら、おかえりって言うようにするから」
「絶対だよ?」
 慶吾は言う。
「ただいま」
「ただいま」
「おかえり、お姉ちゃん。慶吾」

 子供たちの声が、やけに遠くに聞こえた気がした。


 その日帰ってきた朔也へ、かいつまんで樹子の話をした。とはいえ、夕方の時間だ。小さな子ども達もいる前では、なかなかじっくり話すことはできなかった。けれど、無残に割れてしまった本棚を見て、朔也は黙り込んでしまった。その後津麦が帰るまで、ずっと頑固に黙り続けていた。

「帰り際に、何か私にできることがあればお手伝いしますと、パパにはお伝えしたんですけどね」
 子ども達のことで何かあれば、必ず伝えるように言われていたので、翌日津麦は安富さんに電話をかけ、事の顛末を報告した。朔也の様子に不満がなかったかと言えば嘘になる。どうしても愚痴っぽくなってしまった。
「そうでしたか。樹子さんが…。今回は、それで良いと思います。また何かご家庭で話し合いがされたら、織野様から連絡があるでしょう」
「分かりました。連絡を待ちます」

 ここからは報告ではないのだが、と思いながら、結局は聞いてほしくて、津麦は口に出してしまう。
「けど、やっぱりダメですね。子ども達はすごいですよ。分かるよって言い合えるのは当事者だけです。今回の場合は、家族だけ。子ども達に対しても、私って結局何もできないのかもって思っちゃいました」
 最近安富さんには、情けない声ばかり聞かせてしまっている。

「そうですか」
 安富さんが、少し電話の先で考えるように間を置いて言った。
「でも私は思うんですが、樹子さんは、津麦さんが来る日だとわかっていて、そういうことをしたんじゃないですかねぇ」

「え?」
 思ってもみなかったことを言われ、驚いた。
「だから、エントランスのドアは開いたのではないですか。私は開けたのは、暴れていた樹子さんご本人のような気がします」
「なんでそんなこと…」
 津麦は思ってもいなかったことを言われて、絶句した。
「その場にいてほしかったのかもしれないし、止めてほしかったのかもしれないし、見届けてほしかったのかもしれませんね」
「…そのくらいなら、私にも出来たかもしれません」

「そうですよね。家族だからこそ、言えないことってあると思うんですよ。一番身近な人だからこそ、気を使い合って、言いたいことが言えないってこと。津麦さんにはないですか?」
 ないも何も、母にはこの家事代行をしてることさえ言えていない。と思いながらここでそんな話をする気にもなれなくて、津麦は、「はあ」と曖昧に返事をした。それを安富さんは、肯定と見抜いたらしい。

「そうですよね。現にこれまでは、樹子さんは家族だけの場では言えなかったんですから。そこに、津麦さんという第三者が入ってきて、言ってもいいのかなと少し、思えたんだと思いますよ」

 それなら、少しは自分があの場にいた意味はあったのか。真っ暗だった場所に、光が差したような気持ちになった。

「前に、家事では劇的な変化は起こせないって、言ったじゃないですか」
「これは、劇的でしたか?」
「悩んでて誰にも言えなかったことが言えるようになるって、その人にとっては大きな変化ですよ」
「数億のお金は動きませんが?」
「お金の多少じゃないです」
 少し前の自分に言い聞かせているみたいだ、と思った。前職と比べて、家事代行なんて、と思っていた自分に。自分が捕らわれていたものが、目の前から消え去っていく。一方で、今まで自分の中にはどこを探しても見当たらなかった、覚悟と名のつくようなものが、少しずつ集まってきて形を成し、固まっていくような感覚を覚えた。

「あの時私は、“家事代行はたった一度で、人の価値観を変えてしまうような、劇的なものではない”と言ったんです。たった一度では無理でも、諦めて終わらせてしまわなければ、少しずつ変化は起こるのかもしれませんね」

 自分は掬いあげられるのだろうか、と津麦は思う。
 織野家の人たちが、落としてしまったものを、少しずつでも。

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